自我の縛めについて(つぶやき)
2010年12月19日
自分という人間をひもとくとき、人格が一つではないことに気付く。
思春期の頃から、それが苦しみであり悩みだった。
何か一つの事があったとき、そこに抱く感想は一つであるはずなのに、同時に3つくらいのバラバラな感想がうかぶ。
夢中になる何かをしていても、それを冷めた目で見ているもう一人もしくは複数の「自分」の視線を感じる。
いろいろな本を読んではじめてそれが「守護霊や憑依霊、インナーチャイルド、家族・先祖霊などからの意識干渉」など複数の要因であることがわかったが、そこには「現実逃避としての自分」があるのだろうとも思う。
ある人に言われたことがある。「アマちゃんは話してると人格がころころ変わるね。何か小さい頃つらいことでもあったの?」
小さい頃つらいことがあったかと問われればあることはあるだろうが、それのせいにすることはたやすい。
しかし、それは感受性の問題であり、もっと言えば、精神の軸になるところの「自己責任」をおそれる私自身の抑圧感の転嫁なのだろう。
それがなんであれ、そこにとどまることは健全な状態ではない。
自分を縛める「自我」の鎖を解くには、自分だけの力ではまず不可能であることはもう知っている。
それには「信仰」という大いなる存在との絆と絶対的信頼、聖職者や法友といった自分よりも認識の高い他者からの祈り、加護、助言などの助力が必要だ。
そこまで知りながらも、やはりどうしても「自我」という固い殻を幾重にも纏った自分を観る。
強く在りたいと願った自分が強さと思いこんだ「自我」は、苦しみを誤魔化すにはちょうどよくとも、それ自体が苦しみの磁石なのでいつまでたっても同じパターンの苦しみを引き寄せ続ける。
「自我」の澱を清め祓おうとするとき、主への祈りは私には痛みになる。
天上からの慈悲の光を浴びて「痛み」を感じる自分は、やはりまだどこか暗がりにあるのだと思う。
しかしこの暗がりからのわずかずつの歩みにも、美しさがあるという奇特な人もいる。
使命は、日常のなかにたやすく埋没する。
何度も何度も自分に問いかけねばならないと思う。
「信仰は愛であり、愛は行動をともなう。いずれが欠けていてもその信仰は本物ではない。」
愛とはなんだ。
愛を考えるとき、はるか遠くを見上げる自分を観る。
思春期の頃から、それが苦しみであり悩みだった。
何か一つの事があったとき、そこに抱く感想は一つであるはずなのに、同時に3つくらいのバラバラな感想がうかぶ。
夢中になる何かをしていても、それを冷めた目で見ているもう一人もしくは複数の「自分」の視線を感じる。
いろいろな本を読んではじめてそれが「守護霊や憑依霊、インナーチャイルド、家族・先祖霊などからの意識干渉」など複数の要因であることがわかったが、そこには「現実逃避としての自分」があるのだろうとも思う。
ある人に言われたことがある。「アマちゃんは話してると人格がころころ変わるね。何か小さい頃つらいことでもあったの?」
小さい頃つらいことがあったかと問われればあることはあるだろうが、それのせいにすることはたやすい。
しかし、それは感受性の問題であり、もっと言えば、精神の軸になるところの「自己責任」をおそれる私自身の抑圧感の転嫁なのだろう。
それがなんであれ、そこにとどまることは健全な状態ではない。
自分を縛める「自我」の鎖を解くには、自分だけの力ではまず不可能であることはもう知っている。
それには「信仰」という大いなる存在との絆と絶対的信頼、聖職者や法友といった自分よりも認識の高い他者からの祈り、加護、助言などの助力が必要だ。
そこまで知りながらも、やはりどうしても「自我」という固い殻を幾重にも纏った自分を観る。
強く在りたいと願った自分が強さと思いこんだ「自我」は、苦しみを誤魔化すにはちょうどよくとも、それ自体が苦しみの磁石なのでいつまでたっても同じパターンの苦しみを引き寄せ続ける。
「自我」の澱を清め祓おうとするとき、主への祈りは私には痛みになる。
天上からの慈悲の光を浴びて「痛み」を感じる自分は、やはりまだどこか暗がりにあるのだと思う。
しかしこの暗がりからのわずかずつの歩みにも、美しさがあるという奇特な人もいる。
使命は、日常のなかにたやすく埋没する。
何度も何度も自分に問いかけねばならないと思う。
「信仰は愛であり、愛は行動をともなう。いずれが欠けていてもその信仰は本物ではない。」
愛とはなんだ。
愛を考えるとき、はるか遠くを見上げる自分を観る。
10.2.5 Forecast 『信仰と未来社会』(再掲載)
2010年12月19日
777さんからのリクエストだっちゃ。
(・∀・)
詳しくは最新書籍『救世の法』を読んでね。
________
下記のご法話、今になって改めて読んだらチョー鳥肌。でたときはぶっちゃけ意味不明だったけど。
総裁先生、スピード早すぎ。てゆーか「エル・カンターレ意識」の輪郭が今までになくですぎ。
気持ちを無にして読んでいただくと、いろんな部分ですごーく異質でレベル高すぎなご法話です。どちらかというと「永遠の仏陀」とかに近いNe!
