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夢と破滅~洒落怖より

2010年05月23日




845 本当にあった怖い名無し sage 2010/05/18(火) 19:14:05 ID:oJZHFBsh0
史実系で霊はでません。あしからず。

あるところに一人の大富豪がいた。
大富豪は開拓という夢をもっていた。
丁度その頃海を隔てた向こうに安い土地があった。
大富豪はそこに移住した。
平山地(平地に山が一つか二つポツネンとあるような土地)に目をつけた。
山はそれなりにおおぶりで小川。
その開拓先の国というのは首都がスラムだらけのところだったけど。
そこは広々とした平原に田畑が広がり。
住民は木製の小屋を立てて、質素ながらも生産的な暮らしていた。
大富豪はその村の人全員を集めてこういった。
「税金でもっていかれる部分以外の穀物を私に独占的に商わせてほしい。
 そのかわりに、私はこの近くに鉄道を誘致しよう」


846 本当にあった怖い名無し sage 2010/05/18(火) 19:15:27 ID:oJZHFBsh0
住民達は嘘ばかりつく国をみてきていたから
「駅ができたらその話にのろう」といってきた。
大富豪は計画が難航していた鉄道の建設に無償融資(隣の駅からこの場所~そして次の駅まで線路を引く全額)を行った。
国は約束をまもり一部路線をじゃっかんずらしてくれて、駅が出来た。
住民達は大喜びで大富豪の会社に穀物の独占販売権を与えた。
次に大富豪は住民達の同意のもと村もろともその周囲の広大な土地を買った。
住民達は彼ならばやってくれると期待していた。
近隣の山六つを中心に360度、地平線の彼方までが彼の土地となった。
次に彼は買った土地を買った値段より安く売り始めるようになった。
彼が買う前、そこは国有地で、住民達は不法労働という咎をとがめられない代わりに重税を敷かれていた。
住民達は穀物を打った金で自分たちの土地を手に入れ、重税はなくなった。
住民達は彼をたたえ、村で唯一の金物師に錫と銅をわたし、彼の銅像をつくらせた。
大富豪はそれを一瞬たりと直視できなかったという。
チラっとみて真っ赤になって、以後その銅像のある場所にはよりつかなくなったそうだ。


847 本当にあった怖い名無し sage 2010/05/18(火) 19:16:48 ID:oJZHFBsh0
しばらくして、大富豪は豪は人口密集地にばかり立つ学校に疑問をかんじていた。
その国の人口密集地とは、その国を食い物にしてきていた、王朝関係者の影響力がつよいところばかりだった。
土地の多くも彼らのものなら、その土地の上に住まう人たちは、彼らから稼ぎをピンはねされ、とても学校にいくゆとりはなかった。
つまり、彼らの影響下から脱することこそが、勉強をするより前に必要だとおもっていた。
肥沃な土地ならまだまだある。ならばあとは学校があればいい。
その国の言葉と日本語の双方を話せる教師を探した。
算数、理科、英語まで教えられる人が大富豪の名望に夢を抱いてやってきた。
そのほかにもその国の言葉はできないけれど、音楽や美術などなら教えられ、熱意もあるという人も雇った。
大富豪はその村の人口がまるごと収容できるような学校を建てた。
しかし彼は宣伝を一切しなかった。
彼は頭のいい人ほど、忙しくとも、情報に耳をそばだてることはやめないと思っていた。
はたして彼の思惑は成功し、ちらほらと小作人希望者がやってきた。
大富豪は彼らを迎え入れた。多くの小作人達の収入は十年後には以前の倍となった。
また彼らのつれてきた子供達は勉学をまなんだ。

この頃から少しづつこわれてきた。
度々、村の住民でない、裕福なその国の人たちがやってくるようになった。
彼らはぼうっきれを武器にして学校に討ち入るなどをしはじめた。
かれらはその国に昔あった王朝の関係者達だ。
彼らのもとから逃げ出した小作人達が幸せそうにくらし。
その子供達が学問を学んでいるのが恐ろしかったのだ。
将来、自分たちの権益をおびやかすとかんがえていたのである。
この人たちは大富豪の母国のことを悪くいうようになっていった。
電車の駅があることが災いした。
穀物庫に火をつけられるのはきまって列車の発車時刻より少し前。
人口の少ない村は官憲も少なく。暴徒相手には無力だった。
この暴徒は後に独立運動家とよばれたたえられる人たちである。
大富豪は三つ目の穀物庫がやかれたとき延焼をくいとめるための打ちこわしに参加し。
たおれてきた木材の下敷きになって死んだ。


848 本当にあった怖い名無し sage 2010/05/18(火) 19:20:57 ID:oJZHFBsh0
大富豪には息子がいた。
大富豪の息子は村の学校を出たあとに高等学校にいってきたが。
かえってきたのは十三歳というわかさでのはなしだった。
卒業こそしていないが高等学校からは「彼に教えられることばかりだった」という添え状があったそうだ。
その彼は頭はいいが、大変かわりもので活用する気力がかけていた。
当年20歳になるまで七年間、各地を歩き回って写生を行う芸術家を志す人でもあった。
彼は大富豪の残したノートから大富豪が抱いていた夢を理解し、それをひきついだ。
悲嘆にくれる村人達は日本式の神社を模した小さな社をつくってくれていた。
そこに集っていた村人達のもとへと出向き、こういった。
「あなたがたは父を実の父と同様にあつかってくれた」
すると小作人や村人達はこう言い返した。
「いいえ、ここにおわすのはかみさまです」
「いいや。君達は私の魂の兄弟だ。君達の魂は父の子だ。
 父が残した遺産のうち独占販売権をみなさんにあげよう。
 そしてあらためて言いたい。私にそれを売ってくれ。」
学問を学んだ村人達のうち何人かはこの青年がなにかをする気だとさとった。
「では私はそのおかねをあなたに捧げます。」
結局もとの木阿弥であったが。青年は混乱する村の収拾をみごとにやりとげた。


