隊長との雑談・ある日常
2010年02月26日
その御方を、私は畏怖と尊敬をこめて『隊長』とお呼びしています。
もちろん、何を言われた時も返事はすべて「レンジャー!」です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・すみません、冗談です。
そんなわかりにくい冗談はともかく、隊長はときどき私に、コーラを500倍に濃縮して唐辛子と般若蕩と梵字と大麻(アレではない方)と火曜サスペンス劇場をいっしょくたにして一気のみしたかのような、清涼飲料水のようなさわやかなひとときを恵んでくださいます。
え?もっとわかりにくい?
そんな隊長のお話です。
「一年くらい前、オヤジ狩りにあっちゃってさぁー」
「え!?そうなんですか??」
「そうそう。深夜にコンビニの駐車場の奥に車とめて出たら、若いニーチャンが二人。スッと俺の前後をはさんで立つわけよー」
「・・・・・・・・・・!(ゴクリ)」
「それで前にいた方が言うんだよね。“俺たちいまお金がなくて”言い終わる前に○○けってしゃがんだところを両手で頭はさんで顔面にひざいれて、そのままけり5、60発ぐらいいれて、完全にのびたところで近くの川にほおりこんだ。で、もう一人にあんたもやる?っていったら、ぶるぶる頭振ってそのまま逃げてったよ☆」
「・・・・・・・・・・・・あの、それ過剰防衛じゃぁ・・・・・・・」
「なんでだよー(笑)2対1だぜ?こっちはおじさんだし、不利にきまってるじゃん。だから先手必勝。」
「相手の方に万が一の事があったらどうするんですか!(苦笑)」
「あー。大丈夫大丈夫。ちゃんと急所は避けてるし。念のため次の日よーく新聞読んだけど載ってなかったから☆」
「しかしですねー」
「それに万が一の時があったにしても、それは彼らに《運》がなかったんだよ。彼らはオヤジ狩りをしようとした時点で、《運》を捨ててるんだから」
うーむ。そうか。そういうことなのか。
また一つ、勉強になりました。あまりにすばらしいお話でしたのでこちらにしたためてしまいましたが、寛大で慈悲深い隊長はかならずや許してくださるものと固く信じております。
教訓:全国の人の道を外れた若者のみなさん。オヤジ狩りはやめておきましょう。
もちろん、何を言われた時も返事はすべて「レンジャー!」です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・すみません、冗談です。
そんなわかりにくい冗談はともかく、隊長はときどき私に、コーラを500倍に濃縮して唐辛子と般若蕩と梵字と大麻(アレではない方)と火曜サスペンス劇場をいっしょくたにして一気のみしたかのような、清涼飲料水のようなさわやかなひとときを恵んでくださいます。
え?もっとわかりにくい?
そんな隊長のお話です。
「一年くらい前、オヤジ狩りにあっちゃってさぁー」
「え!?そうなんですか??」
「そうそう。深夜にコンビニの駐車場の奥に車とめて出たら、若いニーチャンが二人。スッと俺の前後をはさんで立つわけよー」
「・・・・・・・・・・!(ゴクリ)」
「それで前にいた方が言うんだよね。“俺たちいまお金がなくて”言い終わる前に○○けってしゃがんだところを両手で頭はさんで顔面にひざいれて、そのままけり5、60発ぐらいいれて、完全にのびたところで近くの川にほおりこんだ。で、もう一人にあんたもやる?っていったら、ぶるぶる頭振ってそのまま逃げてったよ☆」
「・・・・・・・・・・・・あの、それ過剰防衛じゃぁ・・・・・・・」
「なんでだよー(笑)2対1だぜ?こっちはおじさんだし、不利にきまってるじゃん。だから先手必勝。」
「相手の方に万が一の事があったらどうするんですか!(苦笑)」
「あー。大丈夫大丈夫。ちゃんと急所は避けてるし。念のため次の日よーく新聞読んだけど載ってなかったから☆」
「しかしですねー」