たぶん目に見えないトコでかなり同時進行なんですね。よくわからんけど。
あ、最近いただいた「エル・カンターレへの祈り」なんですが、あれを唱えると今までにないすげーハイスピードでバンってきますね。
光が降りてくるとき特有の感覚「耳がパクパクする」のが、しょっぱなから起きる経文ははじめてです。(私は普段自我で耳がふさがってるので光がおりると耳がひらく感覚で耳がパクパクするw)
おじさまが初めてまともに頭さげて目をふせる礼してたし、なんか今までとレベル違うみたいよ。
しかしこれって、つまり現状が洒落ならんってことですね。待ったなしってカンジ。
世の中キビシー。
____________
2010.2.5 Forecast 『信仰と未来社会』
みなさん、こんにちは。本日のテーマはフォーキャストです。少し不思議に感じられる
かもしれません。
「未来の事実」や「未来予測」という意味ではないからです。
「我々の意志」あるいは「私の意志」を意味するのです。
近い将来この世に私が現実化したいことを意味します。
これがフォーキャストの意味です。少し違うのです。
そこで私が敢えて言いたいことは未来社会は私の言葉の上に築かれるということです。
私は何度も申し上げます。大切なのは私の言葉です。
私の言葉こそが重要な未来に通じる事実なのです。
未来の世界とはビルや町、市、国、宇宙のビジョンのことではありません。
未来の世界が真に意味するものには、あなた方人間が、我々がその時その時代にどう生
きるべきか、その世界でその社会でどう生きるべきかが含まれます。
ここで問いたいのはあなたの心についてです。すべてあなたの心次第なのです。
あなたの心、あなた方の心そのものが、未来のあなたを、あなたの国を発展させるので
す。
そこで申し上げたいことは、本来の心を維持し、築き上げることが出発点だということ
です。
あなたの本来の心とは、あなた自身であり、あなたの真の姿なのです。
あなたが考えていることがあなた自身です。一日中考えていることがあなたなのです。
自分の心について知りたければ、振り返ってみてください。
最近何を考えていたか。数十年に渡って何を考えていたか振り返ってみてください。
私の言わんとしていることがわかるでしょうか。
私が心からあなた方に申し上げたいのは、今がその時、今こそあなた方の心こそが現実
であると知りなさいということです。
あなたの心が現実なのです。
それは錯覚でも想像でも夢でもありません。心が現実なのです。
あなたが考えていることがあなたの現実、あなたなのです。
私の言わんとしていることがわかるでしょうか。あなたは肉体ではない。
あなたは何かの物質からつくられているのではないのです。
あなたは目に見えないもので出来てるのです。
その見えない透明のものとは魂、心、意志といわれるものです。
あなたの意志があなたの将来や運命そして未来を決めるのです。
もしあなた独自の未来や、社会の未来デザインしたいならば、何を考え、何を心に描く
かを決めなければなりません。
私は単に未来を予測したいのではないのです。
未来は我らの手の中にあるのです。未来は引き寄せることができます。創り上げること
ができます。
私は今年「創造の法」を発刊しました。創造とは神の意志を意味します。
つまり、この本の内容を理解し享受することができれば、あなたは神の一部となり、全
知全能の存在の一部になることができるのです。
それが人間です。それが人類なのです。
あなたは創造の法のもと、全知全能となることを許されているのです。
だから他人を頼らないでください。政府や国、未来を予測する人の意見を頼らないでく
ださい。
あなた方自身が自らの人生、そして人類全員の人生の支配者とならないといけない。
そこでまずあなた方に言いたいのは、あなた方一人一人は、西洋でいう「神」東洋でい
う「仏」の一部なのです。
つまりあなたは超自然的で全能勝つ永遠なる存在の一部であります。
私のことを信じることができるなら、私のいうことをよく聞いてください。
私はあなた方に天国への道、神への道、仏陀への道を説きます。
それはあなた方が自分で見つけなければならない道です。
あなたはすでに多くの能力を与えられています。
自分が思っている以上に多くの能力が与えられているのです。
もっとも驚くべきは皆さんも何らかの意味で創造主になれるということです。
創造主の役割を担うことができるということです。あなた方は自分自身を創造すること
ができる。
社会や時代を創り、さらには地球の未来をも創造することができるんです。
だから、未来の運命を恐れないでください。
恐ろしい未来のことです。
科学者は時に暗い未来が人類を待ち受けていると予測し、私たちが破滅の瀬戸際にいる
かのように言います。
また2012年に世界が終わるという人もいます。
