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不平不満という猛毒

2010年02月16日

以前つとめていた会社でのこと。

上司はつねに「神仏の目に合わせなさい。道理を判断の基準にしなさい。自分の感情にながされず、つねに一歩ひいた目で自他をみつめなさい。不平不満をもってはいけない」といっていた。

私はそれが理解できず、上司に不平不満をもっていた。

上司の正しさはわかる。しかし、10%の部分に不平不満があった。

しかしあるとき、自覚した。

不平不満をもった瞬間、自分からすさまじい悪臭がしていたのだ。(霊臭?)

また、自分をガッチガチに正当化して会社への不平不満を語るスタッフから、きもちわるい黒いケムリがあがり、そのときだけものスタッフからすごい悪臭がただよっていた。(マジで吐いた)

やがて不平不満を語る人間ほど仕事ができていないということもみえてきた。つねに結果としての実績をあげ、安定した人格の方ほど、不平不満と遠いところにいるということも。

事実、上司は、師匠はどんな状況であっても不平不満を口にすることはなかった。

不平不満は、因果をわかっていないことからくる。因果がわかり、自分がわかれば、不平不満を言えるような実績を自分がだしていないことが、そんな自分が不平不満をいうことがいかに「恥ずかしい」ことか、わかるのだ。

しかし不平不満の毒は、つねに私の心のすきをうかがっている。

それは実績をだせない、実力のない自分を正当化できる、まことに口あたりの甘い極上の猛毒だ。

それは環境においても、組織にたいしても、家庭にたいして、過去にたいしてもそうだろう。

不平不満をもつことから、魔はしのびよってくる。

くらいと不平を言うよりも、すすんで明かりをつけましょー(昔のキリスト教の早朝番組のはじまりのフレーズ。なつかすぃー)

もしも不平不満がでてきてとまらないときは、誰か(霊的なモノ)の干渉もあるかもしれない。それを見抜いたうえで、静かに心をしずめることだ。

私は今まで、目上や神仏を疑う言葉がきこえたことが三回ある。非常に恥ずかしいことだが、私は隠す気はない。

そのとき、私は最初怒鳴りまくって対抗した。しかし、こちらがムキになればなるほど、さらに周りの人々の善意を疑い、神仏という善なる存在を疑う声もまた大きくなる。

これではキリがない、このままでは自分の負の思いとの同じ土俵での念力合戦だと思った私は、合掌して、疑の言い分にしずかに耳をかたむけた。

きいたあと、おだやかにききかえした。

「で、あなた(私)は目上の方々や神仏を裁くほど神仏に並ぶ救済をしてるんですか?影響力を、徳力をもっていますか?様々な宗派でいわれ証明されているところの神・仏は、それぞれの民族・歴史において公平な希望の法を説いてくださってます。それによってたくさんの善なる思いがうまれ、その善なる思いにおいて人々は人生への光明を得てきました。また、神仏をふかく信じる方々ほど、栄光や名声をいただきながら、かぎりなくストイックであり自己に厳しく、それぞれの立場から公に益しようとする愛にみちています。
あなたはどうですか?できてますか?これからできますか?それができるあなたであるなら、言い分も聞く価値がありますが、どうですか?できますか?できるんですか?」

すると、負の思いの言葉はピタリと止んだ。(笑)

自分の未熟さを棚にあげて、周りの欠点をあげつらうことは、あまりに幼稚なこころだ。

しかし、その幼稚なこころをいまだもっている自分を、しのびよらせる自分を、恥じなければ、正さなければいけない。

目上の方に不平不満をもつとき、家庭に不平不満をもつとき、職場に不平不満をもつとき、そのときこそ、大切なのは「智慧」なのだと思う。

感情に振り回されず、つねに神仏の方を、つまり道理の方を向く。まず自らをただす。

上司にいわれた言葉を思い出す。

自分を知り、自分を改める。傷つくことを恐れてはいけない。

それができる私になりたいと思う。






と、隣りの川崎さんが言ってました(o‘∀‘o)  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 21:58Comments(0)自分がたり

不平不満・反発の原因

2010年02月16日

神仏や上司・伴侶・目上の者などに不平不満や反発をいだきやすいとき、その原因をさぐると実は親子関係にあることはめずらしくない。

自分は親からどのような影響をうけたか、親にどのような思いをいだいていたか、幼いとき自ら想念体にやきつけた思いのパターンをそのまま成長しても目上の存在に投影していたということは多い。しかも大体において無自覚だ。

だから、他の宗派もそうだと思うが、うちの宗派の研修では「愛」において「親子関係をふりかえること」をもっとも大切な軸にしている。

また、仏教における人間の罪のなかで一番重い「五逆の大罪」には父殺しと母殺しがはいっている。親という存在への見方、その結果というものは、悟りと信仰にストレートにつながるものだからだ。

両親に対する反省と感謝、これは以外に非常に大きな学びでもある。

つまり、親にたいして反省と感謝をできていない者は、悟りと信仰も真の意味ではできていないといっても過言ではない。

親を裁くこころは、神仏を裁く心につながるからだ。

産み育ててくださった親よりも、その愛に報いることもなく自分の見方をとる心は傲慢にみちている。

それは、神仏の愛に生かされながら小さな己の心で神仏を否定したり裁いてはばからない姿とも似ている。

親という存在への認識をただしくみつめ、親への不平不満や反発への見方を浄化させること。

親からの負の影響をただしく自己の学びとして昇華させ、親の分まで人間としての成熟の道にはいること。

これがただしく自分をみがき、またただしい信仰にはいるための一つの入り口にもなるだろう。



と、私に言いたい。 
m9っ`・ω・´) ビシッ。
  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 21:48Comments(2)自分がたり