アマンデー清掃奉仕へ
2012年08月29日
台風一過、アマンデーにお盆前の(奄美のお盆は8/30~9/1)清掃奉仕に伺いました。
台風の落ち葉の清掃と、九州旅行でのご加護の感謝のご報告のためです。
本日は平日でしかもお盆前日のため、「THINK BIG AMAMI」のメンバーへの呼びかけは遠慮させていただき、私一人でいってまいりました。
アマンデーへ行く道は、いつもは山肌がつるつるしてて滑りやすいものの、台風のおかげで固い松葉がつもり、まるで天然の滑り止めのようで、とっても歩きやすかったです(笑)
アマンデー到着。イイ感じの落ち葉のつもりっぷりです。

ただ、台風直前にどなたかが清掃をしてくださったらしく、あれだけびっしりとついていた蔓草が、キレイにはぎとられていました。周りの細かな玉砂利が敷かれている空間も、雑草を丁寧にぬきとられた形跡が見てわかりました。
ありがたやありがたや。
持参したほうきとチリトリで腰痛をだましだまし格闘すること数十分、なんとかできる限りのお掃除をさせていただくことができました。

左奥に落ち葉を固めてるのは、そこだけ陥没してる部分があり、そこを埋めるためです(笑)
台風で器が一つ割れていたのと、浄財置き用の木皿が痛んでいたので、下げさせていただきました。
お掃除がおわったあと、お水で器を清め、宇佐神宮からお持ちした霊水と、麓の阿麻彌姑神社で汲んだお水、先般の清掃奉仕のときに奉納させていただいた黒糖焼酎を注いで、
奄美の神々に奄美大島と日本への加護の感謝と、奄美のすべての人々が奄美と日本のお役に立てますようにとお祈りして、幸福の科学の経文「正心法語」をご奉納させていただきました。

感謝の奏上から経文をあげてる間だけ、こちらにまっすぐ陽がさしてきて、不思議な感動につつまれました。
お祈りをさせていただいている最中に、すぐ右後方の木から、それまできいたことがない種類の真新しいセミの鳴き声が響きました。新しいはじまりのようで、とっても気持ちよかったです。
すべては偶然かもしれませんが、偶然の重なりにどうしても神秘的な印象をうけてしまいます。(笑)
アマンデーから喜界島を望む。ううーん、イイ気持ち~。

帰ろうとしたら、アマンデーの神様から呼ばれたような気がして、石碑の前で立ち止まると、
あくまでイメージなのですが、『見たことがないような古代チックなデザインの、いくつかの鈴?がついた首飾りのようなもの』をわたされたような気がしました。
その瞬間、三匹の山鳩?が突然上空からどこからともなく飛んできて、まるでこちらに見せつけるかのようにアマンデーの石碑の真上まで急降下して、そのまますごい速度で直角に森の中に飛び去っていきました。(結構デカかったので山鳩だと思う)
なんたる偶然!さすがはアマンデー!!!
帰りにアマンデーを国道からパシャリ。自衛隊のレーダー基地の中腹にあります。元は頂上にあったのですが、自衛隊の設備の建設により、中腹にうつされました。

本日はこのような尊い機会をいただき、本当にありがとうございました!
台風の落ち葉の清掃と、九州旅行でのご加護の感謝のご報告のためです。
本日は平日でしかもお盆前日のため、「THINK BIG AMAMI」のメンバーへの呼びかけは遠慮させていただき、私一人でいってまいりました。
アマンデーへ行く道は、いつもは山肌がつるつるしてて滑りやすいものの、台風のおかげで固い松葉がつもり、まるで天然の滑り止めのようで、とっても歩きやすかったです(笑)
アマンデー到着。イイ感じの落ち葉のつもりっぷりです。