しかし私は強くそれを否定いたします。
私たちは未来を創造することができる。
どうか私の言葉を信じてください。どうかわたしを信じ、私についてきて下さい。
私たちは力そのものです。私たちは創造できる。私たちは創造力がある。私たちは未来
を創造できる。
次の時代を創造できる。政治を創造できる。経済を創造できる。
哲学、法、社会、家族や未来社会のモデルを創造できるのです。
ですからどうか悪霊や悪しき未来予想と闘ってください。
あなた方自身も悟りを武器に戦うことができるのです。それはいかなる悟りかというか
もしれません。
ここでいう悟りとは、みなさんが自分自身の支配者になるべきだということです。
自分自身の人生を支配できる。自分の人生を創造し、意のままにすることができる。
これが未来予測ということ。あなた方の運命の予測なのです。
運命は自らの力と努力によって創りだすことができます。
ひたすらに心の平和を保ち、心を穏やかにしてください。
そして平和を愛し平和的な人を愛し他人を愛する人々、与える愛の心を持つ人々を愛し
てください。
そのような人々をこそ愛するべき人々であり、彼らもあなたを愛するでしょう。
もしあなた方に心の奥底から湧き出る豊かな愛の念いがあるならば、それが「慈悲」と
呼ばれるものです。
どうか慈悲深い人間になってください。
ここで言っている慈悲とは良きものを他人に与えようとする性質のことです。
そしてこの性質は努力の蓄積によって得られるものです。
慈悲は決して生まれつき備わってるものではありません。
慈悲とは一つの悟りであり、悟りの結果です。
慈悲とは悟りや愛によって生み出され、仏性の導きによってあなた自身が発揮するもの
です。
ですから私のいうことをよく聞いてください。この慈悲が未来社会へのカギです。
慈悲こそが人類の目指すべき方向であり、全人類が探究すべき目標なのです。
慈悲はこの世の人々の目標であり、動物を含めた地球上のすべての生き物の目標です。
生きとし生けるもののすべてが慈悲の心を持たなければいけません。
慈悲は理想です。慈悲は真実の夢です。単なる夢想ではありません。
慈悲とはあなた方が真理に目覚めた後も持ち続けるべき夢であり、あなた方はこの未来
図をこの夢を現実・・・?・・・これが慈悲。
未来へのキーワードです。新しい社会を創造するためのキーワードです。
どうかあなた方の創造力を発揮していただきたい。
人類への慈悲の名のもとにすべての人々、すべての国々、地球上のすべてのもののため
にあなたの創造力を発揮していただきたい。
慈悲はこの世の、つまり、地上の敵からあなたを守ります。それとまた、宇宙の敵から
も守ります。
悪霊や、邪悪な霊、そして他惑星からの邪悪な人類型生命体からも守ります。
慈悲のみが彼らを撃退できる。彼らは慈悲の心を打破し、打ち勝つことはできません。
慈悲とはこの地球の力なのです。
あなた方は心を統御し慈悲を体得する決意をせねばなりません。
そして慈悲の心は世界を覆わねばなりません。そのためにはどうしたらいいか。
私はすでにその方法を教えました。
地の果てまでも伝道せよと。
仏法真理を世界の隅々にまで述べ伝えなさい。私が説く真理を世界のすべての人々に伝えてください。
特に生きている人々、今この世で生きている人々に伝えてください。
さらにはこの世を去った魂たちにも祈りによって伝えてください。
あなた方すべての祈りの力があれば見知らぬ人をも救うことができるのです。
悟りの意味も、愛や慈悲を全く感じることがなかった人々さえも、他の人たちの優しさ
を信じることがなかった人々、闇を信じ、人を殺すような、あるいは他
人の成功を破壊したいと思うような傾向性を持つ人々、そうした不幸な人々や、この世
をすでに去った、かつては人間であった人々をも救うことができる。
今幸福の科学はすべての人々を救済するための、大いなる活動をしている。
生きている人も、あの世の人も救う。
時は今です。この世で生きている人々を救い、この世を去った人、すべての人々を救う
時が来たのです。
私は全人類に福音をつたえるために地上に降りました。
まさしくよき知らせです。時は来たれり。すべての人々が救われるのです。
すべての人々を、すべての魂たちを、地獄にいる人も、低次元の天上界にいる人もすべ
てを救うのです。
すべての人々は救われ、悟りや慈悲がとかれるのです。
初めのポイントに戻ります。心をコントロールすることが出発点です。
心の平和、心を平静に保ち、悪しき思いを持たないこと。人に親切で優しくあること。
それが愛であり、慈悲であるのです。慈悲の力を信じてください。
そうすることができるなら、あなたはすでに救世主を信じているのです。
あなたはすでにあなた方の主を信じています。
