日中関係の疑問「尖閣問題は誰がつくったのか?」
2013年01月28日
一つ疑問があるのです。
尖閣問題で、喧嘩を売ってきたのはたしか、私の記憶がたしかなら、中国のはずですよね?
なんで、日本から鳩山さんとか公明党の党首の方とか行ってるんですか?
「なんで?」
あちらからくるならまだわかりますよ?
なんで、こちらから、棚上げ論とか出す必要があるの?
「なんで?」
理解できない私がおかしいのでしょうか?
尖閣国有化をした日本政府が悪いとか、そこまでもっていく国内でのきっかけをつくった石原さんが悪いと言う方もおられますが、
みなさん、覚えておられますでしょうか?
そもそも、今の尖閣問題は、
菅政権のときの尖閣での中国漁船衝突事件とその事件をうやむやにした仙谷さんの暴挙からはじまったんではなかったのでしょうか?
(あのとき中国政府は、ODA事業で軍関係施設にいた日本人四人を人質にするという言語道断なことをしてますよね?)
あのときに、菅政権が隠蔽しようとした証拠ビデオを独断で公開した当時の海上保安庁の職員さんは責任をとって辞任までされています。
そもそも、中国がここまでつけあがってきたのは、
日米同盟が急激に冷え込んでからであり、
その原因をつくったのは、民主党政権の鳩山さんと菅さんですよ?
もう一度ききたいのですが、
本当に尖閣問題は石原さんが悪いのですか?
「本当に悪いのは誰ですか?」
そもそも尖閣はもともと日本の領土であり、日本人も住んでいて、中国政府も日本領土だと公認していて、
そこに石油が埋蔵されてると知ってからおれのものだと一方的に言ってきたのが中国で、
そのことを棚上げしようと言ってきたのも中国です。
民主党政権になり、小沢さんが天皇陛下を利用して天皇陛下に謁見させたのが、今尖閣問題で日本を揺さぶってる習近平さんですよね。
小沢さんとその傀儡の当時総理大臣の鳩山さんが、日米同盟に亀裂をつくり、中国に朝貢団と揶揄された議員団をおくり、天皇陛下を無理やり習近平に謁見させて、菅政権は中国の尖閣沖での漁船衝突事件をうやむやにした。
その結果が、今の問題ではないのでしょうか?
私は問いたいのです。
「本当に問題なのは誰ですか?」
「責任をとるべきは誰ですか?」
いま、中国にわざわざ行かなくてもいい人達が行って、媚中外交もとい日中友好のために努力をしてくださってます。
でも、私はそのまえに、
中国に、誰かが厳しく言わないといけないのではないかと思います。
本来、中国から日本に「本当は友好したいんだ、信じてほしい」というアクションがあるべきではないでしょうか?それがことの経緯からみて当然の流れでないでしょうか?
なぜ、喧嘩売られ度重なる無礼な行為を受けた日本の政治家や元首相がわざわざ行って謝ってるのですか?棚上げ論など出さないといけないのですか?
私は中国に行かれてる方々を見ると、怒りで目の前がくらみます。
これを招いたのは誰であるかを、
厳しく問わねばならないのではないかと、思います。
石原さんでないことだけは、たしかです。
尖閣問題で、喧嘩を売ってきたのはたしか、私の記憶がたしかなら、中国のはずですよね?
なんで、日本から鳩山さんとか公明党の党首の方とか行ってるんですか?
「なんで?」
あちらからくるならまだわかりますよ?
なんで、こちらから、棚上げ論とか出す必要があるの?
「なんで?」
理解できない私がおかしいのでしょうか?
尖閣国有化をした日本政府が悪いとか、そこまでもっていく国内でのきっかけをつくった石原さんが悪いと言う方もおられますが、
みなさん、覚えておられますでしょうか?
そもそも、今の尖閣問題は、
菅政権のときの尖閣での中国漁船衝突事件とその事件をうやむやにした仙谷さんの暴挙からはじまったんではなかったのでしょうか?
(あのとき中国政府は、ODA事業で軍関係施設にいた日本人四人を人質にするという言語道断なことをしてますよね?)
あのときに、菅政権が隠蔽しようとした証拠ビデオを独断で公開した当時の海上保安庁の職員さんは責任をとって辞任までされています。
そもそも、中国がここまでつけあがってきたのは、
日米同盟が急激に冷え込んでからであり、
その原因をつくったのは、民主党政権の鳩山さんと菅さんですよ?