849 本当にあった怖い名無し sage 2010/05/18(火) 19:23:08 ID:oJZHFBsh0
青年は村人が集まる集会をひらいていった。
「君達は父をかみさまだといってくれた。
 今度は君達がかみさまになる番だ。
 私はこれからこの国の貧しいところで苦しんでいる者のうち
 君達と同様に才能のある人たちをあつめてこようとおもう。
 最初のうち彼らは君達の手助けなしではやっていけないだろう。
 しかし、私も手を貸す。一緒にやってくれ」
物議をかもしたものの、村人達は納得した。
そして何名かの村人が選抜された。
青年は手に職があり、なおかつ、貧しいもののうち
特にこどものいる家族をつれてくるように言った。
村人達には旅賃があずけられ、彼らは方々に旅立っていった。


850 本当にあった怖い名無し sage 2010/05/18(火) 19:25:15 ID:oJZHFBsh0
その旅立ちから数年後、村は町になりつつあった。
大富豪の残した土地のうち森の傍には伐採場ができあがり。
また、良い土が取れる場所のすぐ近くにはため池がつくられ。
藁を混ぜた頑丈な粘土が大量に生産されていた。
その粘土が村人達の木製の小屋を補強して、見場はがらりとかわっていった。
その補強などを手伝ったのは、青年が各地からあつめてさせてきた、貧しい職人達であった。
父親があつらえた、豊富な食料生産力を持つ村を、彼が町にかえていく事業だった。
発展ぶりがみとめられると武装警官の数も増員され。
駅には常にテロリストの乗降を監視する目が光るようになっていた。

こうなってくるとほかの株式会社もだまってはいない。
駅がとまるし村には学校もあって、日本語の読み書きも、現地語のよみかきもできる人材がいるのである。
しかも食糧事情のゆたかさから村にはたくさんのこどもがいた。
青年のもとには面会がひっきりなしにおとずれ。
彼は父が残してくれていた土地を安価で提供し。
町の形態をとりはじめた村のすぐ近くに工場などがたちはじめた。
そしてそこで働く日本人従業員を対象とした商店なども誘致されだす。
町にはいくつもの近代建築がならぶようになっていった。
区画整理がはじまるようになると、村人達の農場はつぶさざるをえなかったが。
このとき村人達は大金を手にして、
町のもっと郊外にもっと大きな農耕地を手に入れた。
若干この立身出世から脱落者も出たが、村人の多くが一代でのし上がった。
青年の銅像が大富豪の銅像の横に築かれた。
村人達が交代交代で働き、日本式の神社の神殿のみが築かれた。


851 本当にあった怖い名無し sage 2010/05/18(火) 19:29:13 ID:oJZHFBsh0
…二代がかりの夢はなった。大富豪は自分で町をつくってみたかっただけだ。
彼は江戸開拓事業の頃の文書を愛読書にしていたらしい。
青年は世界中にまだない町を描けるというのがおもしろそうだからやっただけだった
まだまだ発展途上の町を青年は描いた。その町がモデルとなる最初もその次も描き捲ったそうだ。
この青年は後に西洋を中心に人気のある写実主義の日本画家として名を残す人物である。

その後不幸がおとずれる。
そして日本は負けてしまった。
このころテロリスト達が大挙して押し寄せたが。
村人達はすでに二代つづけてのカミサマの熱心な信者だった。
彼らは農耕器具を武器にしてテロリスト達にたちむかい撃退した。
青年とその家族は彼らの護衛のもと釜山港におちのび。
そして泣きじゃくる村人達にみおくられて朝鮮を去った。


852 本当にあった怖い名無し sage 2010/05/18(火) 19:38:58 ID:oJZHFBsh0
その後村人達は苦難の道を歩むことになる。
テロリスト達はまず自分たちが悪徳な日本人を追い出したと主張した。
彼らは逃げ遅れた日本人を襲撃して殺し犯し、その遺産を支持者と山分けにする形で。
目先の利益でつって支持者をかためた。やっていることがやっていることなので彼らはたちまち金持ちになった。
具体的な資金が発言力につながり、日本人たちが発行していたハングルの文書の摘発に動いた。
そこには彼らが李氏朝鮮の王朝系の流れをくむ反体制派であることと、その犯罪行為が描かれているからである。
また現地にあった出版工場を接収して自分たちにつごうのいい本を刷らせるようにした。
このとき、町の学校はハングルの教科書の引渡しを拒んだために、たてこもりをきめた児童や村人ごと焼かれた。
こうなるともう都合が悪い。支持者以外の村人も全員殺すことになった。
そして町はテロリスト達が自分たちのものとして分け合った。
わずかにこの虐殺から逃れた人たちは手元の資金をかきあつめた。
そして、天国から地獄に転落した母国を捨てる決意をして済州島にわたった。
そして密航という手段で日本にやってきた。私の祖父もその一人である。
彼は残念ながら帰化できずにおわったが私の父は日本人だ。もちろん私も。

私の父は青年を探し出した。彼は老人となっていたらしい。
この話がここまで詳細に描けるのも彼が大事にしていた大富豪と自身のノートをみせてもらったからだ。
その後父の信仰フィルターがかかっているので事実と若干違うかもしれないがあしからず。

父は町がたどった悲惨な歴史を語り。世に訴えるべきだと説得したらしい。
「やりたい人がやればいい。父も私もどうも目立つのは嫌いでね。
 たとえばね。せっかく画家になれたのに作品はほとんど眠らせてあるんだ。」
彼の人柄を物語るのはこれが事実であることだ。
彼が有名となるのは彼が死んで、その遺族が貯めていた作品を公開してからである。


私は日本人として、昨今の政治事情を憂慮する。
身を削らずに、ペラペラとしゃべるひとほど、クローズアップされるのがそもそも問題だ。
身を削る指導者のもとで、壮大な夢を追った者の子孫の一人として言う。
有名無実は害をなす、無名有実は益をなす。


853 本当にあった怖い名無し sage 2010/05/18(火) 19:56:41 ID:oJZHFBsh0
おっとその町のその後。

有名無実のゲスどもの足の引っ張り合い(韓国VS北朝鮮)の最中に焼き払われた

  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 12:42Comments(0)聞きかじり・読みかじり

