甘い言葉はお好きですか?
2010年02月21日
昔いろんな宗教や霊能者の本を読んだら、こんな事がよく書いてあった。
いや、よくは書いてなかったかもしれないが、私が感動して覚えてたのはこんな一文だ。
「高位霊を名乗る者や、その者からの甘いささやきに気をつけろ」
「地獄への道は善意で舗装されている」
そして隊長からのお言葉ですよ。
「ああいう連中が修行者をおとすのは簡単だよ。『あなたは選ばれた人だ』って言えばいい。で、言うんだよ『自分を責めなくていい、ありのままの貴方でいいんですよ』ってな。まるで天使だろ?(笑)」
さすが隊長、修行なさってたからこそのリアルなお言葉ですね~。
ここに微妙なすり替えがある。1つ。本当に選ばれた人間ならば、甘えが許されるだろうか?天命とはそんな貴族思想だろうか?
もしも私が高位霊なら、たぶん、使命があり器があればこそ、あえて「ものすごい苦しみ」を与えながら、その意味を知って乗り越えよ、その経験をもって多くの者への知恵となれと諭すと思うんですよね。私だけなのかな?
私にはレベルの高い高位霊はいらっしゃいませんが、単純に考えてもいい先生ほどときにものすごい冷たいと思えるような的確なお叱りをくださいません?
もう1つ。たしかに、自分を責めすぎるのは罪です。しかし、向上のために自己探求・反省などを行じている者に対して、その言葉は適切ではない。
もっと言えば、「あ、やっぱ自分の悪いところなんか見なくてもいいんだ!いいところだけのばせばいいや~」と堕落に誘ってしまう。
オイオイ、見なきゃ直せないだろうが。どーすんだよ、その欠点は。致命傷だったらよ。
うーん。元プロってこうなんですね~。上手いっすね~。
正しい宗教が「禊ぎ祓い」や「八正道」「悔い改め」などで反省を重要視してる理由もまさにここにあるみたいですね。反省を忘れ慢心にはいったとき、 それが「魔道」への入り口なんですね。
そんなわけで、私も内なる「甘いささやき」に気をつけなきゃね!
『お菓子をそう我慢しなくてもいいんですよ。明日から少しずつ減らしていきなさい・・・』
(*´Д`*)ハァハァ .
いや、よくは書いてなかったかもしれないが、私が感動して覚えてたのはこんな一文だ。
「高位霊を名乗る者や、その者からの甘いささやきに気をつけろ」
「地獄への道は善意で舗装されている」
そして隊長からのお言葉ですよ。
「ああいう連中が修行者をおとすのは簡単だよ。『あなたは選ばれた人だ』って言えばいい。で、言うんだよ『自分を責めなくていい、ありのままの貴方でいいんですよ』ってな。まるで天使だろ?(笑)」
さすが隊長、修行なさってたからこそのリアルなお言葉ですね~。
ここに微妙なすり替えがある。1つ。本当に選ばれた人間ならば、甘えが許されるだろうか?天命とはそんな貴族思想だろうか?
もしも私が高位霊なら、たぶん、使命があり器があればこそ、あえて「ものすごい苦しみ」を与えながら、その意味を知って乗り越えよ、その経験をもって多くの者への知恵となれと諭すと思うんですよね。私だけなのかな?
私にはレベルの高い高位霊はいらっしゃいませんが、単純に考えてもいい先生ほどときにものすごい冷たいと思えるような的確なお叱りをくださいません?
もう1つ。たしかに、自分を責めすぎるのは罪です。しかし、向上のために自己探求・反省などを行じている者に対して、その言葉は適切ではない。
もっと言えば、「あ、やっぱ自分の悪いところなんか見なくてもいいんだ!いいところだけのばせばいいや~」と堕落に誘ってしまう。
オイオイ、見なきゃ直せないだろうが。どーすんだよ、その欠点は。致命傷だったらよ。
うーん。元プロってこうなんですね~。上手いっすね~。
正しい宗教が「禊ぎ祓い」や「八正道」「悔い改め」などで反省を重要視してる理由もまさにここにあるみたいですね。反省を忘れ慢心にはいったとき、 それが「魔道」への入り口なんですね。
そんなわけで、私も内なる「甘いささやき」に気をつけなきゃね!
