【愛知県人さん】寄稿・ノンフィクション
2013年02月04日
愛知県人さん、いつもご寄稿いただきありがとうございます!
今回は専門用語解説まで!!!!!!!(笑)
バイク好きの方は必読!!!!(笑)
______
寄稿。
まあ、本当の話ですが、
気になさらないでください・・
小生の、話です。
限定解除。って言葉が、やけに眩しかった頃。
とりあえず、バイクに乗りたかった。
※ここでのバイクとは、250cc以上のオートバイを意味します。
うちは、車もバイクも、免許も欲しかったら、
自分で稼いでやれ!
っていう家だったから、
なにをするにも、稼いでから。
なにをするにも、友人より遅かった。
小遣いで、原付を取り。
普通免許の費用をバイトで稼ぎ、
(もちろん、自転車で教習所に通った)
それから金をため、原付を買い、
バイクの中免を取った。
中免代も、バイトで稼いだ。
ミッションの原付は、高くて買えなかったため、
スクータを買ったんだが、
リミッター解除から、ボアアップまで、
気がついたら、ミッションが買えてたかも。(笑)
100Km/h以上スピードのでる、スクーター。アホやね。
あっ、見かけは、まったくチューニングしてあるとは、分からん仕様ですよ。
マフラーもノーマルだったし・・
皆さん、中古の車を買って、彼女とドライブしてたんだが、
小生は、バイクが欲しくって、金を貯めた。
いきなり、GSX-R 400を購入。
レーシーなタイプだったので、
前傾姿勢がきつく、乾式クラッチのカラカラ音が、
”こわれてんじゃねーの”っていわれるのがうれしい。
また、レーサーレプリカでも、ノーマルは、嫌だったので、
金欠は続いた。
400の癖に、Lアメリカンを置いて行く加速は鳥肌がたった。
無風のトンネル下りなら、240km/hは簡単に出せた。
γ250乗りとつるんで走っていたことは、
二人とも、キリン(漫画)の影響を受けていたからかも
知れない。
しかし、更に上(限定解除)を目指していた小生と、
γ250のツーリング仲間とのギャップは大きかった。
レーサーレプリカにまたがる事が目的だった彼らは、
小生の狂気の走りは理解できなかったみたい。
借りて乗った彼らのバイクは、
手入れもそこそこの、走らないバイクだった。
(いやあ、某K社のZXRは、真面目に遅かった・・・)
バイクだけの乗り手と言われるの癪に障るので、
近隣の峠にはよく練習に行った。
その時から、マンホールのふた。側溝のアミアミ。
横断歩道の白いラインが嫌いになった。
(バイク乗りならわかるよねえ。)
続く・・か?
専門用語解説
★限定解除 400cc以上のバイクに乗るためには、教習所では免許が取得できなかった。
(今は、違う) そのため、各運転免許試験場において、実地試験を受け、
合格した者が、399cc未満のバイクしか乗れない限定を解除することが
出来た。非常に難関な試験。バイクに対する心構え等も問われた。
★中免 中型オートバイ免許のこと。
普通乗用車免許を取得していれば、学科は免除。
中型オートバイの免許を取得できる自動車学校で、技能に合格すれば、
免許を交付してもらうことが可能。
★ミッション ギア変速機のこと。スクーターはAT(オートマチック)、バイクはミッション。
★リミッター 原付は、60km/hで、リミッターが作動し、それ以上スピードがでない。
(乗用車は、日本車は180km/hで作動がほとんど)
バイクも、リミッター付がほとんど。
★ボアアップ エンジンシリンダーや、ピストンを交換し、排気量を物理的に大きくすること。
くれぐれも、申し上げますが、改造行為です。
原付の場合、1ccでもボアアップすれば、改造申請を市町村役場に届け出て、
黄色のナンバープレートを交付してもらう必要があります。
(まあ、知らない人間が出来るとはとても思えないが・・)
★乾式クラッチ ミッション車で、クラッチ板にオイルを使用していないクラッチ。
対して、普通は湿式クラッチ。
乾式クラッチは、クラッチの遊びがなく、ダイレクトにエンジンのパワーを
タイヤに伝達できるが、クラッチ板を削りながら走るので(笑)
寿命が短い。
★Lアメリカン リッターアメリカンバイク=ハー☆ー。
★γ(ガンマ) GSX-R同様、スズキのバイク。 アルファーとか、タンジェントとかはないと思う。(笑)
桜マラソン走った直後から筋肉痛の巻
2013年02月04日
ええ、マラソン終わった直後から、太ももがかなりキツいなーとは思っていたんです。
帰宅して、それは起きました。
筋肉痛で動けない(笑)
たかだか3.5キロで、脆すぎだろ私ー!
