とある思いこみ、もしくは見破り
2010年03月29日
先日、母と雑談してまして、こんな話になりました。
私「この前、ある日から突然パチンコしたくてしょうがなくなってさー」
母「ダメだよ!あんたはしちゃだめ!」
私「あのねー、タバコといいパチンコといい、自分はしてるくせに娘には禁じるって、どんなですか!(笑)」
母「あーいうことは、知らないにこしたことはないの!あんたはしちゃだめよ。」
私「あーはいはい、わかってますよ。てゆーか、そんなことしたら師匠にバレバレっちゅーねん。」
母「で、話のつづきは?」
私「ああ、そうでしたそうでした。いきなりパチンコしたくなってね、パチンコ屋通るたびにものすごく入りたい、パチンコしたい!って思いになったんですよ。この賭け事大嫌いな私が。
それでずっと我慢してたんだけど、あんまりしつこいもんだから、新しくできたあそこ、あそこを通ったときに、『この誘惑の正体はなんだ!』とばかりにイメージしてみたのね。」
母「ふーん。で、なんか見えたの?」
私「あれはビビッたね。パチンコ屋の入り口の駐車場で、超でかい真っ黒な手がおいでおいでしてた。」
母「・・・・・・・ちょっと。それ、ただの想像にしてはやけに気持ち悪いわね!」
私「でしょ?エグいでしょ?たぶんアレ、パチンコしてる人達の欲望の塊の象徴なんだろうね。」
母「で、どうしたの?」
私「ほら、《正体が見破れたら半分はこっちのもの》っていうじゃない?だから、その真っ黒な手に怒鳴りつけたよ。
お前の正体はバレたぞ、私はお前の誘いには乗らん!て。
そしたら、あれだけパチンコしたかった衝動が、腹の底からスゥーッとぬけていったとよ。」
母「ふーん。そんなこともあるんだねぇー。でも、波長同通ってゆーから、あんたもなんかひっぱるようなこと考えたんでしょ?え?」
私「バレた?(笑)いや、毎日あそこ通るたびにあんなにパチンコ屋に人が出入りしてるもんだから、暇なときはすこしは暇つぶしになるのかなぁ、楽しいのかなぁと、うっすら思っちゃったんだよね。
そのときの私の思いが波長同通でおいでおいでを呼んだみたいですな。」
母「もう、気をつけなきゃダメよ!」
私「ぱーい」
そんな会話の次の日の午後、かーちゃんから電話がかかってきました。
「あんたの話きいたあと、面白いことがあったよ!」
ときどき私、へんにお腹すくじゃない?それで、朝もおとうさんが会社にいったあとそんな感じになって、朝ご飯食べたのに、お腹空いてお腹すいて、なにかないかってあちこちさがしてたの!
でもそのとき、あんたの話思い出してね、あ、これはどうもおかしいぞ、正体はなんだ、と思ったのよ。朝ご飯食べたから私はお腹すいてるはずない。これは餓鬼だ。そうに違いないって。
で、思い切り怒鳴ったのよ。この餓鬼め!お前のかわりになんか食べてやらないぞ!私の体からでていけ!って。
そしたら、あれだけ食べたかったのがスゥーッと落ち着いたのよ!もう全然食べたくないし、気持ちもなんか軽いしね!あれが《見破る》ってことなんだねー。
ええ、わかってますよ。これが単なる思いこみでも全然かまわないんです。要は、いかに自分でプラスな方向性で納得できるかということですから。
なるべくプラスな気持ちでいたいですよね!