『お菓子をそう我慢しなくてもいいんですよ。明日から少しずつ減らしていきなさい・・・』
(*´Д`*)ハァハァ .
『刑務所の怪談』を読んでみそ
2010年02月21日
これは面白いですよ!
父と母が、「これは面白いわ」と絶賛しました。
元刑務官が、刑務所で起きる出来事をオカルト中心に書いた本です。
レイプ犯が服役中もいかにレイプがいいかを語り、次のレイプを想像して自慰にふけるなど、ほとんど更正不可能な様子や、犯罪者にまつわる背景とまわりにおきる霊現象を書いてます。
刑務所は公的機関なのでオカルトな話題はタブーだったようですが、やはりあちこちに御札が隠れて貼ってたみたいですね。
中でも印象ぶかい話を一つ。
正義感のつよいやくざがいた。やくざは、業界から仁義が失われつつあることを嘆き、失望していた。失望から覚醒剤に手をだし、そのせいかときどき狂ったように暴れる。そのときは必死の形相でとても手がつけられなくなるので、本人が「ヤバイです・・」と自己申告して独房に隔離する。
独房には監視カメラがついているので、ある日、なんとなしに暴れるやくざの様子を監視していた。独房の方からはやくざが壁や扉を蹴る轟音や絶叫が響いている。
すると、あらんかぎりの形相で暴れるやくざの上に黒いもやがみえた。
黒いモヤは、やがてセーラー服をつけた女子高生の姿になった。
女子高生から逃げるかのように、やくざは暴れていたのだ。
女子高生の手がやくざにのびる。女子高生の手はやくざの体を少しずつ引き裂く。やくざの体はあちこち肉が裂け、骨がとびでている。
刑務官は震えがとまらなかった。
やがてやくざが絶叫して気絶すると、刑務官はたまらず様子をみにいった。
やくざの体には傷ひとつなかった。女子高生の姿も消えていた。
全身汗でぐしゃぐしゃになりながら正気に戻ったやくざに、声をかけた。
「お前、あの娘に覚えがあるんだな・・・」
やくざはうなづいた。
「何したんだ」
「学校からの帰りに、拉致して、強姦(マワ)して、余所の組織に売り飛ばしました・・・・」
「クズが!何が仁義だ!あの子はたぶん死んだんだぞ・・・」
やくざは号泣した。
そのやくざはまもなく出所したらしいが、風の噂にもその後の消息はきかないという。
犯罪者の末路がよーくわかる一冊です。
父と母が、「これは面白いわ」と絶賛しました。
元刑務官が、刑務所で起きる出来事をオカルト中心に書いた本です。
レイプ犯が服役中もいかにレイプがいいかを語り、次のレイプを想像して自慰にふけるなど、ほとんど更正不可能な様子や、犯罪者にまつわる背景とまわりにおきる霊現象を書いてます。
刑務所は公的機関なのでオカルトな話題はタブーだったようですが、やはりあちこちに御札が隠れて貼ってたみたいですね。
中でも印象ぶかい話を一つ。
正義感のつよいやくざがいた。やくざは、業界から仁義が失われつつあることを嘆き、失望していた。失望から覚醒剤に手をだし、そのせいかときどき狂ったように暴れる。そのときは必死の形相でとても手がつけられなくなるので、本人が「ヤバイです・・」と自己申告して独房に隔離する。
独房には監視カメラがついているので、ある日、なんとなしに暴れるやくざの様子を監視していた。独房の方からはやくざが壁や扉を蹴る轟音や絶叫が響いている。
すると、あらんかぎりの形相で暴れるやくざの上に黒いもやがみえた。
黒いモヤは、やがてセーラー服をつけた女子高生の姿になった。
女子高生から逃げるかのように、やくざは暴れていたのだ。
女子高生の手がやくざにのびる。女子高生の手はやくざの体を少しずつ引き裂く。やくざの体はあちこち肉が裂け、骨がとびでている。