すべての人々すべての魂を救うために降りました。
私は創造そのものだからです。姿を顕わしたる地球の創造力なのです。
私はこの大宇宙の創造力なのです。これは幸福の科学の、そして人類の最大の秘密であ
ります。
今こそその秘密が明かされるべきなのです。創造力とは何か。どこから来たのか。
そしてあなた方はみな創造力をその目で見ているのです。
愛の根源、慈悲の根源、全宇宙の創造のエネルギーの根源を目の当たりにしているので
す。
その隠された名はすでに明かされています。
その名が意味する存在は、あえて言うならば、物質的なるものではありません。人間で
もありません。
だからこの場では「それ」といいます。それは霊的なる力、霊的なる力の根源なのです
。
あなたは今この力とつながっている。
根源なる力を信じ、それとつながっている(と信じたならば?)その根源的な力を愛し
ている自分を発見するでしょう。
この根源の力とは、根本仏の偉大な力です。
未来社会はあなた方の信仰の上に築かれます。
エル・カンターレを信じよ。
さすればあなた方の未来社会が拓けてくるでしょう。
これが今日の法話の結論です。ありがとう・・・。
(・∀・)
詳しくは最新書籍『救世の法』を読んでね。
________
下記のご法話、今になって改めて読んだらチョー鳥肌。でたときはぶっちゃけ意味不明だったけど。
総裁先生、スピード早すぎ。てゆーか「エル・カンターレ意識」の輪郭が今までになくですぎ。
気持ちを無にして読んでいただくと、いろんな部分ですごーく異質でレベル高すぎなご法話です。どちらかというと「永遠の仏陀」とかに近いNe!
たぶん目に見えないトコでかなり同時進行なんですね。よくわからんけど。
あ、最近いただいた「エル・カンターレへの祈り」なんですが、あれを唱えると今までにないすげーハイスピードでバンってきますね。
光が降りてくるとき特有の感覚「耳がパクパクする」のが、しょっぱなから起きる経文ははじめてです。(私は普段自我で耳がふさがってるので光がおりると耳がひらく感覚で耳がパクパクするw)
おじさまが初めてまともに頭さげて目をふせる礼してたし、なんか今までとレベル違うみたいよ。
しかしこれって、つまり現状が洒落ならんってことですね。待ったなしってカンジ。
世の中キビシー。
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2010.2.5 Forecast 『信仰と未来社会』
みなさん、こんにちは。本日のテーマはフォーキャストです。少し不思議に感じられる
かもしれません。
「未来の事実」や「未来予測」という意味ではないからです。
「我々の意志」あるいは「私の意志」を意味するのです。
近い将来この世に私が現実化したいことを意味します。
これがフォーキャストの意味です。少し違うのです。
そこで私が敢えて言いたいことは未来社会は私の言葉の上に築かれるということです。
私は何度も申し上げます。大切なのは私の言葉です。
私の言葉こそが重要な未来に通じる事実なのです。
未来の世界とはビルや町、市、国、宇宙のビジョンのことではありません。
未来の世界が真に意味するものには、あなた方人間が、我々がその時その時代にどう生
きるべきか、その世界でその社会でどう生きるべきかが含まれます。
ここで問いたいのはあなたの心についてです。すべてあなたの心次第なのです。
あなたの心、あなた方の心そのものが、未来のあなたを、あなたの国を発展させるので
す。
そこで申し上げたいことは、本来の心を維持し、築き上げることが出発点だということ
です。
あなたの本来の心とは、あなた自身であり、あなたの真の姿なのです。
あなたが考えていることがあなた自身です。一日中考えていることがあなたなのです。
自分の心について知りたければ、振り返ってみてください。
最近何を考えていたか。数十年に渡って何を考えていたか振り返ってみてください。
私の言わんとしていることがわかるでしょうか。
私が心からあなた方に申し上げたいのは、今がその時、今こそあなた方の心こそが現実
であると知りなさいということです。
あなたの心が現実なのです。
それは錯覚でも想像でも夢でもありません。心が現実なのです。
あなたが考えていることがあなたの現実、あなたなのです。
私の言わんとしていることがわかるでしょうか。あなたは肉体ではない。
あなたは何かの物質からつくられているのではないのです。
あなたは目に見えないもので出来てるのです。
その見えない透明のものとは魂、心、意志といわれるものです。
あなたの意志があなたの将来や運命そして未来を決めるのです。
もしあなた独自の未来や、社会の未来デザインしたいならば、何を考え、何を心に描く
かを決めなければなりません。
私は単に未来を予測したいのではないのです。