1日経って、さらに筋肉痛は強くなってます。(笑)
これから運動する…だから許して…
(x_x)(>_<)(T-T)
もうひとつ、やはり奄美の日差しはキツいことも実感しました。
去年8月に北九州に行ったときには、日焼け止めで半日もったのですが、
2月の奄美の日差しは、日焼け止めガン塗りしても30分で顔がヒリヒリしはじめました!
次からはサンバイザーつけていこう…太陽が私をいじめる…
いくつか興味深い屋台を見つけたのですが、いく時間がなかったのが残念でした。
たこ焼きのおろしポン酢食べたかった…
またどこかであの屋台さんたちに再会できますように!
大会スタッフと大会ボランティアのみなさま、また沿道で声援をくださったみなさま、本当にありがとうございました。
個人的には、牛小屋の真横を草食べてる牛さん達にガン見されながら走ったのが一番の思い出です。(笑)子牛かわいかったー
不平不満という猛毒(再掲載)
2013年02月04日
不平不満という猛毒
2010年02月16日
以前つとめていた会社でのこと。
上司(師匠)はつねに「神仏の目に合わせなさい。道理を判断の基準にしなさい。自分の感情にながされず、つねに一歩ひいた目で自他をみつめなさい。不平不満をもってはいけない」と言っていた。
私はそれが理解できず、上司に不平不満をもっていた。
上司の正しさはわかる。しかし、10%の部分に不平不満があった。
しかしあるとき、自覚した。
不平不満をもった瞬間、自分からすさまじい悪臭がしていた。(霊臭?)
また、仕事ができない自分をガッチガチに正当化して会社への不平不満を語るスタッフから、
その瞬間気持ち悪い黒いケムリがあがり、そのときだけものスタッフからものすごい悪臭が強烈に漂っていた。
(耐え切れず、途中でトイレに駆け込んで吐いた)
やがて不平不満を語る人間ほど仕事ができていないということも見えてきた。つねに結果としての実績をあげ、安定した人格の方ほど、不平不満と遠いところにいるということも。
事実、師匠はどんな状況であっても不平不満を口にすることはなかった。理不尽な目に遭っても、黙々と、実績を重ねる後ろ姿を見せてくれた。
不平不満は、因果をわかっていないことからくる。因果がわかり、自分がわかれば、不平不満を言えるような実績を自分が出していないことが、そんな自分が不平不満を並べる事がいかに「恥ずかしい」かということかが、わかる。
しかし不平不満の毒は、つねに私の心の隙をうかがっている。
それは実績を出せない、そこまでの努力をしていない自分を正当化できる、まことに口あたりの甘い極上の猛毒だ。
それは環境においても、組織にたいしても、家庭にたいして、過去にたいしてもそうだろう。
不平不満を持つことから、魔は忍び寄ってくる。
暗いと不平を言うよりも、すすんで明かりをつけましょー
(昔のキリスト教の早朝番組のはじまりのフレーズ。なつかすぃー)
もしも心に不自然に不平不満がでてきて止まらないときは、誰か(霊的なモノ)の干渉もあるかもしれない。それを見抜いたうえで、静かに心を鎮めることだ。
私は今まで、心のなかに強烈に目上や神仏を疑う言葉がきこえたことが三回ある。非常に恥ずかしいことだが、私は隠す気はない。
そのとき、私は最初怒鳴りまくって対抗した。しかし、こちらがムキになればなるほど、私にささやきかける「周りの人々の善意を疑い、神仏という善なる存在を疑う声」もまた大きくなる。
これではキリがない、このままでは自分の負の思いとの同じ土俵での念力合戦だと思った私は、合掌して、疑の言い分にしずかに耳を傾けた。
言い分をすべて聞いたあと、穏やかに聞き返した。
「で、あなた(私)は目上の方々や神仏を裁くほど神仏に並ぶ救済をしてるんですか?
影響力を、徳力をもっていますか?
様々な宗派でいわれ証明されているところの神・仏は、それぞれの民族・歴史において公平な希望の法を説いてくださってます。
それによってたくさんの善なる思いがうまれ、その善なる思いにおいて人々は人生への光明を得てきました。
また、神仏を深く信じる方々ほど、栄光や名声をいただきながら、かぎりなくストイックであり自己に厳しく、それぞれの立場から公に益しようとする愛にみちています。
あなたはどうですか?できてますか?これからできますか?
それができるあなたであるなら、言い分も聞く価値がありますが、どうですか?