刑務官は震えがとまらなかった。
やがてやくざが絶叫して気絶すると、刑務官はたまらず様子をみにいった。
やくざの体には傷ひとつなかった。女子高生の姿も消えていた。
全身汗でぐしゃぐしゃになりながら正気に戻ったやくざに、声をかけた。
「お前、あの娘に覚えがあるんだな・・・」
やくざはうなづいた。
「何したんだ」
「学校からの帰りに、拉致して、強姦(マワ)して、余所の組織に売り飛ばしました・・・・」
「クズが!何が仁義だ!あの子はたぶん死んだんだぞ・・・」
やくざは号泣した。
そのやくざはまもなく出所したらしいが、風の噂にもその後の消息はきかないという。
犯罪者の末路がよーくわかる一冊です。
ある軍人・牛島満
2010年02月21日

1887年7月31日 -1945年6月23日(満57歳没)
沖縄戦直前の牛島満
生誕地 鹿児島県鹿児島市
死没地 沖縄県島尻郡摩文仁村(現・糸満市)摩文仁
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1908 - 1945
最終階級 陸軍中将(死後大将に昇進)
指揮 第32軍司令官
第11師団長
歩兵第36旅団長
歩兵第1連隊長
戦闘/作戦 シベリア出兵
日中戦争
→ 南京攻略戦
第二次世界大戦
→ 沖縄戦
賞罰 正四位勲一等功二級
牛島 満(うしじま みつる、1887年(明治20年)7月31日 - 1945年(昭和20年)6月23日)は、日本の陸軍軍人。鹿児島県鹿児島市出身。沖縄戦において、第32軍を指揮し、自決した。温厚な性格で知られ、教育畑を歴任したが、指揮官としても、歩兵第36旅団長として武漢、南京攻略に参加し、功績を挙げた。
年譜 [編集]
1908年(明治41年)5月 - 陸軍士官学校卒業(20期)。
12月 - 少尉に昇進。近衛歩兵第4連隊附。
1911年(明治44年)12月 - 中尉に昇進。
1916年(大正5年)5月 - 陸軍大学校卒業(28期)。
1918年(大正7年)8月 - シベリア出兵(~1920年8月)。シベリア派遣軍野戦交通部参謀。
12月 - 大尉に昇進。
1919年(大正8年)4月 - 近衛歩兵第4連隊中隊長。
1920年(大正9年)8月 - 陸軍歩兵学校教官。
1924年(大正13年)3月 - 少佐に昇進。歩兵第43連隊大隊長。
1925年(大正14年)4月 - 歩兵第45連隊附(第一鹿児島中学校配属)。
1928年(昭和3年)3月 - 歩兵第23連隊附。
8月 - 中佐に昇進。
1930年(昭和5年)8月 - 下関要塞参謀。
1932年(昭和7年)8月8日 - 大佐に昇進。陸軍戸山学校教育部長。
1933年(昭和8年)3月18日 - 陸軍省高級副官。
1936年(昭和11年)3月28日 - 歩兵第1連隊長。
1937年(昭和12年)3月1日 - 少将に昇進。歩兵第36旅団長。
12月5日 - 陸軍予科士官学校幹事。
1939年(昭和14年)3月9日 - 陸軍予科士官学校校長。陸軍戸山学校校長(兼任)。
8月1日 - 中将に昇進。
12月1日 - 第11師団長。
1941年(昭和16年)10月15日 - 陸軍公主嶺学校校長。
1942年(昭和17年)8月8日 - 陸軍士官学校校長。
1944年(昭和19年)9月26日 - 第32軍司令官。
1945年(昭和20年)5月22日 - 南部撤退を決定。 6月23日 - 早朝、摩文仁の丘洞窟内で長勇参謀長らと自決(同日は沖縄県慰霊の日。自決は22日だったとする説もある)。同日付けにて陸軍大将に特進。