もう一度ききたいのですが、
本当に尖閣問題は石原さんが悪いのですか?
「本当に悪いのは誰ですか?」
そもそも尖閣はもともと日本の領土であり、日本人も住んでいて、中国政府も日本領土だと公認していて、
そこに石油が埋蔵されてると知ってからおれのものだと一方的に言ってきたのが中国で、
そのことを棚上げしようと言ってきたのも中国です。
民主党政権になり、小沢さんが天皇陛下を利用して天皇陛下に謁見させたのが、今尖閣問題で日本を揺さぶってる習近平さんですよね。
小沢さんとその傀儡の当時総理大臣の鳩山さんが、日米同盟に亀裂をつくり、中国に朝貢団と揶揄された議員団をおくり、天皇陛下を無理やり習近平に謁見させて、菅政権は中国の尖閣沖での漁船衝突事件をうやむやにした。
その結果が、今の問題ではないのでしょうか?
私は問いたいのです。
「本当に問題なのは誰ですか?」
「責任をとるべきは誰ですか?」
いま、中国にわざわざ行かなくてもいい人達が行って、媚中外交もとい日中友好のために努力をしてくださってます。
でも、私はそのまえに、
中国に、誰かが厳しく言わないといけないのではないかと思います。
本来、中国から日本に「本当は友好したいんだ、信じてほしい」というアクションがあるべきではないでしょうか?それがことの経緯からみて当然の流れでないでしょうか?
なぜ、喧嘩売られ度重なる無礼な行為を受けた日本の政治家や元首相がわざわざ行って謝ってるのですか?棚上げ論など出さないといけないのですか?
私は中国に行かれてる方々を見ると、怒りで目の前がくらみます。
これを招いたのは誰であるかを、
厳しく問わねばならないのではないかと、思います。
石原さんでないことだけは、たしかです。
秋介さんから送られてきた心霊写真
2013年01月28日
秋介さんのご厚意に感謝し、転載させていただきます。
二枚目は諸事情により削除させていただきました。
________
心霊写真
空一面の顔
女装軍人


______
最後ので爆死(笑)
腹いたい・・・しぬ・・・
二枚目は諸事情により削除させていただきました。
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心霊写真
空一面の顔
女装軍人


______
最後ので爆死(笑)
腹いたい・・・しぬ・・・
宜保愛子さんへの感謝・守護霊という存在の認識
2013年01月28日
私が人生で最初に感動したのは、あれは忘れもしない、小学校三年のとき。
当時、うちの母と兄たちは心霊モノの本にハマっていた(笑)。
母や兄がどこからか借りてくる心霊写真の本や怖い本を、小さな私はその傍らでこわごわチラ見していたが、
そのうち、寝転がって読んでいる母の背中に乗っかって一緒に読むようになっていた(笑)。
当時は宜保愛子さんの「恐怖!○○~~」というシリーズの本があり、その本の内容は小さな私にはたくさんの衝撃を与えた。
それは心霊体験の恐怖などの衝撃ではない。いや、怖いのは怖いんですけど。
(おかげでのっぺらぼうがトラウマです)
それ以上に衝撃だったのは、宜保さんの霊にたいする考え方だったんです。
この世の外には霊界という世界があり、人間は霊界から生まれ、死んだあと霊界に帰り、また霊界から生まれ変わるということ。(これは宗教によって「極楽浄土」とか「ニライカナイ」とか呼び名が違うが、同じところらしい)
人間は死んでも終わりではなく、むしろ、死んだあとに、生前の心や行いによってその報いがくるということ。
一般に言う「霊」とは、本当は「不成仏霊」であり、本当はちゃんと成仏している(あの世に帰っている)霊の方が多いということ。
不成仏霊とは、この世になんらかの執着を持ってさまよっているだけの存在で、本当は生きてる私たちとなんら変わらない存在だということ。
それは、逆に執着を持ったまま死ねば、誰もが不成仏霊となる可能性もあるということ。
自殺は絶対にいけないということ。自殺をした霊はもれなく死後その数十倍の苦しみを味わっているということ。
(これはその後いろいろな本を読みましたが、ほとんどの霊能者が共通して言ってました)
そういう「なんらかの執着を持っているために、霊界に帰れず苦しんでいる霊」に呼びかけ、スムーズに霊界に帰れるようにサポートするのが、いわゆる「霊能者」と呼ばれる人達であるということ。
宜保愛子さんの話の数々は、小さな私の胸をすごくときめかせた!!!!