「それに万が一の時があったにしても、それは彼らに《運》がなかったんだよ。彼らはオヤジ狩りをしようとした時点で、《運》を捨ててるんだから」
うーむ。そうか。そういうことなのか。
また一つ、勉強になりました。あまりにすばらしいお話でしたのでこちらにしたためてしまいましたが、寛大で慈悲深い隊長はかならずや許してくださるものと固く信じております。
教訓:全国の人の道を外れた若者のみなさん。オヤジ狩りはやめておきましょう。
自殺はなぜいけないのか
2010年02月26日
もうどのくらい前からでしょうか。奄美での自殺の異常な多さが、たくさんの人々の口によってひそやかにささやかれるようになったのは。
今日は誰さんの親が・・・・昨日は誰さんの友達の弟が・・・そのささやきの多さに、うんざりすることが多くなりました。
ある旅行ガイドの方からきいたお話では、山中のツアーガイドの最中に遺書の残された無人の車を発見するのが一度や二度ではないと。
それをきくたびに、私はかなしみと怒りがこみあげてしまうのです。
自殺はどんな理由であろうと罪です。それはあなたを愛してきたご先祖さまや奄美の神様や、あなたと関わり支え合いをもったすべての方を傷つけるからです。
殺すなら、己のその弱さを殺せ!!自分しかみえないその心の目をつぶせ!!
皆に指さされて笑われても、砂をかんでも、生きて生きて、生きて生き恥をさらせ!!と、私は思ってしまうのです。
小学生のとき、いじめられていた私は、一度本気で自殺を考えました。
しかし最後にそれを止めてくれたのは、両親の存在でした。
私のせいでたくさん苦労した父と母を、これ以上、悲しませちゃいけない。
生きる。両親が死ぬまでは生きる。
その思いを支えに、歯をくいしばることができました。
本当につらい時には、どうか自分を捨ててください。そして、大切な方、恩をかえさねばならない方のために生きてください。
自分の苦しみよりも、あなたを生かしめた周りのみなさんへの報恩だけを考えてください。
自殺とは、自己憐憫のきわみという意味では最大の“驕り”でもあるのですから。
自殺という悲しい出来事が、一つでもなくなりますように。
今日は誰さんの親が・・・・昨日は誰さんの友達の弟が・・・そのささやきの多さに、うんざりすることが多くなりました。
ある旅行ガイドの方からきいたお話では、山中のツアーガイドの最中に遺書の残された無人の車を発見するのが一度や二度ではないと。
それをきくたびに、私はかなしみと怒りがこみあげてしまうのです。
自殺はどんな理由であろうと罪です。それはあなたを愛してきたご先祖さまや奄美の神様や、あなたと関わり支え合いをもったすべての方を傷つけるからです。
殺すなら、己のその弱さを殺せ!!自分しかみえないその心の目をつぶせ!!
皆に指さされて笑われても、砂をかんでも、生きて生きて、生きて生き恥をさらせ!!と、私は思ってしまうのです。
小学生のとき、いじめられていた私は、一度本気で自殺を考えました。
しかし最後にそれを止めてくれたのは、両親の存在でした。
私のせいでたくさん苦労した父と母を、これ以上、悲しませちゃいけない。
生きる。両親が死ぬまでは生きる。
その思いを支えに、歯をくいしばることができました。
本当につらい時には、どうか自分を捨ててください。そして、大切な方、恩をかえさねばならない方のために生きてください。
自分の苦しみよりも、あなたを生かしめた周りのみなさんへの報恩だけを考えてください。
自殺とは、自己憐憫のきわみという意味では最大の“驕り”でもあるのですから。
自殺という悲しい出来事が、一つでもなくなりますように。
天のこころ
2010年02月26日
いきなりアヤシゲなタイトルで失礼いたします。(笑)
数年前あるお客様に呼ばれ、出張マッサージに伺った時のことです。
お一人ずつ合計4人のお客様をさせていただいていたのですが、最後のお一人様になんとなく普段と違う感覚を感じていました。