(ブログ読者様によると、自決前に昇進されてるそうです。)
沖縄戦
牛島の評価
ウィキクォートに牛島満に関する引用句集があります。沖縄戦において、牛島は万事を長勇参謀長ら部下に一任し、自らは責任のみ負うとした。しかし、沖縄戦後半に作戦立案を一任した八原博通高級参謀は、作戦を巡ってしばしば他の参謀と対立し、司令部に不協和音を生じる一因ともなった。また、大打撃を受けた5月4日の大攻勢や、民間人に多数の犠牲を出す要因となった首里撤退は、提案したのは長勇参謀長や八原高級参謀とはいえ、その判断は誤っていたとする指摘もある。
また、牛島個人としては、無辜の住民を戦禍に巻き込まない方法はないかと苦慮し、着任してすぐ県知事と協議している。当初は、輸送船を使っての住民疎開を考えたが、「対馬丸」が撃沈されたため計画は頓挫した。牛島は対馬丸撃沈の報を聞くと瞑目、合掌したが、手が震えていたという。また60歳以上の老人、国民学校以下の児童並びにこれを世話する女性を北部に疎開させるよう指示を出した。牛島としては、本島北部に住民を避難させて、軍民一体となった「玉砕」を防ごうとしたと見られる。これは一億玉砕を唱える当時の軍部の方針に反するものであった。八原高級参謀も「サイパンの二の舞は厳に慎むべき」と牛島の計画を支持した。(一方で、北部にある密林地帯、同地域で「やんばる」と呼ばれるその一帯には食糧の備蓄はなく、また長期間の避難では栄養失調、最悪で餓死者が出るということは容易に想像が出来たのではないか、とする意見もある。実際「やんばる」に逃れた住民の死因の大半は栄養失調や餓死であった。ただ、牛島としてはいざという場合に、軍用糧食を一般住民に配給する覚悟を決めており、側近にも漏らしている。)。また、牛島自らも県民と共に、首里司令部洞窟壕作りを手伝った。牛島は暇があるたびに作業現場を視察し、中学生や住民にまじって壕堀りの手伝いをした。県民の献身に感動した牛島は軍経理部に出来うる限りの給与を与えるよう指示している。
しかし、大本営が沖縄作戦を本土作戦のための時間稼ぎと考えており、牛島もこの方針に従い指揮していたことや、南部撤退の過程で県民に多数の犠牲を出したことが批判される。首里から撤収中、牛島は民間人の遺体を見るたびに合掌し、野ざらしになった死骸、親を失って泣き叫ぶ幼児、爆撃で黒焦げた親子の遺体を見るにつけ、「なぜ、このような惨状を事前に見通せず、喜屋武半島撤退計画に安易な決裁を与えたのか。軍司令官としての沖縄県民に対する責任を、いかにして償えば良いか」と苦悩し、首里撤退の誤りを認めている。 シュガーローフの戦いでは、精鋭無比を誇る米海海兵隊の猛突撃を1週間もの間阻止した。多くの海兵隊員たちは、仲間の死体の中で、日本軍の夜襲を受けるなど、死闘を繰り広げることなり、精神異常者が1500名以上も続出した。連合国側で高く評価されている戦いであるが、日本国内でこの戦いを知る人は少ない。
牛島は自決する直前の6月上旬、米軍に軍使を送るとともに、知念半島の非武装化を提案し、そこに県民を移そうとした。米軍も一旦それに同意したが、米軍の軍使が日本軍の狙撃兵によって殺されたため、その計画も頓挫した。