その前段階としてマイナスな思いとは早めにケリつけておさらばしたいものですね。
私「この前、ある日から突然パチンコしたくてしょうがなくなってさー」
母「ダメだよ!あんたはしちゃだめ!」
私「あのねー、タバコといいパチンコといい、自分はしてるくせに娘には禁じるって、どんなですか!(笑)」
母「あーいうことは、知らないにこしたことはないの!あんたはしちゃだめよ。」
私「あーはいはい、わかってますよ。てゆーか、そんなことしたら師匠にバレバレっちゅーねん。」
母「で、話のつづきは?」
私「ああ、そうでしたそうでした。いきなりパチンコしたくなってね、パチンコ屋通るたびにものすごく入りたい、パチンコしたい!って思いになったんですよ。この賭け事大嫌いな私が。
それでずっと我慢してたんだけど、あんまりしつこいもんだから、新しくできたあそこ、あそこを通ったときに、『この誘惑の正体はなんだ!』とばかりにイメージしてみたのね。」
母「ふーん。で、なんか見えたの?」
私「あれはビビッたね。パチンコ屋の入り口の駐車場で、超でかい真っ黒な手がおいでおいでしてた。」
母「・・・・・・・ちょっと。それ、ただの想像にしてはやけに気持ち悪いわね!」
私「でしょ?エグいでしょ?たぶんアレ、パチンコしてる人達の欲望の塊の象徴なんだろうね。」
母「で、どうしたの?」
私「ほら、《正体が見破れたら半分はこっちのもの》っていうじゃない?だから、その真っ黒な手に怒鳴りつけたよ。
お前の正体はバレたぞ、私はお前の誘いには乗らん!て。
そしたら、あれだけパチンコしたかった衝動が、腹の底からスゥーッとぬけていったとよ。」
母「ふーん。そんなこともあるんだねぇー。でも、波長同通ってゆーから、あんたもなんかひっぱるようなこと考えたんでしょ?え?」
私「バレた?(笑)いや、毎日あそこ通るたびにあんなにパチンコ屋に人が出入りしてるもんだから、暇なときはすこしは暇つぶしになるのかなぁ、楽しいのかなぁと、うっすら思っちゃったんだよね。
そのときの私の思いが波長同通でおいでおいでを呼んだみたいですな。」
母「もう、気をつけなきゃダメよ!」
私「ぱーい」
そんな会話の次の日の午後、かーちゃんから電話がかかってきました。
「あんたの話きいたあと、面白いことがあったよ!」
ときどき私、へんにお腹すくじゃない?それで、朝もおとうさんが会社にいったあとそんな感じになって、朝ご飯食べたのに、お腹空いてお腹すいて、なにかないかってあちこちさがしてたの!
でもそのとき、あんたの話思い出してね、あ、これはどうもおかしいぞ、正体はなんだ、と思ったのよ。朝ご飯食べたから私はお腹すいてるはずない。これは餓鬼だ。そうに違いないって。
で、思い切り怒鳴ったのよ。この餓鬼め!お前のかわりになんか食べてやらないぞ!私の体からでていけ!って。
そしたら、あれだけ食べたかったのがスゥーッと落ち着いたのよ!もう全然食べたくないし、気持ちもなんか軽いしね!あれが《見破る》ってことなんだねー。
ええ、わかってますよ。これが単なる思いこみでも全然かまわないんです。要は、いかに自分でプラスな方向性で納得できるかということですから。
なるべくプラスな気持ちでいたいですよね!
その前段階としてマイナスな思いとは早めにケリつけておさらばしたいものですね。
スピリチュアルと感謝
2010年03月29日
最近流行ってますね。スピリチュアル系。
私も大好きですよ。前世とかパワースポットとか。
でも、一つ疑問があるんです。
それは最近のこのスピリチュアルブームは「御利益信仰」に傾きすぎているのではないかということですね。
このパワースポットにいくと運気があがる。
このパワーストーンは◎◎に効果がある。
私の前世は◎◎だったらしい。それは仰有るとおりです。
ただ、そこには大前提として
「神仏やさまざまな意識体(鉱物や地脈も過去世も独立した意識体です)からの加護をいただくという感謝」
がとても大切なのではないかと思うのです。
この「感謝」を忘れてはいけないと思うのです。
神道や仏教、キリスト教ではつねにこの「感謝」が大前提としてあります。
大いなる神や仏、自然への感謝と畏敬。感謝から自らの分を知ること。
それは本来宗教ではなく、ごく日常的な道理なのかもしれません。
他人様からなにかをしていただいたら、「ありがとう」と言うこと。親が子供に最初に教える在り方ですよね。
パワースポットにいったとき。
パワーストーンに。
自分の過去世に。
また、すべての縁ある御存在に。
「ありがとうございます」
を、お伝えしてみませんか?
あるお医者さんの話で、こんな話があります。(お医者さんの名前忘れました。ごめんちょ!)