未来は我らの手の中にあるのです。未来は引き寄せることができます。創り上げること
ができます。
私は今年「創造の法」を発刊しました。創造とは神の意志を意味します。
つまり、この本の内容を理解し享受することができれば、あなたは神の一部となり、全
知全能の存在の一部になることができるのです。
それが人間です。それが人類なのです。
あなたは創造の法のもと、全知全能となることを許されているのです。
だから他人を頼らないでください。政府や国、未来を予測する人の意見を頼らないでく
ださい。
あなた方自身が自らの人生、そして人類全員の人生の支配者とならないといけない。
そこでまずあなた方に言いたいのは、あなた方一人一人は、西洋でいう「神」東洋でい
う「仏」の一部なのです。
つまりあなたは超自然的で全能勝つ永遠なる存在の一部であります。
私のことを信じることができるなら、私のいうことをよく聞いてください。
私はあなた方に天国への道、神への道、仏陀への道を説きます。
それはあなた方が自分で見つけなければならない道です。
あなたはすでに多くの能力を与えられています。
自分が思っている以上に多くの能力が与えられているのです。
もっとも驚くべきは皆さんも何らかの意味で創造主になれるということです。
創造主の役割を担うことができるということです。あなた方は自分自身を創造すること
ができる。
社会や時代を創り、さらには地球の未来をも創造することができるんです。
だから、未来の運命を恐れないでください。
恐ろしい未来のことです。
科学者は時に暗い未来が人類を待ち受けていると予測し、私たちが破滅の瀬戸際にいる
かのように言います。
また2012年に世界が終わるという人もいます。
しかし私は強くそれを否定いたします。
私たちは未来を創造することができる。
どうか私の言葉を信じてください。どうかわたしを信じ、私についてきて下さい。
私たちは力そのものです。私たちは創造できる。私たちは創造力がある。私たちは未来
を創造できる。
次の時代を創造できる。政治を創造できる。経済を創造できる。
哲学、法、社会、家族や未来社会のモデルを創造できるのです。
ですからどうか悪霊や悪しき未来予想と闘ってください。
あなた方自身も悟りを武器に戦うことができるのです。それはいかなる悟りかというか
もしれません。
ここでいう悟りとは、みなさんが自分自身の支配者になるべきだということです。
自分自身の人生を支配できる。自分の人生を創造し、意のままにすることができる。
これが未来予測ということ。あなた方の運命の予測なのです。
運命は自らの力と努力によって創りだすことができます。
ひたすらに心の平和を保ち、心を穏やかにしてください。
そして平和を愛し平和的な人を愛し他人を愛する人々、与える愛の心を持つ人々を愛し
てください。
そのような人々をこそ愛するべき人々であり、彼らもあなたを愛するでしょう。
もしあなた方に心の奥底から湧き出る豊かな愛の念いがあるならば、それが「慈悲」と
呼ばれるものです。
どうか慈悲深い人間になってください。
ここで言っている慈悲とは良きものを他人に与えようとする性質のことです。
そしてこの性質は努力の蓄積によって得られるものです。
慈悲は決して生まれつき備わってるものではありません。
慈悲とは一つの悟りであり、悟りの結果です。
慈悲とは悟りや愛によって生み出され、仏性の導きによってあなた自身が発揮するもの
です。
ですから私のいうことをよく聞いてください。この慈悲が未来社会へのカギです。
慈悲こそが人類の目指すべき方向であり、全人類が探究すべき目標なのです。
慈悲はこの世の人々の目標であり、動物を含めた地球上のすべての生き物の目標です。
生きとし生けるもののすべてが慈悲の心を持たなければいけません。
慈悲は理想です。慈悲は真実の夢です。単なる夢想ではありません。
慈悲とはあなた方が真理に目覚めた後も持ち続けるべき夢であり、あなた方はこの未来
図をこの夢を現実・・・?・・・これが慈悲。
未来へのキーワードです。新しい社会を創造するためのキーワードです。
どうかあなた方の創造力を発揮していただきたい。
人類への慈悲の名のもとにすべての人々、すべての国々、地球上のすべてのもののため
にあなたの創造力を発揮していただきたい。
慈悲はこの世の、つまり、地上の敵からあなたを守ります。それとまた、宇宙の敵から
も守ります。
悪霊や、邪悪な霊、そして他惑星からの邪悪な人類型生命体からも守ります。
慈悲のみが彼らを撃退できる。彼らは慈悲の心を打破し、打ち勝つことはできません。
慈悲とはこの地球の力なのです。
あなた方は心を統御し慈悲を体得する決意をせねばなりません。
そして慈悲の心は世界を覆わねばなりません。そのためにはどうしたらいいか。
