不平不満という猛毒(再掲載)
2013年02月04日
不平不満という猛毒
2010年02月16日
以前つとめていた会社でのこと。
上司(師匠)はつねに「神仏の目に合わせなさい。道理を判断の基準にしなさい。自分の感情にながされず、つねに一歩ひいた目で自他をみつめなさい。不平不満をもってはいけない」と言っていた。
私はそれが理解できず、上司に不平不満をもっていた。
上司の正しさはわかる。しかし、10%の部分に不平不満があった。
しかしあるとき、自覚した。
不平不満をもった瞬間、自分からすさまじい悪臭がしていた。(霊臭?)
また、仕事ができない自分をガッチガチに正当化して会社への不平不満を語るスタッフから、
その瞬間気持ち悪い黒いケムリがあがり、そのときだけものスタッフからものすごい悪臭が強烈に漂っていた。
(耐え切れず、途中でトイレに駆け込んで吐いた)
やがて不平不満を語る人間ほど仕事ができていないということも見えてきた。つねに結果としての実績をあげ、安定した人格の方ほど、不平不満と遠いところにいるということも。
事実、師匠はどんな状況であっても不平不満を口にすることはなかった。理不尽な目に遭っても、黙々と、実績を重ねる後ろ姿を見せてくれた。
不平不満は、因果をわかっていないことからくる。因果がわかり、自分がわかれば、不平不満を言えるような実績を自分が出していないことが、そんな自分が不平不満を並べる事がいかに「恥ずかしい」かということかが、わかる。
しかし不平不満の毒は、つねに私の心の隙をうかがっている。
それは実績を出せない、そこまでの努力をしていない自分を正当化できる、まことに口あたりの甘い極上の猛毒だ。
それは環境においても、組織にたいしても、家庭にたいして、過去にたいしてもそうだろう。
不平不満を持つことから、魔は忍び寄ってくる。
暗いと不平を言うよりも、すすんで明かりをつけましょー
(昔のキリスト教の早朝番組のはじまりのフレーズ。なつかすぃー)
もしも心に不自然に不平不満がでてきて止まらないときは、誰か(霊的なモノ)の干渉もあるかもしれない。それを見抜いたうえで、静かに心を鎮めることだ。
私は今まで、心のなかに強烈に目上や神仏を疑う言葉がきこえたことが三回ある。非常に恥ずかしいことだが、私は隠す気はない。
そのとき、私は最初怒鳴りまくって対抗した。しかし、こちらがムキになればなるほど、私にささやきかける「周りの人々の善意を疑い、神仏という善なる存在を疑う声」もまた大きくなる。
これではキリがない、このままでは自分の負の思いとの同じ土俵での念力合戦だと思った私は、合掌して、疑の言い分にしずかに耳を傾けた。
言い分をすべて聞いたあと、穏やかに聞き返した。
「で、あなた(私)は目上の方々や神仏を裁くほど神仏に並ぶ救済をしてるんですか?
影響力を、徳力をもっていますか?
様々な宗派でいわれ証明されているところの神・仏は、それぞれの民族・歴史において公平な希望の法を説いてくださってます。
それによってたくさんの善なる思いがうまれ、その善なる思いにおいて人々は人生への光明を得てきました。
また、神仏を深く信じる方々ほど、栄光や名声をいただきながら、かぎりなくストイックであり自己に厳しく、それぞれの立場から公に益しようとする愛にみちています。
あなたはどうですか?できてますか?これからできますか?
それができるあなたであるなら、言い分も聞く価値がありますが、どうですか?
できますか?できるんですか?」
すると、負の思いの言葉はピタリと止んだ。(笑)
自分の未熟さを棚にあげて、周りの欠点をあげつらうことは、あまりに幼稚なこころだ。
しかし、その幼稚なこころをいまだ持っている自分を、忍び寄せる自分を、恥じなければ、正さなければいけない。
目上の方に不平不満をもつとき、家庭に不平不満をもつとき、職場に不平不満をもつとき、そのときこそ、大切なのは「智慧」なのだと思う。
感情に振り回されず、つねに神仏の方を、つまり道理の方を向く。まず自らをただす。
上司にいわれた言葉を思い出す。
「神仏の目に合わせなさい。道理を判断の基準にしなさい。自分の感情にながされず、つねに一歩ひいた目で自他をみつめなさい。不平不満をもってはいけない」
自分を知り、自分を改める。傷つくことを恐れてはいけない。
それができる私になりたいと思う。
2010年02月16日
以前つとめていた会社でのこと。
上司(師匠)はつねに「神仏の目に合わせなさい。道理を判断の基準にしなさい。自分の感情にながされず、つねに一歩ひいた目で自他をみつめなさい。不平不満をもってはいけない」と言っていた。
私はそれが理解できず、上司に不平不満をもっていた。
上司の正しさはわかる。しかし、10%の部分に不平不満があった。
しかしあるとき、自覚した。
不平不満をもった瞬間、自分からすさまじい悪臭がしていた。(霊臭?)