吉田松陰の詩~弟子たちに送ったメッセージ

2010年05月07日




志を立てるためには

人と異なることを

恐れてはならない

世俗の意見に

惑わされてもいけない

死んだあとの業苦を

思いわずらうな

また目前の安楽は

一時しのぎと知れ

百年の時は

一瞬に過ぎない

君たちは

どうかいたずらに

時を過ごすことの

ないように   


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 20:46Comments(0)聞きかじり・読みかじり

病気平癒に有効な雑学

2010年05月06日

半分宗教ネタです。イヤな人はこちらで回れ右してちょ。(・∀・)

昔、八重歯がステキなある精舎の館長(前回の衆院選挙ではひときわしぶかったっす)が言ってたことを思い出した。

大川総裁が「絶対健康法」で古代エジプトの肉体再生術をとりあげていたことについて、実際に16世紀の医学者でヘルメス主義思想家のパラケルススが述べているという。以下小林館長の受け売り。間違ってたらツッコミお願いします。うろ覚えなんで。

パラケルススいわく、古代エジプトの肉体再生術も含めた治療の背景として、なんでも人間の体には二つの「天国につながる窓」があるという。

一つは心臓、ここから体を維持するのに必要な血液が流れる。もう一つは脳、ここから体を動かす神経が流れている。神の光は脳下垂体?(眉間のチャクラの真裏?)から信仰心によって増幅され、神経の末端にながれ、神経を復活・再生させるパワーとなる。(パラケルススは16世紀の著書で「現代人の脳下垂体は古代エジプト人よりかなり退化している」と指摘している。古代エジプト人の神を信じる心が常識レベルだった宗教レベルの高さと、16世紀にはすでに信仰心が形骸化していることが及ぼす脳下垂体への影響を嘆いているわけ)

心臓からはいった神の光は膵臓?脾臓?どこかの臓器(ここでエクトプラズムがつくられる)を通じてイメージを現象化させるパワーとなり、血液を通じて細胞復活・再生の原動力となる。

どちらにしても、大切なのは「信仰心」と「神の光によって細胞が復活・再生する確信」だという。それが神の光を患部にはこび、患部に再生をうながす働きを劇的に高めるのだという。

大川総裁は復活・再生術は神官がピラミッドのなかでしていたと述べておられるが、やはり神官(出家者)の祈りと神の光を増幅する宗教施設(ピラミッド)は大事なのだろう。

ピラミッド自体に宇宙エネルギーを集める作用があるのはもう周知の事実ですけどね。つーか、ホントはピラミッドだけじゃなく、セーマンやヒランヤのように均整のとれた正多面形そのものに宇宙エネルギーが集まりやすいだけなんすけどね。イスラム教のあの飾りもそう。ただの飾りじゃないんですね。宇宙エネルギーそのものが神の念いであり神の愛であり神の光であるっつーのはもう説明不要ですよね?

鉱物のパワーをつかっていたと書いておられるが、これは多分水晶だろうと思う。古代より宗教儀式にはほとんど水晶がつかわれている。水晶は仏神の光を増幅・中継しやすいらしい。ピラミッド型や五鈷杵の形など、意味づけされた水晶なんかもう相当つよいんでしょうねー(余談ですが東京正心館の法輪の周りに埋め込まれた水晶、すごくキラキラして綺麗ですね)

しかし、一年ほどで欠損した腕や内臓まで元通り生えたというのだから、人間の本来もつ自己治癒パワーはすさまじい。

古代エジプト思想っつーかヘルメス思想っつーか、古代アトランティスの智慧ってすげー。

しかし現代はすげー歴史の揺り返しなので、なにげに古代の叡智(パワーストーンやアロマ)をフツーに使ってるから人間の記憶はあなどれない。

しかしここで一番重要な要素として「神への信仰心」があるのがポイントですね。神への信仰心とは「プラスの存在とそれによる加護の絶対的確信」ということですから、ある意味究極のプラス思考なんですね。

ガンや難病が宗教すると治ったとよく聞くのも、あれはウソでも宣伝でもなく、そういう部分では「当然」なんですね。神仏のパワーもありますが、やはり「神仏のパワーを確信する」ということが、一つの「鍵」になり「扉」になり「受信機」になるんですね。

なのでこういっちゃ元も子もありませんが、ある特定の宗派だけが病気を治せて、他の宗派は治せないということはまずありえません。

大事なのはやはり「こころ」であり「なにを思うか」なんですね。いろんなヒーラーも「イメージング」を超重視しますもんね。

もしもその病気がカルマ(過去の揺り返し、もしくは精算、もしくは魂の計画)であったとしても、その人物もしくは人物にかかわる関係者の神仏への奉仕と人生の方向づけからくる公へ奉仕・役目などによっては、神の干渉によりある程度カルマすら変更できるそうです。

それをとりなすのが神官なんでしょうね。へー。







これを読まれた方がもし病に苦しんでいましたら、あなた様の病が奄美の神の御業により、心と体が調和され、つつしみぶかく、感謝をふかめ、一切の病が治癒されますように。

奄美の風があなた様の眉間と心臓から扉をひらき、清らかな水が喉をとおって全身にしみわたるように、毒素や老廃物は体外に押し流され、あなた様のすべての本来ある治癒力が生き生きと活動をはじめられ、あなた様の心と体が指先まで太陽の光、奄美の風にみたされ、すべて細胞が傷を修復して若返りますように。

奄美の神よ。大いなる治癒の光をお与えくださり、心より感謝いたします。






  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 19:06Comments(2)聞きかじり・読みかじり

これからこうなるらしい

2010年04月08日

○常識や慣例が次々に崩壊する時代になった

○創造の時代。古いものや古い成功、いままでのパターンに執着すると命取り

○逆に言えば、創造性によっていくらでも発展が可能

○あえていえば、すすんでリスクをとれ。志を果たすには冒険がいる。覚悟がいる

○何度でも脱皮して、その都度機敏に変化の波にのれ。

○自分だけのかたよった考え方や自分ルールはこれからは命取り。柔軟にさまざまな考え方をあちこちから学び、それを貪欲にとりこめ

○家族という絆の重要さを今一度見なおせ。離婚や親不孝は罪つくり。家族の絆は「報恩」の気持ちの基(家族観念の軽薄さが、現代の貧困の大きな要因)
  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 23:22Comments(0)聞きかじり・読みかじり