私はすでにその方法を教えました。
地の果てまでも伝道せよと。
仏法真理を世界の隅々にまで述べ伝えなさい。私が説く真理を世界のすべての人々に伝えてください。
特に生きている人々、今この世で生きている人々に伝えてください。
さらにはこの世を去った魂たちにも祈りによって伝えてください。
あなた方すべての祈りの力があれば見知らぬ人をも救うことができるのです。
悟りの意味も、愛や慈悲を全く感じることがなかった人々さえも、他の人たちの優しさ
を信じることがなかった人々、闇を信じ、人を殺すような、あるいは他
人の成功を破壊したいと思うような傾向性を持つ人々、そうした不幸な人々や、この世
をすでに去った、かつては人間であった人々をも救うことができる。
今幸福の科学はすべての人々を救済するための、大いなる活動をしている。
生きている人も、あの世の人も救う。
時は今です。この世で生きている人々を救い、この世を去った人、すべての人々を救う
時が来たのです。
私は全人類に福音をつたえるために地上に降りました。
まさしくよき知らせです。時は来たれり。すべての人々が救われるのです。
すべての人々を、すべての魂たちを、地獄にいる人も、低次元の天上界にいる人もすべ
てを救うのです。
すべての人々は救われ、悟りや慈悲がとかれるのです。
初めのポイントに戻ります。心をコントロールすることが出発点です。
心の平和、心を平静に保ち、悪しき思いを持たないこと。人に親切で優しくあること。
それが愛であり、慈悲であるのです。慈悲の力を信じてください。
そうすることができるなら、あなたはすでに救世主を信じているのです。
あなたはすでにあなた方の主を信じています。
すべての人々すべての魂を救うために降りました。
私は創造そのものだからです。姿を顕わしたる地球の創造力なのです。
私はこの大宇宙の創造力なのです。これは幸福の科学の、そして人類の最大の秘密であ
ります。
今こそその秘密が明かされるべきなのです。創造力とは何か。どこから来たのか。
そしてあなた方はみな創造力をその目で見ているのです。
愛の根源、慈悲の根源、全宇宙の創造のエネルギーの根源を目の当たりにしているので
す。
その隠された名はすでに明かされています。
その名が意味する存在は、あえて言うならば、物質的なるものではありません。人間で
もありません。
だからこの場では「それ」といいます。それは霊的なる力、霊的なる力の根源なのです
。
あなたは今この力とつながっている。
根源なる力を信じ、それとつながっている(と信じたならば?)その根源的な力を愛し
ている自分を発見するでしょう。
この根源の力とは、根本仏の偉大な力です。
未来社会はあなた方の信仰の上に築かれます。
エル・カンターレを信じよ。
さすればあなた方の未来社会が拓けてくるでしょう。
これが今日の法話の結論です。ありがとう・・・。
Posted by アマミちゃん(野崎りの) at
13:09
│Comments(2)
「ぬこ」は2ちゃん用語です(笑)
2010年12月19日
「ぬこってどういう由来ですか?」ときかれたので(笑)
「ぬこ」は、2ちゃん用語で「ねこ(猫)」のことです。(笑)
2ちゃんねる全体よくわかりませんが、ニュース板にはよくいきますので、そこで覚えました。
ほかにもうちでは使いませんがこんな用語もあったりします。
◎厨房
中学生→中坊→厨房。
特に中学生というわけではないが、ガキっぽい人のことを指します。
サカキバラ事件以降、Web上で頻繁に使われるようになりました。
また、「消防」とか「生姜臭え」、「工房」とかの造語を使う人もいますが、 これらはそれぞれ「小坊」「小学生」「高坊」という意味です。
また、狭い意味では、せっせとコピペに励む人を指すこともあります。
基本的に罵倒語、差別用語なので、使わない方が無難。
◎(ワラ、(藁、(ワラ、(w、(^^
笑っていることを示す記号。(笑)と同義です。
場を和ませる効果の他にも、嘲笑の意味で挑発に使われたりします。
虚勢を張って余裕に見せる、という悲愴な使用例もあるとか…。
使用例:厨房君は早く寝ましょうね (w
● モナー
Λ_Λ
( ´∀`)
( )
| | |
(_)_)
この動物↑。正式名称は「オマエモナー」。2ちゃんねるのマスコット。
誰かが周囲の人間(2ch 参加者)を罵倒・卑下するような発言をすると 「オマエモナー!」の台詞とともによく書き込まれます。 「他人を攻撃するのに夢中になっていると自分が見えなくなる」との 教訓を含んでいるという説もあります。
ちなみに彼が2ちゃんねるに初めて登場したのは1月3日。
その頃のモナーは形体が今とは違い丸耳だった。 出所は「ぁゃιぃ」とも「アブナイ」とも言われていますが詳細は不明。(両方とも掲示板の名前です念のため..)