長年医者をしていて気付いたこととして、自分が受け持っているある疾患の重病患者は、共通の傾向として「ありがとう」を言わないのだそうです。
普通の人間ならここまでされたらまずありがとうと言うだろ?というときにも「自分がいかにつらいか」という思いに支配されていて、「ありがとう」という言葉が普通の人と比べてとてもすくないし、言っていても心のこもっていないなおざりの言葉なのだそうです。
そのお医者さんは重病患者の方々にまず、「自分の病気にあまり気持ちをとらわれないこと」そして「寿命が決まっているのなら、いままでお世話になった方に心から感謝してはどうか」とすすめるそうです。(今までお世話になった方に感謝の手紙を書かせてたと思う)
そしてあくまでそのお医者さんの体験談ですが、「ありがとう」の言葉を素直に心からいえるようになった患者さんは、突然あり得ないくらいに回復したり(末期が全快したりとか)、病状では薬でも抑えられないくらいの苦痛なのに他の患者さんと比べて苦痛の感覚がすごく緩和するそうです。
宗教がいう「拝めば病気が治る」というのは、案外このような作用も多いのかもしれませんね。もちろん契約した神仏の加護の力もあるとはおもいますが、やはり一番作用がつよいのは神仏の加護のパワーを受ける器をひろげるものでもある信仰という形での「感謝」なのかもしれません。
スピリチュアル(霊性・精神性)への社会的認知度があるていど復権しつつある今だからこそ、
感謝という精神、奄美古来の「とうとがなし」の精神を大切にしたいですね。
なーんて、アマたんのつぶやきですた。
(o‘∀‘o)
私も大好きですよ。前世とかパワースポットとか。
でも、一つ疑問があるんです。
それは最近のこのスピリチュアルブームは「御利益信仰」に傾きすぎているのではないかということですね。
このパワースポットにいくと運気があがる。
このパワーストーンは◎◎に効果がある。
私の前世は◎◎だったらしい。それは仰有るとおりです。
ただ、そこには大前提として
「神仏やさまざまな意識体(鉱物や地脈も過去世も独立した意識体です)からの加護をいただくという感謝」
がとても大切なのではないかと思うのです。
この「感謝」を忘れてはいけないと思うのです。
神道や仏教、キリスト教ではつねにこの「感謝」が大前提としてあります。
大いなる神や仏、自然への感謝と畏敬。感謝から自らの分を知ること。
それは本来宗教ではなく、ごく日常的な道理なのかもしれません。
他人様からなにかをしていただいたら、「ありがとう」と言うこと。親が子供に最初に教える在り方ですよね。
パワースポットにいったとき。
パワーストーンに。
自分の過去世に。
また、すべての縁ある御存在に。
「ありがとうございます」
を、お伝えしてみませんか?
あるお医者さんの話で、こんな話があります。(お医者さんの名前忘れました。ごめんちょ!)
長年医者をしていて気付いたこととして、自分が受け持っているある疾患の重病患者は、共通の傾向として「ありがとう」を言わないのだそうです。
普通の人間ならここまでされたらまずありがとうと言うだろ?というときにも「自分がいかにつらいか」という思いに支配されていて、「ありがとう」という言葉が普通の人と比べてとてもすくないし、言っていても心のこもっていないなおざりの言葉なのだそうです。
そのお医者さんは重病患者の方々にまず、「自分の病気にあまり気持ちをとらわれないこと」そして「寿命が決まっているのなら、いままでお世話になった方に心から感謝してはどうか」とすすめるそうです。(今までお世話になった方に感謝の手紙を書かせてたと思う)
そしてあくまでそのお医者さんの体験談ですが、「ありがとう」の言葉を素直に心からいえるようになった患者さんは、突然あり得ないくらいに回復したり(末期が全快したりとか)、病状では薬でも抑えられないくらいの苦痛なのに他の患者さんと比べて苦痛の感覚がすごく緩和するそうです。
宗教がいう「拝めば病気が治る」というのは、案外このような作用も多いのかもしれませんね。もちろん契約した神仏の加護の力もあるとはおもいますが、やはり一番作用がつよいのは神仏の加護のパワーを受ける器をひろげるものでもある信仰という形での「感謝」なのかもしれません。
スピリチュアル(霊性・精神性)への社会的認知度があるていど復権しつつある今だからこそ、
感謝という精神、奄美古来の「とうとがなし」の精神を大切にしたいですね。
なーんて、アマたんのつぶやきですた。
(o‘∀‘o)