毅然とすることのかっこよさ

2010年04月05日

うちの宗派の人からきいた話。

その方は元共産党員。

二十数年前、政府関係の仕事で中国にいったらしい。

中国政府主催のパーティーにでることになり、日本側の挨拶のあと立った中国側の政府関係者は、やおら日本の植民地時代のことを悪し様に批判しはじめた。どうやらめずらしいことではないらしい。

日本人の賓客達は、みな申し訳なさそうにうつむいたり居心地悪そうに互いを見合わせている。

カチンときた彼は自分のスピーチの段になり毅然としゃべりはじめた。

「さきほどの方のお話で日本の先の戦争について、非常に日本を悪くおっしゃっていました。もちろん、日本が犯した過去の侵略行為は許されるものではありません。

しかし、では中国は当時欧米の侵略にたいしてなにをなさったのでしょうか。中国が当時の日本の立場でしたら、他になにができたのでしょうか。

日本はアジアの中で唯一、欧米列強の脅威に立ち向かいました。国中が焼け野原になるまでたたかったんです。たくさんの血も流れたんです。

日本は決して間違っていませんでした。私は断言します。」

辺りはざわめいたが、彼はかまわずつづけたという。

スピーチが終わったあと、食事と歓談の時間になった。人ごみのなかから一人の人物が満面の笑みでちかづいてきた。

なんと、さきほど悪し様に日本の過去の戦争をののしったその人だった。

「私は過去何度も同じことをここで言いました。そのたびに日本人はバツが悪そうにうつむいたり、私に頭をさげて過去の日本の行為を謝罪しました。

しかし貴方はちがった。あなたは日本人として祖国に誇りをもっておられる!それでこそ日本人です。あなたに出会えたことを感謝します」

もとめられた握手のあたたかさに、彼は胸があつくなったそうです。





日本人よ。毅然とあれ。 

忘れられない話です。  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 14:02Comments(1)聞きかじり・読みかじり

好きな詩~平和祈念の日に

2010年04月03日

これはヒロシマの8月6日のことを綴った詩だが、6日はとても腹がたっていたので、詩を汚してはならないと思い、9日に記す。









『生ましめんかな』   栗原貞子
 

 

こわれたビルディングの地下室の夜だった。

原子爆弾の負傷者たちは

ローソク1本ない暗い地下室を

うずめて、いっぱいだった。

生ぐさい血の匂い、死臭。

汗くさい人いきれ、うめきごえ

その中から不思議な声が聞こえて来た。

「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。

この地獄の底のような地下室で

今、若い女が産気づいているのだ。



 

マッチ1本ないくらがりで

どうしたらいいのだろう

人々は自分の痛みを忘れて気づかった。

と、「私が産婆です。私が生ませましょう」

と言ったのは

さっきまでうめいていた重傷者だ。

かくてくらがりの地獄の底で

新しい生命は生まれた。

かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。

生ましめんかな

生ましめんかな

己が命捨つとも

  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 10:36Comments(0)聞きかじり・読みかじり

好きな話

2010年03月04日

これは早坂茂三さんのなんかの本にのっていました。



田中角栄が史上最年少で大臣になった日。

新潟の実家では、お母様が一番上等な着物をきて、たくさんの親戚やマスコミの前でテレビの前に正座しておられたそうです。

テレビには国会のあの大きな階段のところでモーニングをきて額に大粒の汗をうかべ、緊張した面持ちで立つ息子・角栄の顔がアップで写っている。

お母様は何を思ったか、突然ハンカチをとりだすと、テレビに映る息子の顔を一生懸命拭いはじめた。

それをみた親戚の人たちは大笑い。でもお母様の表情は真剣そのもの。ハンカチを持つ手も止らない。

やがてその笑い声が大きなすすり泣きにかわるのに時間はかからなかった。




これを読んだときは、号泣しました。

親心ってほんとにあったかいですね。
  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 01:19Comments(0)聞きかじり・読みかじり

ある善人の話

2010年02月27日

うちの母は、住用村(現・奄美市住用町)の○○というところに生まれました。

村でも真面目な働き者として評判だった木こりの祖父とやさしい祖母。母はすごくのびのびと育ったそうです。

その集落では、時々、青年団がよそからきた人と酒席でケンカになると、集団リンチにすることがあったそうです。

そんな夜は村中が張りつめた空気に包まれ、祖母は子供たちを決して窓に近寄らせませんでした。

しかし外から聞こえる怒号、助けを求める悲鳴は、家の中までも聞こえてきたそうです。

ある時、母は興味本位に覗いてしまったそうです。

青年団のおじさんが、血だらけの知らない人の髪をひきづり、山肌からあふれる水をかけていました。

人間とは思えないほど腫れてゆがんだ顔。その人は、ピクリとも動きませんでした。

母は言います。「あの人はどうなったんだろう・・・・・他にリンチされた人たちも、次の日にはいなくなってたから・・・警察もこなかったし・・・・・・・・」

それを知るすべは、もはやありません。

ある夜、営林署の方が青年団とケンカになったと、また祖母が緊張した表情で窓をしめきりました。リンチの途中で一人が逃げ出したと、集落の出入り口にたいまつをたいて、青年団が総出でさがしているようでした。

その深夜、母はトイレに起きました。当時はトイレは外の離れにありましたので、ねぼけながら外にでると、トイレのかげ、外から見えない位置に、うずくまる真っ黒な人影があります。

「おっかーん!!!けんむんがでたー!!!」と母が祖母をおこすと、祖母は瞬時に事態を察したようでした。

祖母は真っ黒な人影に話しかけました。

「かくまってあげるから、こっちにきて」

それは、逃げ出した営林署の人でした。川にとびこんで逃げたらしく、ずぶ濡れで震えていました。

祖父を起こして事の次第を話すと、祖父も「絶対青年団にわたしてはいけない。ここでほとぼりがさめるまでいてもらおう」

お風呂に入ってもらっている間にご飯を用意して、祖父の寝間着をさしだすと、その方ははじめて安心できたらしく、泣き出したそうです。

結局その方を家で一週間ほどかくまい、その間は母も子供ながらに緊張していたそうです。それはそうでしょう。なにせ、集落の人が遊びにくる襖へだてたむこうに、その方が息をひそめていたのですから。(それだけ狭い家だった)