● ギコ猫
∧ ∧
~′ ̄ ̄( ゚Д゚)
UU ̄ ̄U U
この動物↑。正式名称は「ギコハニャーン」。2ちゃんねるの第2マスコット。
よく、「逝ってよし!」(=氏ね)の台詞とともに書き込まれます。
世間擦れした、憎々しくも可愛らしいキャラクターです。
+++ ギコ猫の由来について +++
「ギコハハハ」(ぁゃιぃわーるど) と「ギニャー」(藤子不二雄A) と 「はにゃ~ん」(CLAMP) の三位一体語。 「ギコハハハ」はぁゃιぃわーるどで一世を風靡したコブラが流行らせたもの。
これに、藤子不二雄Aが作品中でよく使う絶叫「ギニャー」、 カードキャプターさくら(なかよし掲載)に出てくる台詞の、 「はにゃ~ん」(「萌え~」のような意味のつぶやき) がミックスされ、 「ギコハニャーン」という言葉が生まれました。
今は「逝ってよし!」の台詞でおなじみですが、初期のうちは この「ギコハニャーン」という台詞とともに書き込まれることが 多かったために、「ギコ猫」と呼ばれるようになったそうです。
「ぬこ」は、2ちゃん用語で「ねこ(猫)」のことです。(笑)
2ちゃんねる全体よくわかりませんが、ニュース板にはよくいきますので、そこで覚えました。
ほかにもうちでは使いませんがこんな用語もあったりします。
◎厨房
中学生→中坊→厨房。
特に中学生というわけではないが、ガキっぽい人のことを指します。
サカキバラ事件以降、Web上で頻繁に使われるようになりました。
また、「消防」とか「生姜臭え」、「工房」とかの造語を使う人もいますが、 これらはそれぞれ「小坊」「小学生」「高坊」という意味です。
また、狭い意味では、せっせとコピペに励む人を指すこともあります。
基本的に罵倒語、差別用語なので、使わない方が無難。
◎(ワラ、(藁、(ワラ、(w、(^^
笑っていることを示す記号。(笑)と同義です。
場を和ませる効果の他にも、嘲笑の意味で挑発に使われたりします。
虚勢を張って余裕に見せる、という悲愴な使用例もあるとか…。
使用例:厨房君は早く寝ましょうね (w
● モナー
Λ_Λ
( ´∀`)
( )
| | |
(_)_)
この動物↑。正式名称は「オマエモナー」。2ちゃんねるのマスコット。
誰かが周囲の人間(2ch 参加者)を罵倒・卑下するような発言をすると 「オマエモナー!」の台詞とともによく書き込まれます。 「他人を攻撃するのに夢中になっていると自分が見えなくなる」との 教訓を含んでいるという説もあります。
ちなみに彼が2ちゃんねるに初めて登場したのは1月3日。
その頃のモナーは形体が今とは違い丸耳だった。 出所は「ぁゃιぃ」とも「アブナイ」とも言われていますが詳細は不明。(両方とも掲示板の名前です念のため..)