そのなかで、私の人生観が変わるほど(笑)に感動した文章があった。
《すべての人間には、必ず、守護霊と呼ばれる霊がついている。守護霊はその人がいい方向にいくように、いつもサポートしているし、その人が悲しんでいるときには、その人以上に一緒に悲しんでいる。たとえばなんとなく傘を持っていかなければと傘を持って外にでてしばらくすると雨が降ってきた、などということも、守護霊からのインスピレーションなどである場合が多い。守護霊はいつもインスピレーションという形で本人にしらずしらず、危機を回避させたり、いい出会いを結びつけようとしている》(要約)
この文章に小さな私は驚愕し、その事実にはじめて霊の世界の素晴らしさを知った気がした。
(宜保さんによるとほとんどはご先祖らしいが、のちに読んだ他の霊能者の本では違う記述もでてくる。幸福の科学では守護霊は魂の兄弟と説かれている。おそらく、そのときに守護的な立場にいる人の総称なのであって、かならずしもご先祖様だけともかぎらないのかもしれない)
小さな私はいつも孤独に耐えていたように思う。
しかし私は一人ではない。私の上にはかならず善なる存在がいて、私のことをいつも見守っていてくださっているのだ。私が間違った方向にいくとその方が悲しむし、私が幸せになれば、その方も喜んでくださるのだ。
それを知ってから、本当に心が楽になった気がした。
のちに私は感動さめやらぬままこの本を学校に持ち込み、授業でとりあげてほしいとお願いしたら、先生が困った顔をして
「宗教とか心霊とかの内容は学校で先生がとりあげちゃいけない決まりなんだよ」
と答えてくれたですが、そのときはじめて小学三年の私の心に「おいおいおい、こんないい内容教えないなんておかしーだろ!どんんだけの子供がこれで救われると思ってるんだよ!子供の心よりも偏見とるのか学校はよー!」という義憤がもえたったのも懐かしいお話です。
中学三年の時には「日本の神話とか親孝行の大切さとか奄美の姉妹神信仰の素晴らしさを学校が授業で教えないなんておかしいと思うんですよね」と修身を復活してほしいと日教組のバリバリの先生に話してた私(笑)。子供の純粋さはときにおそろしい。
でも、私は間違ってなかったと今でも思うの。できたら今からでもいいから守護霊のこととか姉妹神信仰のこととか日本の神話とか親孝行の大切さとか奄美の歴史とか学校でちゃんと教えてほしいとすごく思うの☆
守られているという認識によって、私は道を踏み外すことなくこれたように思います。
守護霊さま、いつもありがとうございます!m(_ _)m
守られていることへの感謝が、自分を奮い立たせ、自分も守るべきものを持つべきという聖なる義務感に通じるのではないかと思うのです。
私が奄美に恩返ししたいと小学六年のときに思い始めたのも、もしかすると、小学二年で宜保さんの本にふれたからかもしれない。
私の人生の価値観での最初の恩人は宜保愛子さんです。(笑)
私には恩人がたくさんいる。ありがたいばかりです。恩が大きすぎて今生で返せない!!!!!!