祖父が中心部の名瀬から知人の車をたのんで夜中に村から脱出させるときに、家族みんなで泣いて別れたといっていました。

その方からは、のちのちまでお礼状や季節の贈り物、年賀状などが届いたそうです。

村の人間にバレたら自分たちも村八分になる危険のなか、それでも助ける勇気。

私は、祖父と祖母が大好きです。  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 01:10Comments(0)聞きかじり・読みかじり

反省といふもの~初級

2010年02月24日

いま、なんとなく思い出したんです。

うちの宗派の坊さんが、昔受けた反省瞑想研修で、こんな事を言っていました。




自分は出家する前、よく上司とぶつかってばかりいました。

上司は理不尽に上から押さえつけてくる人ばかりで、私は自分の不運をよく嘆いていました。

しかし出家してからも、やはり直属の上司とぶつかる。そしていつまでも出世できない。

これはさすがにどうにかしないとと思い、反省に入りましたが、どうしてもやはり自分には非がないようにしか思えない。

もっと反省に入ろうとすると、心が苦しくなり、頭の中がボンヤリしてしまう。

私はある日決心しました。日本刀を買ってきて、目の前に置いたんです。

これで反省できなければ、自分は死のう。

実際に死ぬわけじゃありませんよ。これで反省できなければ、もう僧職をもつ資格はない。還俗しようと思いました。

そして逃げたくて発狂しそうな思いを耐えて、明け方頃、ようやく探り当てました。

上司とぶつかる原因は、父親との葛藤。

私はずっと父が嫌いでした。正直、にくかった。

でもそのきっかけは、ほんのささいなことだったんです。

忘れていた位のささいな記憶。小さい頃、ちいさないたずらをして、父にものすごく強くしかられたんですね。

でも、自分はそんなに悪いことだとは思ってなかったから、叱られたことにすごく反発して、父の非をあげつらって、ずっと反抗していた。

その幼い頃に父にいだいた自分の誤解。偏見。かたよった見方。それを、ずっと父にも周りにたいしても持ち続けてきたのだとわかりました。

だから、父にも、上司からいただいた善意からの指導にも過剰に反応して反発していた。すべては、自分の見方の誤りだったんです。

それが分かったとき、私は体が震え、涙が止まりませんでした。

その直後から上司にとりたてていただけるようになり、出世して、今、八正道研修の講師としてみなさんにお話させて頂いていることに、大きな神仏のはからいを感じています。

八正道の最初は何故『正見』なのか。それは、自分は周りをどのような先入観で見ているのかが、すべてのはじまりになるからです。

間違った認識をしていないか。先入観や、誤解はないか。色眼鏡でみていないか。自分や相手の立場を正しく認識できているか。さらに、神仏の目から見たらどのように見えるのか。

とくにご家族にたいして、見方の誤りはおきやすいです。それは一番近い関係の人には、甘えがでてくるからです。だから見方も自分本位になってしまいがちです。

どうか、なるべくご自分の言い分やいいわけを排して、深く反省の時に入られてください・・・。



なんで今、それを唐突に思い出したんでしょう。もう4年も前の話ですが。

つまりは私自身の過去からの家族や周りに対する見方・認識を、もう一度整理して反省、脱皮するときなんでしょうか。

うわぁ・・・・・・・・したくねぇなぁ・・・・・・・

イヤイヤ!!させていただきますよ!!!させていただきますとも!!!!


アヒャヒャヒャヒャ ヘ(゚∀゚ヘ)(ノ゚∀゚)ノ ヒャヒャヒャヒャ  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 00:51Comments(0)聞きかじり・読みかじり

ある故事

2010年02月22日

ふと思い出した中国の故事。

うろ覚えなのでビミョーに間違えているかもしれんが、ま、そこはご愛嬌~。



ある国の王が戦のために優れた馬を欲していた。

しかしどこの国も名馬を集めている。探すのは容易ではない。

王は、名馬のためなら、一頭のために千金までも出そうという。

しかし、国中捜し回らせたが見つからない。

困った王にある家臣が言った。

「私に任せていただけましたら、必ずや名馬を手に入れてみせましょう。」

そして国中にお触れをだした。

名馬であれば生き死には問わない。かならず褒美を出そう。

するとあるところから、名馬の死んだ首がもちこまれた。

なんと、家臣はその首に五百金を出して買い取った。

噂は瞬く間に国中にひろがり、それからまもなくあちこちより三頭もの名馬がもちこまれたという。

その価値をわかる者のところに、逸品は集まるという話。






なんでこんな話を思い出したのかな?
  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 15:37Comments(0)聞きかじり・読みかじり

ある軍人・牛島満

2010年02月21日

牛島満

1887年7月31日 -1945年6月23日(満57歳没)

沖縄戦直前の牛島満
生誕地 鹿児島県鹿児島市
死没地 沖縄県島尻郡摩文仁村(現・糸満市)摩文仁
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1908 - 1945
最終階級 陸軍中将(死後大将に昇進)
指揮 第32軍司令官
第11師団長
歩兵第36旅団長
歩兵第1連隊長
戦闘/作戦 シベリア出兵
日中戦争
→ 南京攻略戦
第二次世界大戦
→ 沖縄戦
賞罰 正四位勲一等功二級


牛島 満(うしじま みつる、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。鹿児島県鹿児島市出身。沖縄戦において、第32軍を指揮し、自決した。温厚な性格で知られ、教育畑を歴任したが、指揮官としても、歩兵第36旅団長として武漢、南京攻略に参加し、功績を挙げた。