ただ、台風直前にどなたかが清掃をしてくださったらしく、あれだけびっしりとついていた蔓草が、キレイにはぎとられていました。周りの細かな玉砂利が敷かれている空間も、雑草を丁寧にぬきとられた形跡が見てわかりました。
ありがたやありがたや。
持参したほうきとチリトリで腰痛をだましだまし格闘すること数十分、なんとかできる限りのお掃除をさせていただくことができました。

左奥に落ち葉を固めてるのは、そこだけ陥没してる部分があり、そこを埋めるためです(笑)
台風で器が一つ割れていたのと、浄財置き用の木皿が痛んでいたので、下げさせていただきました。
お掃除がおわったあと、お水で器を清め、宇佐神宮からお持ちした霊水と、麓の阿麻彌姑神社で汲んだお水、先般の清掃奉仕のときに奉納させていただいた黒糖焼酎を注いで、
奄美の神々に奄美大島と日本への加護の感謝と、奄美のすべての人々が奄美と日本のお役に立てますようにとお祈りして、幸福の科学の経文「正心法語」をご奉納させていただきました。

感謝の奏上から経文をあげてる間だけ、こちらにまっすぐ陽がさしてきて、不思議な感動につつまれました。
お祈りをさせていただいている最中に、すぐ右後方の木から、それまできいたことがない種類の真新しいセミの鳴き声が響きました。新しいはじまりのようで、とっても気持ちよかったです。
すべては偶然かもしれませんが、偶然の重なりにどうしても神秘的な印象をうけてしまいます。(笑)
アマンデーから喜界島を望む。ううーん、イイ気持ち~。

帰ろうとしたら、アマンデーの神様から呼ばれたような気がして、石碑の前で立ち止まると、
あくまでイメージなのですが、『見たことがないような古代チックなデザインの、いくつかの鈴?がついた首飾りのようなもの』をわたされたような気がしました。
その瞬間、三匹の山鳩?が突然上空からどこからともなく飛んできて、まるでこちらに見せつけるかのようにアマンデーの石碑の真上まで急降下して、そのまますごい速度で直角に森の中に飛び去っていきました。(結構デカかったので山鳩だと思う)
なんたる偶然!さすがはアマンデー!!!
帰りにアマンデーを国道からパシャリ。自衛隊のレーダー基地の中腹にあります。元は頂上にあったのですが、自衛隊の設備の建設により、中腹にうつされました。