((((;゚Д゚))))ガクブル
当時、うちの母と兄たちは心霊モノの本にハマっていた(笑)。
母や兄がどこからか借りてくる心霊写真の本や怖い本を、小さな私はその傍らでこわごわチラ見していたが、
そのうち、寝転がって読んでいる母の背中に乗っかって一緒に読むようになっていた(笑)。
当時は宜保愛子さんの「恐怖!○○~~」というシリーズの本があり、その本の内容は小さな私にはたくさんの衝撃を与えた。
それは心霊体験の恐怖などの衝撃ではない。いや、怖いのは怖いんですけど。
(おかげでのっぺらぼうがトラウマです)
それ以上に衝撃だったのは、宜保さんの霊にたいする考え方だったんです。
この世の外には霊界という世界があり、人間は霊界から生まれ、死んだあと霊界に帰り、また霊界から生まれ変わるということ。(これは宗教によって「極楽浄土」とか「ニライカナイ」とか呼び名が違うが、同じところらしい)
人間は死んでも終わりではなく、むしろ、死んだあとに、生前の心や行いによってその報いがくるということ。
一般に言う「霊」とは、本当は「不成仏霊」であり、本当はちゃんと成仏している(あの世に帰っている)霊の方が多いということ。
不成仏霊とは、この世になんらかの執着を持ってさまよっているだけの存在で、本当は生きてる私たちとなんら変わらない存在だということ。
それは、逆に執着を持ったまま死ねば、誰もが不成仏霊となる可能性もあるということ。
自殺は絶対にいけないということ。自殺をした霊はもれなく死後その数十倍の苦しみを味わっているということ。
(これはその後いろいろな本を読みましたが、ほとんどの霊能者が共通して言ってました)
そういう「なんらかの執着を持っているために、霊界に帰れず苦しんでいる霊」に呼びかけ、スムーズに霊界に帰れるようにサポートするのが、いわゆる「霊能者」と呼ばれる人達であるということ。
宜保愛子さんの話の数々は、小さな私の胸をすごくときめかせた!!!!
そのなかで、私の人生観が変わるほど(笑)に感動した文章があった。
《すべての人間には、必ず、守護霊と呼ばれる霊がついている。守護霊はその人がいい方向にいくように、いつもサポートしているし、その人が悲しんでいるときには、その人以上に一緒に悲しんでいる。たとえばなんとなく傘を持っていかなければと傘を持って外にでてしばらくすると雨が降ってきた、などということも、守護霊からのインスピレーションなどである場合が多い。守護霊はいつもインスピレーションという形で本人にしらずしらず、危機を回避させたり、いい出会いを結びつけようとしている》(要約)
この文章に小さな私は驚愕し、その事実にはじめて霊の世界の素晴らしさを知った気がした。
(宜保さんによるとほとんどはご先祖らしいが、のちに読んだ他の霊能者の本では違う記述もでてくる。幸福の科学では守護霊は魂の兄弟と説かれている。おそらく、そのときに守護的な立場にいる人の総称なのであって、かならずしもご先祖様だけともかぎらないのかもしれない)
小さな私はいつも孤独に耐えていたように思う。
しかし私は一人ではない。私の上にはかならず善なる存在がいて、私のことをいつも見守っていてくださっているのだ。私が間違った方向にいくとその方が悲しむし、私が幸せになれば、その方も喜んでくださるのだ。
それを知ってから、本当に心が楽になった気がした。
のちに私は感動さめやらぬままこの本を学校に持ち込み、授業でとりあげてほしいとお願いしたら、先生が困った顔をして
「宗教とか心霊とかの内容は学校で先生がとりあげちゃいけない決まりなんだよ」
と答えてくれたですが、そのときはじめて小学三年の私の心に「おいおいおい、こんないい内容教えないなんておかしーだろ!どんんだけの子供がこれで救われると思ってるんだよ!子供の心よりも偏見とるのか学校はよー!」という義憤がもえたったのも懐かしいお話です。
中学三年の時には「日本の神話とか親孝行の大切さとか奄美の姉妹神信仰の素晴らしさを学校が授業で教えないなんておかしいと思うんですよね」と修身を復活してほしいと日教組のバリバリの先生に話してた私(笑)。子供の純粋さはときにおそろしい。
でも、私は間違ってなかったと今でも思うの。できたら今からでもいいから守護霊のこととか姉妹神信仰のこととか日本の神話とか親孝行の大切さとか奄美の歴史とか学校でちゃんと教えてほしいとすごく思うの☆
守られているという認識によって、私は道を踏み外すことなくこれたように思います。
守護霊さま、いつもありがとうございます!m(_ _)m
守られていることへの感謝が、自分を奮い立たせ、自分も守るべきものを持つべきという聖なる義務感に通じるのではないかと思うのです。
私が奄美に恩返ししたいと小学六年のときに思い始めたのも、もしかすると、小学二年で宜保さんの本にふれたからかもしれない。
私の人生の価値観での最初の恩人は宜保愛子さんです。(笑)
私には恩人がたくさんいる。ありがたいばかりです。恩が大きすぎて今生で返せない!!!!!!
((((;゚Д゚))))ガクブル