年譜 [編集]
1908年(明治41年)5月 - 陸軍士官学校卒業(20期)。
12月 - 少尉に昇進。近衛歩兵第4連隊附。
1911年(明治44年)12月 - 中尉に昇進。
1916年(大正5年)5月 - 陸軍大学校卒業(28期)。
1918年(大正7年)8月 - シベリア出兵(~1920年8月)。シベリア派遣軍野戦交通部参謀。
12月 - 大尉に昇進。
1919年(大正8年)4月 - 近衛歩兵第4連隊中隊長。
1920年(大正9年)8月 - 陸軍歩兵学校教官。
1924年(大正13年)3月 - 少佐に昇進。歩兵第43連隊大隊長。
1925年(大正14年)4月 - 歩兵第45連隊附(第一鹿児島中学校配属)。
1928年(昭和3年)3月 - 歩兵第23連隊附。
8月 - 中佐に昇進。
1930年(昭和5年)8月 - 下関要塞参謀。
1932年(昭和7年)8月8日 - 大佐に昇進。陸軍戸山学校教育部長。
1933年(昭和8年)3月18日 - 陸軍省高級副官。
1936年(昭和11年)3月28日 - 歩兵第1連隊長。
1937年(昭和12年)3月1日 - 少将に昇進。歩兵第36旅団長。
12月5日 - 陸軍予科士官学校幹事。
1939年(昭和14年)3月9日 - 陸軍予科士官学校校長。陸軍戸山学校校長(兼任)。
8月1日 - 中将に昇進。
12月1日 - 第11師団長。
1941年(昭和16年)10月15日 - 陸軍公主嶺学校校長。
1942年(昭和17年)8月8日 - 陸軍士官学校校長。
1944年(昭和19年)9月26日 - 第32軍司令官。
1945年(昭和20年)5月22日 - 南部撤退を決定。 6月23日 - 早朝、摩文仁の丘洞窟内で長勇参謀長らと自決(同日は沖縄県慰霊の日。自決は22日だったとする説もある)。同日付けにて陸軍大将に特進。

(ブログ読者様によると、自決前に昇進されてるそうです。)

沖縄戦

牛島の評価
ウィキクォートに牛島満に関する引用句集があります。沖縄戦において、牛島は万事を長勇参謀長ら部下に一任し、自らは責任のみ負うとした。しかし、沖縄戦後半に作戦立案を一任した八原博通高級参謀は、作戦を巡ってしばしば他の参謀と対立し、司令部に不協和音を生じる一因ともなった。また、大打撃を受けた5月4日の大攻勢や、民間人に多数の犠牲を出す要因となった首里撤退は、提案したのは長勇参謀長や八原高級参謀とはいえ、その判断は誤っていたとする指摘もある。

また、牛島個人としては、無辜の住民を戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、着任してすぐ県知事と協議している。当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。牛島は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたという。また60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出した。牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体となった「玉砕」を防ごうとしたと見られる。これは一億玉砕を唱える当時の軍部の方針に反するものであった。八原高級参謀も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島の計画を支持した。(一方で、北部にある密林地帯、同地域で「やんばる」と呼ばれるその一帯には食糧の備蓄はなく、また長期間の避難では栄養失調、最悪で餓死者が出るということは容易に想像が出来たのではないか、とする意見もある。実際「やんばる」に逃れた住民の死因の大半は栄養失調や餓死であった。ただ、牛島としてはいざという場合に、軍用糧食を一般住民に配給する覚悟を決めており、側近にも漏らしている。)。また、牛島自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島は暇があるたびに作業現場を視察し、中学生や住民にまじって壕堀りの手伝いをした。県民の献身に感動した牛島は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示している。

しかし、大本営が沖縄作戦を本土作戦のための時間稼ぎと考えており、牛島もこの方針に従い指揮していたことや、南部撤退の過程で県民に多数の犠牲を出したことが批判される。首里から撤収中、牛島は民間人の遺体を見るたびに合掌し、野ざらしになった死骸、親を失って泣き叫ぶ幼児、爆撃で黒焦げた親子の遺体を見るにつけ、「なぜ、このような惨状を事前に見通せず、喜屋武半島撤退計画に安易な決裁を与えたのか。軍司令官としての沖縄県民に対する責任を、いかにして償えば良いか」と苦悩し、首里撤退の誤りを認めている。 シュガーローフの戦いでは、精鋭無比を誇る米海海兵隊の猛突撃を1週間もの間阻止した。多くの海兵隊員たちは、仲間の死体の中で、日本軍の夜襲を受けるなど、死闘を繰り広げることなり、精神異常者が1500名以上も続出した。連合国側で高く評価されている戦いであるが、日本国内でこの戦いを知る人は少ない。

牛島は自決する直前の6月上旬、米軍に軍使を送るとともに、知念半島の非武装化を提案し、そこに県民を移そうとした。米軍も一旦それに同意したが、米軍の軍使が日本軍の狙撃兵によって殺されたため、その計画も頓挫した。

また、鉄血勤皇隊や女子看護学徒隊らに突然「爾後各個の判断において行動すべし」との内容の解散命令を出し、その多くが死傷または行方不明となったり自決したことの責任、自決しただけで自身は部下らとは違い、捨て身になって敵兵に向かい戦死したのではないこと、そして牛島の最後の命令が「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と降伏を否定するものだったこと(ただし、この文を実質作成したのは長野英雄作戦参謀で、『生きて虜囚の~』の件は長参謀長が付け加えた)から、戦後、沖縄県民には牛島に対し厳しい見方があった(ただし、元陸軍少佐の奥田鉱一郎は、牛島の首里撤退の誤りを指摘しつつも、「生き残った第32軍の将兵はもちろん、沖縄県民の牛島司令官個人への感情は、敬愛の気持ちこそあれ、反感や怨磋の声は聞かれなかった」と主張している)。

アメリカ軍事評論家のハンソン・ボールドウィンは、「太平洋戦争において日本の名将を二人あげるとするならば、陸の牛島・海の田中」と評し(田中とは、第二水雷戦隊司令官であった田中頼三海軍中将のこと)、牛島の采配を高く評価している。しかし日本国内では、島民の安全を考えて戦闘前に疎開させる配慮を行った硫黄島の栗林忠道陸軍大将や、沖縄戦において、玉砕前に戦後の沖縄県民に対して配慮の要望を記述した『沖縄県民斯ク戦ヘリ』の惜別電文を打った大田実海軍中将と比較すると、沖縄戦での牛島の采配に対しては評価が分かれている。(ただし前者については当時の沖縄県と硫黄島では人口が明らかに違ううえに、船舶の確保が難しい情勢および対馬丸事件に代表される制海権・制空権喪失による安全な疎開船運航ができない状況では、単純な比較は難しい)