本日はこのような尊い機会をいただき、本当にありがとうございました!
【natsuさん】つらつらと
2012年08月29日
こんにちは。
では、今回もつらつら~と書いてみたいと思います。
ちょっと忙しくて時事ネタにはあまり切り込めませんがご容赦下さい。
おおまかには「個人的な主観」となりますので、そのへんは適当に聞いて下さい。
私は日本人は「前提」ということを考えることがとても苦手だと思っています。
この弊害はかなり大きなものではないかと思っています。
当然ですが、学校教育の現場では先生はルールです。
そして教科書も間違いないという前提で話が始まります。
そのような前提は「大人の事情」として隠して、多くの子供達は学校という
小さな社会で学び始めるわけです。
通常であれば、「学校」「家庭」「社会」という様々な枠を体験することで
子供ながらに”大人の事情”や”ずるさ”ということを学びながら「社会」ということを
理解していくわけですが、こうした様々な立ち位置ということを体験することのない
人達は、自分が過去に経験した狭い範囲の内容と、自分のもっている限界ある処理能力で
世界の物事を判断しようとし始めます。
前回のメールで日本政府の「密約」についての記載がありました。
まず前提として考えなければいけないのは、密約が良いか悪いかという
話ではなくて、どうして密約が必要だったか?です。
むしろ、どうして問題の処理にあたって密約という形式をとる必要性があったのか?
ということを、まずは知り、理解をする必要があります。
その最初のステップをすっ飛ばして、良いとか悪いとかと騒ぎ立てるのは
やはり頭が悪いという判断になるのではないかと思います。
物事の善悪というのは、何を目的にして、どういう立ち位置で、どういう理由によるのか?
という様々な要因に依存します。
何を判断の基準に持ってくるかによって「善悪」というものは変わります。
国、人種、性別、世代、外的要因、、様々なものによって、当事者達の「善悪」「正義」と
いうものは変わるわけです。
こう書いてしまえばとても単純な話なのですが、多くの人にとっては
情報を理解する、受け入れると言うことは、言葉を理解出来るかどうかという問題よりも
「感情」によるところが多いのが実情です。
繰り返します。
多くの人は、能力的に考えることが出来るかどうかではなくて、根本的には「感情」に支配されて
人生を生きているのです。
このことを「受け入れたい」と思うか、「受け入れたくない」と思うかは本人にお任せしますが
事実、現実だと言えます。
私の経験上では、他人の感情に対してあまりツッコミを入れすぎると
大体において、話がこじれることが多くあります(笑)
最初は公平な目で見ようという思いが当人にあったとしても、それを厳密にやると
自分にとって不都合な現実が見えはじめ、そして自分にとって不都合な現実はそのままにして
欲しいので、最初の「正邪を明らかにしよう」という話はどこかにすっとんでいく、ということに
落ち着くことが多いようです。
まーこんなものです。
私がアマミキョさんのブログに書いていることも、感覚的にはこれに近い部分があります。
何かしら、tunさんのように気付いてくれる人が数人出てくればいいかなと思っていましたが
現実には、なかなか厳しいという感じです(笑)
私が書いている内容は、特別に難しいような用語はあまりありません。
しかし、私が書いている内容が受け入れられないという現実があります。
まー、上から目線だの、偉そうだの、と様々な意見なり感想はあるでしょうが、
私が見ているところの結論は、私の意見を受け入れると、読んでいるご本人にとって
「都合が悪い」ことが多いからだと思っています。
そして正しい情報というか価値観かもしれないが、自分が見つけ出した話ではなく
相手(私)から教えてもらってしまったのが、本人としては非常に悔しいという気持ちを
呼び起こしており、私の情報を受け入れがたいという感情になってしまっている、ということだと
思っています。
私が相手の感情を害さずに相手に”気付き”を与えられないという能力しかない、といえば、それまでです。
しかしながら、私自身は、そこまでお人好しになろうとは思っていませんし、そういう方に
対処をしている時間も労力もないというのが正直なところです。
学ぼうという人達とは様々な意見の交換をしながら切磋琢磨したいと思いますが
学びたくないという人に対して、学びの道に入れるというところは、私の仕事ではないと思っています。
話を最初に戻しますが、目の間にある世界を認識するためには、自分の生きた年数の中で
自分が考えたことだけを拠り所にしていては、何も理解は出来ません。
もちろん、それを否定するつもりはありませんが、それは学ぶ、知りたいという形ではありません。
自分のルールにいつまでもしがみついていたら、どんな場所で、どんな素晴らしい先生に巡り会ったとしても
何も得られることなく、人生という時間が終わることは、誰にも理解出来ることでしょう。
改めてですが、大切なことは
学びたいと思うのか
