大震災のとき・宗教団体編
2010年02月19日
これは東京にいたとき、うちの宗派の職員さんからきいたお話。
でも、これはうちの宗派にかぎらず、当時ほぼすべての宗派がこのような状態ではなかったかと思う。
宗教団体の社会貢献は決してテレビにはでませんから。
宗教キライな方はスルー推奨。
東京南部支部で7年前、当時の石見支部長にきいたお話。
石見支部長、お元気ですか~ヾ(。・ω・。)ノ゛
阪神大震災の話になったとき、苦笑いしたまま何も語らなかったので、
あとで細かく問いつめたらやっとききだせた。(笑)
「・・・あのときは、朝テレビでみててね、あー、大変なことになったなぁ、と。で、そのまま本部に出勤して、夕方帰り支度してたら、デスクの電話がなったからスタッフかな?と思ってでてみたら、なんとヘッド直々だよ。マジでビビッたね。で、怒鳴られた。
「一体なにをしてるんですか!職員は今すぐ神戸にいきなさい!」
てね。で、家に戻ってとりあえず三日分の服だけもってそのまま2週間。まさか2週間もぶっ通しいるとは・・・(笑)え?もちろんそのとき連絡とれた全員だよ。中堅宗教団体が、本部ほぼ空っぽ。(笑)ありえないよねー(笑)
で、2週間して一旦着替え取りにかえって、そのあと一ヶ月いたかな。
でも神戸はあの惨状でしょ。とても入れない。で、岡山に大きいスーパーもってる会員さんがいたから、そこを救援本部にしてね。岡山だと神戸まで一本だから。そこの大きな倉庫をお借りして、とりあえず全国の支部からの救援物資はみんなそこに一旦集めたんだ。
救援物資を振り分けして整理するのもすごい大仕事だからね。なにせ数が違うから(笑)
そこのスーパーの社長さんはすごい人でね。揺れを感じてすぐ
「これは近い、被害もたぶん尋常じゃない」
と思ったらしくて、朝五時に社員全員に緊急で呼び出しかけて倉庫とスーパー開けさせていつでも店の物を届けられるように準備させてたらしい。
一番苦労したの?食べ物だね。最初が一番足りなかった。いくらあっても被災者の数が圧倒的だから、すぐ無くなる。おにぎりさえもいってない避難所もたくさんあったからね。
キャベツの千切りが五メートルくらいになってるの、見たことある?そんな山があちこちにできたよ。むいたジャガイモの山とか(笑)野菜とかはくるんだ。でも、調理しないといかんでしょ?被災地は半端ない寒さなんだから、パンとかよりもあったかいごはんを何よりもほしがってる。だからカレーとか豚汁が喜ばれる。でもそれにはつくらなきゃいけない。朝から晩まで野菜刻んで腱鞘炎になった会員さんもいたね。
一週間くらいしてあちこちから救援の手も回るようになって御飯がメドがついたら、次は何だと思う?お風呂だよ。だからあちこち手配して、移動式のお風呂をだしたら、喜ばれたねぇー。自衛隊さんからもほめられたらしいよ。(笑)
ヘッドからも支援物資セットがいくつかきたんだけど、そのなかに何故か大量の写るんですが入ってたんだよ。これ、何につかうの?ってみんな思ってたんだけど、あとになってわかったね。
家の保険とか支援金の申請。被害を写真にとらないと申請できないらしいんだよ。でも、被災地でカメラなんかあるわけがない。しばらくしてからあちこちの団体からも
「写るんです、こっちにもゆずってください」
ってきてね。ああ、このことかって。」
その事を師匠に話したら、師匠は言葉すくなに話した。
「あのとき、●●さん(宗派の理事の一人。当時本部長)、神戸の救援に一年ほどついてたの。ときどき東京に戻ってくるたびにうちにきてたんだけど、すごかったのよ・・・・。くるたびに背負ってくる霊の数が普通じゃないの。あんな・・・見たことがないわ。みんな「イタイ、イタイ」って言っててね・・・。●●さんも原因不明で目を痛めてね。明らかに霊障なのよ。
・・・・大変なことだったのよ・・・」
私には言葉はなかった。
当時、私は中学生だった。
亡くなられた方々が安らかであられること、祈るのみだった。
決してオモテには出ない物語。いろんな宗教のたくさんの人々が、人知れず命がけで誰かを救おうとしていた。
そのことを、伝えたいと思う。
でも、これはうちの宗派にかぎらず、当時ほぼすべての宗派がこのような状態ではなかったかと思う。
宗教団体の社会貢献は決してテレビにはでませんから。
宗教キライな方はスルー推奨。
東京南部支部で7年前、当時の石見支部長にきいたお話。
石見支部長、お元気ですか~ヾ(。・ω・。)ノ゛
阪神大震災の話になったとき、苦笑いしたまま何も語らなかったので、
あとで細かく問いつめたらやっとききだせた。(笑)