また、鉄血勤皇隊や女子看護学徒隊らに突然「爾後各個の判断において行動すべし」との内容の解散命令を出し、その多くが死傷または行方不明となったり自決したことの責任、自決しただけで自身は部下らとは違い、捨て身になって敵兵に向かい戦死したのではないこと、そして牛島の最後の命令が「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と降伏を否定するものだったこと(ただし、この文を実質作成したのは長野英雄作戦参謀で、『生きて虜囚の~』の件は長参謀長が付け加えた)から、戦後、沖縄県民には牛島に対し厳しい見方があった(ただし、元陸軍少佐の奥田鉱一郎は、牛島の首里撤退の誤りを指摘しつつも、「生き残った第32軍の将兵はもちろん、沖縄県民の牛島司令官個人への感情は、敬愛の気持ちこそあれ、反感や怨磋の声は聞かれなかった」と主張している)。
アメリカ軍事評論家のハンソン・ボールドウィンは、「太平洋戦争において日本の名将を二人あげるとするならば、陸の牛島・海の田中」と評し(田中とは、第二水雷戦隊司令官であった田中頼三海軍中将のこと)、牛島の采配を高く評価している。しかし日本国内では、島民の安全を考えて戦闘前に疎開させる配慮を行った硫黄島の栗林忠道陸軍大将や、沖縄戦において、玉砕前に戦後の沖縄県民に対して配慮の要望を記述した『沖縄県民斯ク戦ヘリ』の惜別電文を打った大田実海軍中将と比較すると、沖縄戦での牛島の采配に対しては評価が分かれている。(ただし前者については当時の沖縄県と硫黄島では人口が明らかに違ううえに、船舶の確保が難しい情勢および対馬丸事件に代表される制海権・制空権喪失による安全な疎開船運航ができない状況では、単純な比較は難しい)
最近、米国立公文書館から、牛島が自決の直前に鉄血勤皇隊の情報宣伝隊(千早隊)の隊長に、遊撃戦により戦闘を続けるよう命令する「訓令」の文書が大田元沖縄県知事によって発見された。当時、千早隊隊長が隊員に対し同様の命令をしており、「訓令」は、米国国立公文書館の米第10軍の戦闘記録に含まれていた。鉄血勤皇隊の解散前後の1945年6月18日付で発令され、千早隊隊長の益永董陸軍大尉あてに「軍ノ組織的戦闘終了後ニ於ケル沖縄本島ノ遊撃戦ニ任スヘシ」と命じている。
辞世の句
「矢弾尽き 天地染めて 散るとても 魂還り 魂還りつつ 皇国護らん」
「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ」
最期
6月23日午前4時30分、牛島は長勇中将と摩文仁洞窟にあった司令部壕で割腹自決をした。自決の直前、牛島は長参謀長と共に東方を拝して「天皇陛下万歳」を三唱。頬には涙が伝っていたという。午前4時頃、牛島は幕僚と共に、洞窟から外に出て眼下に広がる沖縄の空と海を見渡し、再度洞窟に引き返した。当初は摩文仁の丘の上で自害するつもりであったが、米軍の攻撃が激しく断念している。その夜は壕にいた生存者全員が集められ、牛島は皆に「笑って別れよう」と語り、一人ずつに酒とパイナップルの缶詰を振舞い、今までの労をねぎらった。
牛島は、戦闘に汚れた服から礼装に着替え、東方を拝して白い布の上に正座した。牛島は手に銘刀「来国俊」を持ち、「沖縄の人たちは私を恨みに思っているに違いない」と言うと、刀を腹に突き当てた。そして、以前より介錯を頼んでいた次級副官、坂口勝大尉が軍刀を牛島の首に振り落とす。しかし、坂口大尉は右手を負傷していたため、手元が狂って刃が充分な深さに達せず、代わりに近くにいた軍曹が介錯を行っている。
牛島の逸話
彼は昔から戦場で用便を済ます癖があり、必ず見晴らしのいい場所などを選んでいたらしい。中国戦線では用便中に中国軍の1個分隊が目の前に現れたが、その1個分隊を捕虜にしたというエピソードも残っている。 ある日、自宅に酔っ払いが表札の「牛島」を「牛鳥」と読み間違え、飲み屋と間違えて上がって来た事があったが、牛島は嫌な顔をせずに酔っ払いに御馳走したという。