また、仕事ができない自分をガッチガチに正当化して会社への不平不満を語るスタッフから、
その瞬間気持ち悪い黒いケムリがあがり、そのときだけものスタッフからものすごい悪臭が強烈に漂っていた。
(耐え切れず、途中でトイレに駆け込んで吐いた)
やがて不平不満を語る人間ほど仕事ができていないということも見えてきた。つねに結果としての実績をあげ、安定した人格の方ほど、不平不満と遠いところにいるということも。
事実、師匠はどんな状況であっても不平不満を口にすることはなかった。理不尽な目に遭っても、黙々と、実績を重ねる後ろ姿を見せてくれた。
不平不満は、因果をわかっていないことからくる。因果がわかり、自分がわかれば、不平不満を言えるような実績を自分が出していないことが、そんな自分が不平不満を並べる事がいかに「恥ずかしい」かということかが、わかる。
しかし不平不満の毒は、つねに私の心の隙をうかがっている。
それは実績を出せない、そこまでの努力をしていない自分を正当化できる、まことに口あたりの甘い極上の猛毒だ。
それは環境においても、組織にたいしても、家庭にたいして、過去にたいしてもそうだろう。
不平不満を持つことから、魔は忍び寄ってくる。
暗いと不平を言うよりも、すすんで明かりをつけましょー
(昔のキリスト教の早朝番組のはじまりのフレーズ。なつかすぃー)
もしも心に不自然に不平不満がでてきて止まらないときは、誰か(霊的なモノ)の干渉もあるかもしれない。それを見抜いたうえで、静かに心を鎮めることだ。
私は今まで、心のなかに強烈に目上や神仏を疑う言葉がきこえたことが三回ある。非常に恥ずかしいことだが、私は隠す気はない。
そのとき、私は最初怒鳴りまくって対抗した。しかし、こちらがムキになればなるほど、私にささやきかける「周りの人々の善意を疑い、神仏という善なる存在を疑う声」もまた大きくなる。
これではキリがない、このままでは自分の負の思いとの同じ土俵での念力合戦だと思った私は、合掌して、疑の言い分にしずかに耳を傾けた。
言い分をすべて聞いたあと、穏やかに聞き返した。
「で、あなた(私)は目上の方々や神仏を裁くほど神仏に並ぶ救済をしてるんですか?
影響力を、徳力をもっていますか?
様々な宗派でいわれ証明されているところの神・仏は、それぞれの民族・歴史において公平な希望の法を説いてくださってます。
それによってたくさんの善なる思いがうまれ、その善なる思いにおいて人々は人生への光明を得てきました。
また、神仏を深く信じる方々ほど、栄光や名声をいただきながら、かぎりなくストイックであり自己に厳しく、それぞれの立場から公に益しようとする愛にみちています。
あなたはどうですか?できてますか?これからできますか?
それができるあなたであるなら、言い分も聞く価値がありますが、どうですか?
できますか?できるんですか?」
すると、負の思いの言葉はピタリと止んだ。(笑)
自分の未熟さを棚にあげて、周りの欠点をあげつらうことは、あまりに幼稚なこころだ。
しかし、その幼稚なこころをいまだ持っている自分を、忍び寄せる自分を、恥じなければ、正さなければいけない。
目上の方に不平不満をもつとき、家庭に不平不満をもつとき、職場に不平不満をもつとき、そのときこそ、大切なのは「智慧」なのだと思う。
感情に振り回されず、つねに神仏の方を、つまり道理の方を向く。まず自らをただす。
上司にいわれた言葉を思い出す。
「神仏の目に合わせなさい。道理を判断の基準にしなさい。自分の感情にながされず、つねに一歩ひいた目で自他をみつめなさい。不平不満をもってはいけない」
自分を知り、自分を改める。傷つくことを恐れてはいけない。
それができる私になりたいと思う。
「龍神様が写りました✩」な写真を見つけたので
特別取材:信者さんXさん(元修験僧)の話 ~最後の相談 巡り合わせ
お骨は家に置いちゃダメだし身に付けちゃダメ、散骨もってのほか!
ある信者さんからのご相談 ~謎の体調不良とご家族の不調の原因
仏壇に直系以外の位牌ダメ・ゼッタイ
精神科医A先生のお話(前編)注・不定期なので後編はいつになるか不明
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精神科医A先生のお話(前編)注・不定期なので後編はいつになるか不明
Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 00:48│Comments(0)
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