できますか?できるんですか?」
すると、負の思いの言葉はピタリと止んだ。(笑)
自分の未熟さを棚にあげて、周りの欠点をあげつらうことは、あまりに幼稚なこころだ。
しかし、その幼稚なこころをいまだ持っている自分を、忍び寄せる自分を、恥じなければ、正さなければいけない。
目上の方に不平不満をもつとき、家庭に不平不満をもつとき、職場に不平不満をもつとき、そのときこそ、大切なのは「智慧」なのだと思う。
感情に振り回されず、つねに神仏の方を、つまり道理の方を向く。まず自らをただす。
上司にいわれた言葉を思い出す。
「神仏の目に合わせなさい。道理を判断の基準にしなさい。自分の感情にながされず、つねに一歩ひいた目で自他をみつめなさい。不平不満をもってはいけない」
自分を知り、自分を改める。傷つくことを恐れてはいけない。
それができる私になりたいと思う。
2010年02月16日
以前つとめていた会社でのこと。
上司(師匠)はつねに「神仏の目に合わせなさい。道理を判断の基準にしなさい。自分の感情にながされず、つねに一歩ひいた目で自他をみつめなさい。不平不満をもってはいけない」と言っていた。
私はそれが理解できず、上司に不平不満をもっていた。
上司の正しさはわかる。しかし、10%の部分に不平不満があった。
しかしあるとき、自覚した。
不平不満をもった瞬間、自分からすさまじい悪臭がしていた。(霊臭?)
また、仕事ができない自分をガッチガチに正当化して会社への不平不満を語るスタッフから、
その瞬間気持ち悪い黒いケムリがあがり、そのときだけものスタッフからものすごい悪臭が強烈に漂っていた。
(耐え切れず、途中でトイレに駆け込んで吐いた)
やがて不平不満を語る人間ほど仕事ができていないということも見えてきた。つねに結果としての実績をあげ、安定した人格の方ほど、不平不満と遠いところにいるということも。
事実、師匠はどんな状況であっても不平不満を口にすることはなかった。理不尽な目に遭っても、黙々と、実績を重ねる後ろ姿を見せてくれた。
不平不満は、因果をわかっていないことからくる。因果がわかり、自分がわかれば、不平不満を言えるような実績を自分が出していないことが、そんな自分が不平不満を並べる事がいかに「恥ずかしい」かということかが、わかる。
しかし不平不満の毒は、つねに私の心の隙をうかがっている。
それは実績を出せない、そこまでの努力をしていない自分を正当化できる、まことに口あたりの甘い極上の猛毒だ。
それは環境においても、組織にたいしても、家庭にたいして、過去にたいしてもそうだろう。
不平不満を持つことから、魔は忍び寄ってくる。
暗いと不平を言うよりも、すすんで明かりをつけましょー
(昔のキリスト教の早朝番組のはじまりのフレーズ。なつかすぃー)
もしも心に不自然に不平不満がでてきて止まらないときは、誰か(霊的なモノ)の干渉もあるかもしれない。それを見抜いたうえで、静かに心を鎮めることだ。
私は今まで、心のなかに強烈に目上や神仏を疑う言葉がきこえたことが三回ある。非常に恥ずかしいことだが、私は隠す気はない。
そのとき、私は最初怒鳴りまくって対抗した。しかし、こちらがムキになればなるほど、私にささやきかける「周りの人々の善意を疑い、神仏という善なる存在を疑う声」もまた大きくなる。
これではキリがない、このままでは自分の負の思いとの同じ土俵での念力合戦だと思った私は、合掌して、疑の言い分にしずかに耳を傾けた。
言い分をすべて聞いたあと、穏やかに聞き返した。
「で、あなた(私)は目上の方々や神仏を裁くほど神仏に並ぶ救済をしてるんですか?
影響力を、徳力をもっていますか?
様々な宗派でいわれ証明されているところの神・仏は、それぞれの民族・歴史において公平な希望の法を説いてくださってます。
それによってたくさんの善なる思いがうまれ、その善なる思いにおいて人々は人生への光明を得てきました。
また、神仏を深く信じる方々ほど、栄光や名声をいただきながら、かぎりなくストイックであり自己に厳しく、それぞれの立場から公に益しようとする愛にみちています。
あなたはどうですか?できてますか?これからできますか?
それができるあなたであるなら、言い分も聞く価値がありますが、どうですか?