三人の方はどことなく日本神道系のかほりで『ああ、そちらのご縁で奄美までいらしてくださったんですね。ありがとうございます。』と、まぁフツーにすすんでいたんですが、
最後のお一人様、お子様連れの若いお母様をさせていただこうとした時、ガラリを空気がかわりました。
???と思いなんとかイメージを合わせると、
『主への祈り』
という言葉とともに、美しい賛美歌のような音楽がきこえてきました。
悲しみと祈り。その深くどこまでも透明な想いが天から降り注ぎ、悲しいはずなのに、非常な神々しさをたたえていました。
目に見えない光が降り注ぐ、まるで教会のような雰囲気に圧倒されながらマッサージしていると、若いお母様は、何故かマッサージの間、目に涙をためておられました。
泣くのをこらえてかすかな嗚咽をかみしめておられるのを知り、私はただ、理由もわからぬままマッサージを続けるしかありませんでした。
後日招いてくださった出張先のお客様がご来店くださったので、思い切ってそのことをお伝えしました。すると、お客様の表情が一変しました。
「実はあの女性は、数ヶ月前にご主人を、交通事故で亡くされたんです。
まだ赤ちゃんも生まれたばかりで、上の女の子と坊やも、いまも時々
「パパに会いたい」
と夜泣きするみたいで、とても不憫で・・・・・。
それで今回、少しでもなぐさめになれたらと奄美にお連れしたんですよ・・・・。」
ああ、あの光は、天からのなぐさめだったのか。
亡くなられたご主人の悲しみも、のこされた奥さんの悲しみも、天はすべてご存じだったのですね。
あのどこまでも崇高で優しい悲しみと祈りの光は、若いお母様の悲しみを共にかなしみ、光によって抱きしめる天の想いだったんです。
悲しみや孤独の中に神様の臨在を感じるというのは、たとえではなくまぎれもない本当のことだったのだと、こころに刻まれた出来事でした。
数年前あるお客様に呼ばれ、出張マッサージに伺った時のことです。
お一人ずつ合計4人のお客様をさせていただいていたのですが、最後のお一人様になんとなく普段と違う感覚を感じていました。
三人の方はどことなく日本神道系のかほりで『ああ、そちらのご縁で奄美までいらしてくださったんですね。ありがとうございます。』と、まぁフツーにすすんでいたんですが、
最後のお一人様、お子様連れの若いお母様をさせていただこうとした時、ガラリを空気がかわりました。
???と思いなんとかイメージを合わせると、
『主への祈り』
という言葉とともに、美しい賛美歌のような音楽がきこえてきました。
悲しみと祈り。その深くどこまでも透明な想いが天から降り注ぎ、悲しいはずなのに、非常な神々しさをたたえていました。
目に見えない光が降り注ぐ、まるで教会のような雰囲気に圧倒されながらマッサージしていると、若いお母様は、何故かマッサージの間、目に涙をためておられました。
泣くのをこらえてかすかな嗚咽をかみしめておられるのを知り、私はただ、理由もわからぬままマッサージを続けるしかありませんでした。
後日招いてくださった出張先のお客様がご来店くださったので、思い切ってそのことをお伝えしました。すると、お客様の表情が一変しました。
「実はあの女性は、数ヶ月前にご主人を、交通事故で亡くされたんです。
まだ赤ちゃんも生まれたばかりで、上の女の子と坊やも、いまも時々
「パパに会いたい」
と夜泣きするみたいで、とても不憫で・・・・・。
それで今回、少しでもなぐさめになれたらと奄美にお連れしたんですよ・・・・。」
ああ、あの光は、天からのなぐさめだったのか。
亡くなられたご主人の悲しみも、のこされた奥さんの悲しみも、天はすべてご存じだったのですね。
あのどこまでも崇高で優しい悲しみと祈りの光は、若いお母様の悲しみを共にかなしみ、光によって抱きしめる天の想いだったんです。
悲しみや孤独の中に神様の臨在を感じるというのは、たとえではなくまぎれもない本当のことだったのだと、こころに刻まれた出来事でした。