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自我の縛めについて(つぶやき)

2010年12月19日

自分という人間をひもとくとき、人格が一つではないことに気付く。

思春期の頃から、それが苦しみであり悩みだった。

何か一つの事があったとき、そこに抱く感想は一つであるはずなのに、同時に3つくらいのバラバラな感想がうかぶ。

夢中になる何かをしていても、それを冷めた目で見ているもう一人もしくは複数の「自分」の視線を感じる。

いろいろな本を読んではじめてそれが「守護霊や憑依霊、インナーチャイルド、家族・先祖霊などからの意識干渉」など複数の要因であることがわかったが、そこには「現実逃避としての自分」があるのだろうとも思う。

ある人に言われたことがある。「アマちゃんは話してると人格がころころ変わるね。何か小さい頃つらいことでもあったの?」

小さい頃つらいことがあったかと問われればあることはあるだろうが、それのせいにすることはたやすい。

しかし、それは感受性の問題であり、もっと言えば、精神の軸になるところの「自己責任」をおそれる私自身の抑圧感の転嫁なのだろう。

それがなんであれ、そこにとどまることは健全な状態ではない。

自分を縛める「自我」の鎖を解くには、自分だけの力ではまず不可能であることはもう知っている。

それには「信仰」という大いなる存在との絆と絶対的信頼、聖職者や法友といった自分よりも認識の高い他者からの祈り、加護、助言などの助力が必要だ。

そこまで知りながらも、やはりどうしても「自我」という固い殻を幾重にも纏った自分を観る。

強く在りたいと願った自分が強さと思いこんだ「自我」は、苦しみを誤魔化すにはちょうどよくとも、それ自体が苦しみの磁石なのでいつまでたっても同じパターンの苦しみを引き寄せ続ける。

「自我」の澱を清め祓おうとするとき、主への祈りは私には痛みになる。

天上からの慈悲の光を浴びて「痛み」を感じる自分は、やはりまだどこか暗がりにあるのだと思う。

しかしこの暗がりからのわずかずつの歩みにも、美しさがあるという奇特な人もいる。


使命は、日常のなかにたやすく埋没する。

何度も何度も自分に問いかけねばならないと思う。


「信仰は愛であり、愛は行動をともなう。いずれが欠けていてもその信仰は本物ではない。」

愛とはなんだ。

愛を考えるとき、はるか遠くを見上げる自分を観る。












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Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 17:45│Comments(6)自分がたり
この記事へのコメント
基本的に法を広めていこうと思う気持ちで動くかぎり、大きく間違う事はないと思います。
信仰とは教えを良きものと見ること、そして教えを広めていく姿そのものです。
おっしゃられるとおり、自分が道のさなかで道を間違わないようにするために三法帰依がある訳ですから、
間違った道を歩もうとする自分を戒めてくれる法友は、大切にしたいものですね。
Posted by えひめの翁 at 2010年12月19日 18:14
意識干渉は僕もよく受けますが、考え過ぎたり恐れたりすると逆効果なので、

受けた時は「全ての意識干渉は妄想である」という言霊でスルーするようにしています。

自我の殻は、活動の中で無我の境地を繰り返し経験することでだんだん薄くなっていくと思います。
Posted by ピアニスト健太郎 at 2010年12月19日 21:41
『 明 る く 生 き る 』
--色々な考え方で複雑になりすぎているならば、いったんその頭のなかの
しがらみを断ち切ってみてください。単純に『明るく生きる』事が出発点で
  あることを知っていただきたいのです。--
大川隆法 著・『発展思考』 光明の人生 より・P78~P80
Posted by ミッシェル at 2010年12月19日 22:02
私自身にとっても非常にタイムリーな共感を覚える内容です。

私自身は

「エル・カンターレは無限の愛なんだ。私自身を愛し、生かし、許してくれる」

それを信じました。
どんな罪を犯しても、私を許して下さる無限の愛だと、私自身は知りました。

そうすると、素直に

「助けて下さい」

と言える様に、なりました。
そうすると

「世界は愛に依って成り立っている」

と知り、自己変革出来ました。
無限の愛を信じる事が、信仰の出発だとはっきり言える様になりました。
Posted by 沖縄ゴーヤ at 2010年12月20日 00:21
最近、とり立てて注目事件が無いもんだから、コメントできる記事が少なくってw

抽象的なので(そりゃ勿論具体的には書けないでしょうけれども)私には分からない部分はやっぱりあります。
>「自我」の澱を清め祓おうとするとき、主への祈りは私には痛みになる。
いま一つこの意味が分からないままコメントして申し訳ないw
でも、アマミさんが少しだけ背伸びしている。。。と言いますか、全体的に自然体じゃない。。。と言いますか、
無理をしている感じが何となく伝わってくる気がするんです。杞憂かもしれませんがね。
でね、先日も私のことで色々あったと思いますけれども、一つには、アマミキョさんに大変申し訳ないなと思って、
私もいい大人でありながらみっともないと言いますか、
きちんと冷静に受け止めていたつもりでしたが、
見えていなかったものがございました。ブログ運営者の立場で激しいコメントの応酬を受け止めたり、仕切ったり、精神的負担はかなり大きく、大変なご苦労があられたものと思います。
私自身、一部の心の驕りから、相手の仏性を磨き出せないばかりか、
かえって火をつけてしまったことに恥じ入り、
しばらく自らを封印することによって鎮静化するのを待っていました。
「全ての人に仏性がある。」私自身がそれを信じていなかった事が恥ずかしく、
ここに懺悔をかねましてコメントいたします。
下座、下化衆生とは形ではなくて、相手の仏性を磨きだす事、
相手の仏性を拝み出すことでもあります。
今後、それを大きな戒めといたします。

アマミキョさん、くれぐれも無理はなさらないで下さい。
厳しい状態になりましても、誰かが冷静になって仕切りなおしできますから。
Posted by えひめの翁 at 2010年12月20日 19:36
わたしも そうですが
多分 アマミキョさんも 背伸び?しているのかもしれませんよね。

知識があっても、経験を通して 知恵となった場合
その言葉が、自然というか 重みがあるというか・・

アマミキョさんの場合、あまりに 膨大な知識があるんだと思っています。
知識を消化しきれて 10年位経って アマミキョさんが わたし位の歳になった時 アマミキョさんの言葉は 光輝く言霊になるんだと思っています。

それで、良いんだと思いますよ。

その時が楽しみで楽しみで たまりません。
そんなアマミキョさんに 嫉妬しない様に わたしも気をつけなきゃと ここに書いておきます(苦笑)
Posted by 由里亜 at 2010年12月20日 23:22
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