できますか?できるんですか?」
すると、負の思いの言葉はピタリと止んだ。(笑)
自分の未熟さを棚にあげて、周りの欠点をあげつらうことは、あまりに幼稚なこころだ。
しかし、その幼稚なこころをいまだ持っている自分を、忍び寄せる自分を、恥じなければ、正さなければいけない。
目上の方に不平不満をもつとき、家庭に不平不満をもつとき、職場に不平不満をもつとき、そのときこそ、大切なのは「智慧」なのだと思う。
感情に振り回されず、つねに神仏の方を、つまり道理の方を向く。まず自らをただす。
上司にいわれた言葉を思い出す。
「神仏の目に合わせなさい。道理を判断の基準にしなさい。自分の感情にながされず、つねに一歩ひいた目で自他をみつめなさい。不平不満をもってはいけない」
自分を知り、自分を改める。傷つくことを恐れてはいけない。
それができる私になりたいと思う。
幸福の科学の元信者で、幸福の科学を批判・攻撃する方々について
2013年02月04日
元熱烈信者さんという方からコメントをいただきましたので、今回は久しぶりに宗派ネタを書かせていただきたいと思います。
幸福の科学の元幹部で、現在幸福の科学を批判している種村さんという方に関してですが、
この方は、重大な間違いをすでに犯しています。
ご自分のサイト上で「総裁や多数の職員がカウンセリングにきた」という虚偽の内容を載せています。
(そのなかには種村さんとまったく面識がない方も多数含まれていました。種村さんがカウンセリングをしたと書いてる日にそもそも関東にいなかった人がいたりw)
このことはすでに幸福の科学側で反証していますが、それに関して種村氏はスルーしておられます。
常識的に考えて、守秘義務を負うべきカウンセリングの内容を繊細な内容まで含めて本人未許可で公開している時点で、おかしいとは思われないのでしょうか?この時点で、嘘でも本当でも決して許されるものではありません。
週刊誌に種村さんが書かれた性の儀式とかいう妄想記事に関しても、そもそも総裁が不倫をしていた事実はないと明らかにされています。
それは、離婚訴訟で巨額の慰謝料請求をした、五人のお子さんが誰もついていかなかった総裁の元奥さんが、記者会見で言っていた総裁の不倫というネタをその後何故か封印し、その後の離婚裁判でも一切ふれなかったことからも明らかです。(つまり証拠がない)
そもそも、あれだけ神経質に教団と総裁を管理していた元奥さんが性の儀式などというものがあれば知らないはずがありませんし許すはずがありませんし、ましてや裁判でとりあげないなんてありえません。
つまり、種村氏の当会批判のそもそもの立ち位置が、ご自分の妄想でご自身を正当化させているのです。
もう一つ、この方が幹部だったのは15年以上前で、正直に申し上げまして、「使えなくなって引退した」方です。
還俗したあとの種村氏の幸福の科学批判に関しては、妄想カウンセリングや妄想儀式を週刊誌に流した行動から常識的に判断していただけたらおわかりになるかと思いますが、
少なくとも、私自身は「この方は信用に足る方ではない」との判定をくだしております。
また、アンチさんのなかには、宗教団体のなかで傷つき、そのことで宗派そのものに恨みを持っている方が少なくないと思います。
組織にはいろいろな葛藤や軋轢があり、それは理想を重んじる宗教団体であっても決して完璧ではありません。お布施の問題や信者同士の人間関係の不調和など、様々な問題があるでしょう。
しかし、私個人の考えをのべさせていただくならば、「それはあって当たり前のもので、それがなければそもそも宗教はいらない」と考えております。
そういった葛藤を乗り越えるのは、相手ではなく、自分であるというのが宗教を学ぶ者としてのスタンスであり、それが合わないなら離れればいいだけのことではないでしょうか?