自分にとって都合の良い世界の住人でいたいのか
二者択一をするということだと思います。
では、今回もつらつら~と書いてみたいと思います。
ちょっと忙しくて時事ネタにはあまり切り込めませんがご容赦下さい。
おおまかには「個人的な主観」となりますので、そのへんは適当に聞いて下さい。
私は日本人は「前提」ということを考えることがとても苦手だと思っています。
この弊害はかなり大きなものではないかと思っています。
当然ですが、学校教育の現場では先生はルールです。
そして教科書も間違いないという前提で話が始まります。
そのような前提は「大人の事情」として隠して、多くの子供達は学校という
小さな社会で学び始めるわけです。
通常であれば、「学校」「家庭」「社会」という様々な枠を体験することで
子供ながらに”大人の事情”や”ずるさ”ということを学びながら「社会」ということを
理解していくわけですが、こうした様々な立ち位置ということを体験することのない
人達は、自分が過去に経験した狭い範囲の内容と、自分のもっている限界ある処理能力で
世界の物事を判断しようとし始めます。
前回のメールで日本政府の「密約」についての記載がありました。
まず前提として考えなければいけないのは、密約が良いか悪いかという
話ではなくて、どうして密約が必要だったか?です。
むしろ、どうして問題の処理にあたって密約という形式をとる必要性があったのか?
ということを、まずは知り、理解をする必要があります。
その最初のステップをすっ飛ばして、良いとか悪いとかと騒ぎ立てるのは
やはり頭が悪いという判断になるのではないかと思います。
物事の善悪というのは、何を目的にして、どういう立ち位置で、どういう理由によるのか?
という様々な要因に依存します。
何を判断の基準に持ってくるかによって「善悪」というものは変わります。
国、人種、性別、世代、外的要因、、様々なものによって、当事者達の「善悪」「正義」と
いうものは変わるわけです。
こう書いてしまえばとても単純な話なのですが、多くの人にとっては
情報を理解する、受け入れると言うことは、言葉を理解出来るかどうかという問題よりも
「感情」によるところが多いのが実情です。
繰り返します。
多くの人は、能力的に考えることが出来るかどうかではなくて、根本的には「感情」に支配されて
人生を生きているのです。
このことを「受け入れたい」と思うか、「受け入れたくない」と思うかは本人にお任せしますが
事実、現実だと言えます。
私の経験上では、他人の感情に対してあまりツッコミを入れすぎると
大体において、話がこじれることが多くあります(笑)
最初は公平な目で見ようという思いが当人にあったとしても、それを厳密にやると
自分にとって不都合な現実が見えはじめ、そして自分にとって不都合な現実はそのままにして
欲しいので、最初の「正邪を明らかにしよう」という話はどこかにすっとんでいく、ということに
落ち着くことが多いようです。
まーこんなものです。
私がアマミキョさんのブログに書いていることも、感覚的にはこれに近い部分があります。
何かしら、tunさんのように気付いてくれる人が数人出てくればいいかなと思っていましたが
現実には、なかなか厳しいという感じです(笑)
私が書いている内容は、特別に難しいような用語はあまりありません。
しかし、私が書いている内容が受け入れられないという現実があります。
まー、上から目線だの、偉そうだの、と様々な意見なり感想はあるでしょうが、
私が見ているところの結論は、私の意見を受け入れると、読んでいるご本人にとって
「都合が悪い」ことが多いからだと思っています。
そして正しい情報というか価値観かもしれないが、自分が見つけ出した話ではなく
相手(私)から教えてもらってしまったのが、本人としては非常に悔しいという気持ちを
呼び起こしており、私の情報を受け入れがたいという感情になってしまっている、ということだと
思っています。
私が相手の感情を害さずに相手に”気付き”を与えられないという能力しかない、といえば、それまでです。
しかしながら、私自身は、そこまでお人好しになろうとは思っていませんし、そういう方に
対処をしている時間も労力もないというのが正直なところです。
学ぼうという人達とは様々な意見の交換をしながら切磋琢磨したいと思いますが
学びたくないという人に対して、学びの道に入れるというところは、私の仕事ではないと思っています。
話を最初に戻しますが、目の間にある世界を認識するためには、自分の生きた年数の中で
自分が考えたことだけを拠り所にしていては、何も理解は出来ません。
もちろん、それを否定するつもりはありませんが、それは学ぶ、知りたいという形ではありません。
自分のルールにいつまでもしがみついていたら、どんな場所で、どんな素晴らしい先生に巡り会ったとしても
何も得られることなく、人生という時間が終わることは、誰にも理解出来ることでしょう。
改めてですが、大切なことは
学びたいと思うのか
自分にとって都合の良い世界の住人でいたいのか
二者択一をするということだと思います。