「・・・あのときは、朝テレビでみててね、あー、大変なことになったなぁ、と。で、そのまま本部に出勤して、夕方帰り支度してたら、デスクの電話がなったからスタッフかな?と思ってでてみたら、なんとヘッド直々だよ。マジでビビッたね。で、怒鳴られた。
「一体なにをしてるんですか!職員は今すぐ神戸にいきなさい!」
てね。で、家に戻ってとりあえず三日分の服だけもってそのまま2週間。まさか2週間もぶっ通しいるとは・・・(笑)え?もちろんそのとき連絡とれた全員だよ。中堅宗教団体が、本部ほぼ空っぽ。(笑)ありえないよねー(笑)
で、2週間して一旦着替え取りにかえって、そのあと一ヶ月いたかな。
でも神戸はあの惨状でしょ。とても入れない。で、岡山に大きいスーパーもってる会員さんがいたから、そこを救援本部にしてね。岡山だと神戸まで一本だから。そこの大きな倉庫をお借りして、とりあえず全国の支部からの救援物資はみんなそこに一旦集めたんだ。
救援物資を振り分けして整理するのもすごい大仕事だからね。なにせ数が違うから(笑)
そこのスーパーの社長さんはすごい人でね。揺れを感じてすぐ
「これは近い、被害もたぶん尋常じゃない」
と思ったらしくて、朝五時に社員全員に緊急で呼び出しかけて倉庫とスーパー開けさせていつでも店の物を届けられるように準備させてたらしい。
一番苦労したの?食べ物だね。最初が一番足りなかった。いくらあっても被災者の数が圧倒的だから、すぐ無くなる。おにぎりさえもいってない避難所もたくさんあったからね。
キャベツの千切りが五メートルくらいになってるの、見たことある?そんな山があちこちにできたよ。むいたジャガイモの山とか(笑)野菜とかはくるんだ。でも、調理しないといかんでしょ?被災地は半端ない寒さなんだから、パンとかよりもあったかいごはんを何よりもほしがってる。だからカレーとか豚汁が喜ばれる。でもそれにはつくらなきゃいけない。朝から晩まで野菜刻んで腱鞘炎になった会員さんもいたね。
一週間くらいしてあちこちから救援の手も回るようになって御飯がメドがついたら、次は何だと思う?お風呂だよ。だからあちこち手配して、移動式のお風呂をだしたら、喜ばれたねぇー。自衛隊さんからもほめられたらしいよ。(笑)
ヘッドからも支援物資セットがいくつかきたんだけど、そのなかに何故か大量の写るんですが入ってたんだよ。これ、何につかうの?ってみんな思ってたんだけど、あとになってわかったね。
家の保険とか支援金の申請。被害を写真にとらないと申請できないらしいんだよ。でも、被災地でカメラなんかあるわけがない。しばらくしてからあちこちの団体からも
「写るんです、こっちにもゆずってください」
ってきてね。ああ、このことかって。」
その事を師匠に話したら、師匠は言葉すくなに話した。
「あのとき、●●さん(宗派の理事の一人。当時本部長)、神戸の救援に一年ほどついてたの。ときどき東京に戻ってくるたびにうちにきてたんだけど、すごかったのよ・・・・。くるたびに背負ってくる霊の数が普通じゃないの。あんな・・・見たことがないわ。みんな「イタイ、イタイ」って言っててね・・・。●●さんも原因不明で目を痛めてね。明らかに霊障なのよ。
・・・・大変なことだったのよ・・・」
私には言葉はなかった。
当時、私は中学生だった。
亡くなられた方々が安らかであられること、祈るのみだった。
決してオモテには出ない物語。いろんな宗教のたくさんの人々が、人知れず命がけで誰かを救おうとしていた。
そのことを、伝えたいと思う。
Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 10:22│Comments(2)
│聞きかじり・読みかじり
この記事へのコメント
確かに…
あの地震怖かったです
あの時は、知らない人からの
助け合い…
感謝です
あの地震怖かったです

あの時は、知らない人からの
助け合い…
感謝です

Posted by さくら at 2010年02月19日 10:35
>さくらさん
私は当時中学生で、テレビの向こう側の救援活動をみているだけでした。
震災は、本当にすさまじかったんですね・・・
私には、言葉がありません・・・
私は当時中学生で、テレビの向こう側の救援活動をみているだけでした。
震災は、本当にすさまじかったんですね・・・
私には、言葉がありません・・・
Posted by アマミキョ
at 2010年02月19日 12:11

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