「苦しいときに助けてくれなかったから神様なんて信じない!」と思うのは個人の自由ですが、「苦しいときに自分を助けてくれなかった神様なんて偽物だ!邪教だ!許せない!」は、大人の考え方としては少しあんまりなんじゃないかと思います。
それは幸福の科学においてのみではなくどの宗派の方であっても、かつて属していた宗派を批判し攻撃するということは、表現はあまりよくないのですが、まぁハッキリ言って
「振られた女の悪口を周りに言いふらしてつきまとうストーカー」
と同じ心理状態ではないかと考えております。
いつまでも昔の女に執着せず、自分を磨いてもっといい女を見つけなさいと言ってあげる人が身近にいないのが、そういった方々の一番の不幸なのかもしれません。
宗教のテクニックの一つである説得力のある言い回しを用いて、自分の悪意を正当化してまわりに撒き散らす下品さに気づかないほどにご自分が見えていないというのは、ある意味では幸せであるとは思いますが、
宗教や宗派以前に常識の目でみて、「自分が信頼していた場所で認めてもらえなかった恨みをいつまでもネチネチを正当化している」ことが、世間的な目で見たときに信用できる言説かどうかを冷静に判断されるのが、一番ではないかと思います。
言葉のテクニックで飾られたネガティブな言い分の正当化を、鵜呑みにする心理状態は、どんな宗教や団体や個人であっても危険なことであると思います。
結論を述べますと、私は誰かや何かにたいしてネガティブな情報ばかり言って回ってる人は基本的に信用しませんということです。
幸福の科学の元幹部で、現在幸福の科学を批判している種村さんという方に関してですが、
この方は、重大な間違いをすでに犯しています。
ご自分のサイト上で「総裁や多数の職員がカウンセリングにきた」という虚偽の内容を載せています。
(そのなかには種村さんとまったく面識がない方も多数含まれていました。種村さんがカウンセリングをしたと書いてる日にそもそも関東にいなかった人がいたりw)
このことはすでに幸福の科学側で反証していますが、それに関して種村氏はスルーしておられます。
常識的に考えて、守秘義務を負うべきカウンセリングの内容を繊細な内容まで含めて本人未許可で公開している時点で、おかしいとは思われないのでしょうか?この時点で、嘘でも本当でも決して許されるものではありません。
週刊誌に種村さんが書かれた性の儀式とかいう妄想記事に関しても、そもそも総裁が不倫をしていた事実はないと明らかにされています。
それは、離婚訴訟で巨額の慰謝料請求をした、五人のお子さんが誰もついていかなかった総裁の元奥さんが、記者会見で言っていた総裁の不倫というネタをその後何故か封印し、その後の離婚裁判でも一切ふれなかったことからも明らかです。(つまり証拠がない)
そもそも、あれだけ神経質に教団と総裁を管理していた元奥さんが性の儀式などというものがあれば知らないはずがありませんし許すはずがありませんし、ましてや裁判でとりあげないなんてありえません。
つまり、種村氏の当会批判のそもそもの立ち位置が、ご自分の妄想でご自身を正当化させているのです。
もう一つ、この方が幹部だったのは15年以上前で、正直に申し上げまして、「使えなくなって引退した」方です。
還俗したあとの種村氏の幸福の科学批判に関しては、妄想カウンセリングや妄想儀式を週刊誌に流した行動から常識的に判断していただけたらおわかりになるかと思いますが、
少なくとも、私自身は「この方は信用に足る方ではない」との判定をくだしております。
また、アンチさんのなかには、宗教団体のなかで傷つき、そのことで宗派そのものに恨みを持っている方が少なくないと思います。
組織にはいろいろな葛藤や軋轢があり、それは理想を重んじる宗教団体であっても決して完璧ではありません。お布施の問題や信者同士の人間関係の不調和など、様々な問題があるでしょう。
しかし、私個人の考えをのべさせていただくならば、「それはあって当たり前のもので、それがなければそもそも宗教はいらない」と考えております。
そういった葛藤を乗り越えるのは、相手ではなく、自分であるというのが宗教を学ぶ者としてのスタンスであり、それが合わないなら離れればいいだけのことではないでしょうか?
「苦しいときに助けてくれなかったから神様なんて信じない!」と思うのは個人の自由ですが、「苦しいときに自分を助けてくれなかった神様なんて偽物だ!邪教だ!許せない!」は、大人の考え方としては少しあんまりなんじゃないかと思います。
それは幸福の科学においてのみではなくどの宗派の方であっても、かつて属していた宗派を批判し攻撃するということは、表現はあまりよくないのですが、まぁハッキリ言って
「振られた女の悪口を周りに言いふらしてつきまとうストーカー」
と同じ心理状態ではないかと考えております。
いつまでも昔の女に執着せず、自分を磨いてもっといい女を見つけなさいと言ってあげる人が身近にいないのが、そういった方々の一番の不幸なのかもしれません。
宗教のテクニックの一つである説得力のある言い回しを用いて、自分の悪意を正当化してまわりに撒き散らす下品さに気づかないほどにご自分が見えていないというのは、ある意味では幸せであるとは思いますが、
宗教や宗派以前に常識の目でみて、「自分が信頼していた場所で認めてもらえなかった恨みをいつまでもネチネチを正当化している」ことが、世間的な目で見たときに信用できる言説かどうかを冷静に判断されるのが、一番ではないかと思います。
言葉のテクニックで飾られたネガティブな言い分の正当化を、鵜呑みにする心理状態は、どんな宗教や団体や個人であっても危険なことであると思います。
結論を述べますと、私は誰かや何かにたいしてネガティブな情報ばかり言って回ってる人は基本的に信用しませんということです。