● ギコ猫
∧ ∧
~′ ̄ ̄( ゚Д゚)
UU ̄ ̄U U
この動物↑。正式名称は「ギコハニャーン」。2ちゃんねるの第2マスコット。
よく、「逝ってよし!」(=氏ね)の台詞とともに書き込まれます。
世間擦れした、憎々しくも可愛らしいキャラクターです。
+++ ギコ猫の由来について +++
「ギコハハハ」(ぁゃιぃわーるど) と「ギニャー」(藤子不二雄A) と 「はにゃ~ん」(CLAMP) の三位一体語。 「ギコハハハ」はぁゃιぃわーるどで一世を風靡したコブラが流行らせたもの。
これに、藤子不二雄Aが作品中でよく使う絶叫「ギニャー」、 カードキャプターさくら(なかよし掲載)に出てくる台詞の、 「はにゃ~ん」(「萌え~」のような意味のつぶやき) がミックスされ、 「ギコハニャーン」という言葉が生まれました。
今は「逝ってよし!」の台詞でおなじみですが、初期のうちは この「ギコハニャーン」という台詞とともに書き込まれることが 多かったために、「ギコ猫」と呼ばれるようになったそうです。
宗教者のおごりとは(自戒)
2010年12月19日
宗教をしていると、特有の「おごり」がでやすくなることに気付く。
それは「周りよりも自分の神様の方がすごいんだぞ」という信仰への優越感や教義への確信がそうさせるのかもしれない。
しかし、それは通過儀礼であると同時に、「それ(宗教者のおごり)に気付かなければ先はない」とも思う。
隊長からも以前指摘されたが、このおごりと対極にある、一段高い認識としての「下座」という考え方がある。(会員もよくわかってないが、実はうちの宗派のヘッドはちゃんと書籍に書いていた。たぶんヘッドとしては常識レベルの考え方なのだろう。しかし、それが末端にはほとんど認知されていない。)
このおごりは宗教内部でも散見される。自分よりも認識が低いと思う人、環境が厳しい人への冷たい眼差し。斬って捨てるような冷たい言葉。
しかしその時点で「その心は神から最も遠い」と気付かねばならないのではないだろうか。
隊長は言う。「その言葉や立ち振る舞いから、そいつがどの程度の器なのか、周りの人間は意外にかなり客観的に見てるもんだよ。自分の正しさだけを押しつけるヤツは冷笑して見てるし、自分の宗教だけが正しいなんて意見は誰でも言えることだからな。だから、キミのブログはそういう風にはなるな。自分のしてる宗教が正しいのならなおさら、キミのブログでそこだけに偏っちゃいけない。そういうことは支部や教会ですればいい。外の人間が知りたいのは「その教えを学んでるあんたの人としての器はどんだけなんだよ」ってとこなんだから。」
これは私にとってキツい一撃だった。自分という人間がすでに看板を背負っている。それは他人から見たら当り前でも、自分自身は見事にぬけていた・・というより、自分に都合よく忘れ去っていた。
私の中に「宗教」を都合よく使って自己防衛しているところはたくさんある。
偏らず、おごらず、純粋な信仰をもちたい。
すべての人に敬いを持ち、尊重できる器になりたい。
信仰が他の人を見下し、自分の優位を示すものにはなりたくない。
愛の教えは、選民思想からもっとも遠いはずだ。
信仰を自分に都合よくねじ曲げる、自分の「我」こそが最大の「魔」なのだと思う。
それは「周りよりも自分の神様の方がすごいんだぞ」という信仰への優越感や教義への確信がそうさせるのかもしれない。
しかし、それは通過儀礼であると同時に、「それ(宗教者のおごり)に気付かなければ先はない」とも思う。
隊長からも以前指摘されたが、このおごりと対極にある、一段高い認識としての「下座」という考え方がある。(会員もよくわかってないが、実はうちの宗派のヘッドはちゃんと書籍に書いていた。たぶんヘッドとしては常識レベルの考え方なのだろう。しかし、それが末端にはほとんど認知されていない。)
このおごりは宗教内部でも散見される。自分よりも認識が低いと思う人、環境が厳しい人への冷たい眼差し。斬って捨てるような冷たい言葉。
しかしその時点で「その心は神から最も遠い」と気付かねばならないのではないだろうか。
隊長は言う。「その言葉や立ち振る舞いから、そいつがどの程度の器なのか、周りの人間は意外にかなり客観的に見てるもんだよ。自分の正しさだけを押しつけるヤツは冷笑して見てるし、自分の宗教だけが正しいなんて意見は誰でも言えることだからな。だから、キミのブログはそういう風にはなるな。自分のしてる宗教が正しいのならなおさら、キミのブログでそこだけに偏っちゃいけない。そういうことは支部や教会ですればいい。外の人間が知りたいのは「その教えを学んでるあんたの人としての器はどんだけなんだよ」ってとこなんだから。」
これは私にとってキツい一撃だった。自分という人間がすでに看板を背負っている。それは他人から見たら当り前でも、自分自身は見事にぬけていた・・というより、自分に都合よく忘れ去っていた。
私の中に「宗教」を都合よく使って自己防衛しているところはたくさんある。
偏らず、おごらず、純粋な信仰をもちたい。
すべての人に敬いを持ち、尊重できる器になりたい。
信仰が他の人を見下し、自分の優位を示すものにはなりたくない。
愛の教えは、選民思想からもっとも遠いはずだ。
信仰を自分に都合よくねじ曲げる、自分の「我」こそが最大の「魔」なのだと思う。