最近、米国立公文書館から、牛島が自決の直前に鉄血勤皇隊の情報宣伝隊(千早隊)の隊長に、遊撃戦により戦闘を続けるよう命令する「訓令」の文書が大田元沖縄県知事によって発見された。当時、千早隊隊長が隊員に対し同様の命令をしており、「訓令」は、米国国立公文書館の米第10軍の戦闘記録に含まれていた。鉄血勤皇隊の解散前後の1945年6月18日付で発令され、千早隊隊長の益永董陸軍大尉あてに「軍ノ組織的戦闘終了後ニ於ケル沖縄本島ノ遊撃戦ニ任スヘシ」と命じている。


辞世の句
「矢弾尽き 天地染めて 散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇国護らん」
「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ」

最期
6月23日午前4時30分、牛島は長勇中将と摩文仁洞窟にあった司令部壕で割腹自決をした。自決の直前、牛島は長参謀長と共に東方を拝して「天皇陛下万歳」を三唱。頬には涙が伝っていたという。午前4時頃、牛島は幕僚と共に、洞窟から外に出て眼下に広がる沖縄の空と海を見渡し、再度洞窟に引き返した。当初は摩文仁の丘の上で自害するつもりであったが、米軍の攻撃が激しく断念している。その夜は壕にいた生存者全員が集められ、牛島は皆に「笑って別れよう」と語り、一人ずつに酒とパイナップルの缶詰を振舞い、今までの労をねぎらった。

牛島は、戦闘に汚れた服から礼装に着替え、東方を拝して白い布の上に正座した。牛島は手に銘刀「来国俊」を持ち、「沖縄の人たちは私を恨みに思っているに違いない」と言うと、刀を腹に突き当てた。そして、以前より介錯を頼んでいた次級副官、坂口勝大尉が軍刀を牛島の首に振り落とす。しかし、坂口大尉は右手を負傷していたため、手元が狂って刃が充分な深さに達せず、代わりに近くにいた軍曹が介錯を行っている。

牛島の逸話
彼は昔から戦場で用便を済ます癖があり、必ず見晴らしのいい場所などを選んでいたらしい。中国戦線では用便中に中国軍の1個分隊が目の前に現れたが、その1個分隊を捕虜にしたというエピソードも残っている。 ある日、自宅に酔っ払いが表札の「牛島」を「牛鳥」と読み間違え、飲み屋と間違えて上がって来た事があったが、牛島は嫌な顔をせずに酔っ払いに御馳走したという。
  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 18:22Comments(0)聞きかじり・読みかじり

どこかで読んだ話

2010年02月20日

どこで読んだかはわかりませんが、ものすごく大好きな話です。



昔むかし、あるところに二人の僧侶が旅をしていた。

大きな川に通りかかったときに、一人の女が川を渡れずに困っていた。

一人の僧侶は戒律にふれないようにと女をさけて川を渡ったが、もう一人の僧侶は女に近づき、話しかけた。なんとそのまま、女を背負って川を渡りはじめた。

女を川に渡したあと、つれの僧侶は怒りに震えていた。濡れた衣をしぼり歩き出したあとも、僧侶の怒りはおさまらない。戒律をやぶったな、お前はしてはならぬことをしたのだ。道を歩きながらももう一人の僧侶をののしりつづける。

もう一人の僧侶は何事もなかったような顔で歩いていたが、やがて言った。

「わしはもう女人を降ろしたぞ。お前はまだ女人を背負っておったのか」





このお話だいすきー(*´Д`*)ハァハァ   


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 22:02Comments(0)聞きかじり・読みかじり

精神病と霊障との関係

2010年02月20日

ある東京のお客様のお話。

「アマさん、オカルトなお話スキですよね?」

「ええ、かなりすさまじく大好きですよ。政治とかも大好きですけど(笑)」

「アマさん向けのネタ仕入れましたよ(笑)」

「ホントですか????!!!どんなお話ですか?」

「これは東京の(略)できいたんですけどね。東京の心療内科学会の慰安旅行、奄美らしいんですよ。」

「へー。奄美の自然は癒しですからね~。沖縄なんかに負けないぞ☆」

「いや、そうじゃなくてね。・・・お忍びでお祓いにいくそうなんですよ。奄美って、ユタっていうの?有名な霊媒師がいるそうですね?」

「ええ、いますけど・・・。あー。つまり・・・・」

「アマさんが前に言ってたじゃないですか。精神病の人はほとんどオバケの影響があるって。・・・お医者さん達も、暗黙の了解でそれわかってるってことですよね・・・・」

「だから奄美のユタなんですね。うまいですね!たしかに沖縄でするよりは目立たないですね!」

「アマさんもユタになった方がかせげるんじゃないですか?」

「ああいう仕事してる人は、欲だした時点で命取りですよ。私なんか欲のカタマリですから、分不相応ですし、責任重大ですから怖くてできませんよ。アハハ・・・」

「奄美ってそういう一面があるんですね~」

「東京でそんな情報があるとは・・・」

「ね?アマさんの好みのネタでしょ?(笑)」

  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 00:12Comments(0)聞きかじり・読みかじり

大震災のとき・宗教団体編

2010年02月19日

これは東京にいたとき、うちの宗派の職員さんからきいたお話。

でも、これはうちの宗派にかぎらず、当時ほぼすべての宗派がこのような状態ではなかったかと思う。

宗教団体の社会貢献は決してテレビにはでませんから。


宗教キライな方はスルー推奨。





























東京南部支部で7年前、当時の石見支部長にきいたお話。

石見支部長、お元気ですか~ヾ(。・ω・。)ノ゛

阪神大震災の話になったとき、苦笑いしたまま何も語らなかったので、
あとで細かく問いつめたらやっとききだせた。(笑)


「・・・あのときは、朝テレビでみててね、あー、大変なことになったなぁ、と。で、そのまま本部に出勤して、夕方帰り支度してたら、デスクの電話がなったからスタッフかな?と思ってでてみたら、なんとヘッド直々だよ。マジでビビッたね。で、怒鳴られた。

「一体なにをしてるんですか!職員は今すぐ神戸にいきなさい!」

てね。で、家に戻ってとりあえず三日分の服だけもってそのまま2週間。まさか2週間もぶっ通しいるとは・・・(笑)え?もちろんそのとき連絡とれた全員だよ。中堅宗教団体が、本部ほぼ空っぽ。(笑)ありえないよねー(笑)
で、2週間して一旦着替え取りにかえって、そのあと一ヶ月いたかな。
でも神戸はあの惨状でしょ。とても入れない。で、岡山に大きいスーパーもってる会員さんがいたから、そこを救援本部にしてね。岡山だと神戸まで一本だから。そこの大きな倉庫をお借りして、とりあえず全国の支部からの救援物資はみんなそこに一旦集めたんだ。
救援物資を振り分けして整理するのもすごい大仕事だからね。なにせ数が違うから(笑)
そこのスーパーの社長さんはすごい人でね。揺れを感じてすぐ

「これは近い、被害もたぶん尋常じゃない」

と思ったらしくて、朝五時に社員全員に緊急で呼び出しかけて倉庫とスーパー開けさせていつでも店の物を届けられるように準備させてたらしい。
一番苦労したの?食べ物だね。最初が一番足りなかった。いくらあっても被災者の数が圧倒的だから、すぐ無くなる。おにぎりさえもいってない避難所もたくさんあったからね。
キャベツの千切りが五メートルくらいになってるの、見たことある?そんな山があちこちにできたよ。むいたジャガイモの山とか(笑)野菜とかはくるんだ。でも、調理しないといかんでしょ?被災地は半端ない寒さなんだから、パンとかよりもあったかいごはんを何よりもほしがってる。だからカレーとか豚汁が喜ばれる。でもそれにはつくらなきゃいけない。朝から晩まで野菜刻んで腱鞘炎になった会員さんもいたね。
一週間くらいしてあちこちから救援の手も回るようになって御飯がメドがついたら、次は何だと思う?お風呂だよ。だからあちこち手配して、移動式のお風呂をだしたら、喜ばれたねぇー。自衛隊さんからもほめられたらしいよ。(笑)
ヘッドからも支援物資セットがいくつかきたんだけど、そのなかに何故か大量の写るんですが入ってたんだよ。これ、何につかうの?ってみんな思ってたんだけど、あとになってわかったね。
家の保険とか支援金の申請。被害を写真にとらないと申請できないらしいんだよ。でも、被災地でカメラなんかあるわけがない。しばらくしてからあちこちの団体からも

「写るんです、こっちにもゆずってください」

ってきてね。ああ、このことかって。」


その事を師匠に話したら、師匠は言葉すくなに話した。

「あのとき、●●さん(宗派の理事の一人。当時本部長)、神戸の救援に一年ほどついてたの。ときどき東京に戻ってくるたびにうちにきてたんだけど、すごかったのよ・・・・。くるたびに背負ってくる霊の数が普通じゃないの。あんな・・・見たことがないわ。みんな「イタイ、イタイ」って言っててね・・・。●●さんも原因不明で目を痛めてね。明らかに霊障なのよ。
・・・・大変なことだったのよ・・・」


私には言葉はなかった。

当時、私は中学生だった。

亡くなられた方々が安らかであられること、祈るのみだった。







決してオモテには出ない物語。いろんな宗教のたくさんの人々が、人知れず命がけで誰かを救おうとしていた。

そのことを、伝えたいと思う。
  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 10:22Comments(2)聞きかじり・読みかじり

私の好きな話

2010年02月03日

黒田清さんの本にあった話。中三のときに読んだので、なんて本なのかは忘れました。
この方は左翼の大物ジャーナリストだが、社会へむける視線が厳しくもとてもあたたかいんです。これぞ左翼という気持ちいい方。亡くなられたときには本当にショックでした。


ある中学生(だったかな?)の女の子の話。
その子は普通学校に通っていたが、生まれつき片足に重い障がいをもっていて、いつもそれを周りの子達にからかわれていた。
ある日の学級会で、クラスのいじわるな生徒たちから水泳大会の選手にえらばれてしまう。
彼女は足が悪いので、まともに泳ぐこともできない。なのに、たくさんの学校中の生徒やたくさんの父兄の前で、誰よりも遅い自分の姿をさらさねばならない。
彼女は家に帰ると母親に泣きついた。こんなひどいことをされた。もう学校にいきたくない。水泳大会になんてでれないと。
しかし母親は厳しく諭す。あなたの足の障がいなんて関係ない。遅ければ遅くてもいいから、かならず水泳大会にでなさい。逃げてはダメ。

水泳大会の日。彼女は勇気をふりしぼり、大会に参加した。
自分の萎えた素足の片足を見るみんなの視線。奇異。蔑み。嫌悪。
彼女は涙を必死にこらえてスタート台に立った。
競技がはじまった。やはり彼女は誰よりも遅い。当たり前なのだ。重度の障がいでまともに泳げないのだから。
生徒達から大きな笑い声がおきた。保護者達もその溺れているか泳いでいるかもわからない姿に失笑がもれた。

そのとき、彼女ひとりだけのこされたプールに、ひとりの男性が背広姿のままとびこんだ。
男性は学校の校長先生だった。
校長先生は彼女と一緒に泳ぎながら彼女に叫んだ。
「がんばれ!がんばれ!」

プールからすべての笑い声が消えた。静寂のなかに彼女の必死に泳ぐ水音と、校長先生のエールが響く。
あちこちから彼女を応援する声がおきた。
やがて、すべての生徒、父兄、教師が彼女にエールを送っていた。
彼女が校長先生と一緒にゴールしたとき、生徒や保護者、みんなが声をあげて泣いた。
次の日から、彼女へのいじめはなくなったという。


校長先生みたいな人になりたいと、思いました。  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 10:03Comments(2)聞きかじり・読みかじり