自分をどれだけ知ってるのかな?
2010年05月27日
自分をどれだけしっているかと思い、すこし書いてみる。
ここから先はキモい自分語りです。興味ない方は回れ右してね。
前世からの課題(いわゆるカルマ)
◎レプタリアンを祭神にした縁による傲慢さと残酷さ、自我のつよさ、戦争への関心
◎自分の中での男性の魂の強さと、女性の魂とのアンバランスさによる苦しみ
(男性の魂の個性がつよく、いまの自分への干渉が強い。これは父親の影響、自分の過去世、奄美の民族神がからんでいる。つまり過去世の自分の干渉が同じ性質のものをひきよせている)
◎幼少時からの「フタをされている感覚」
自分につねにフタをされている感覚がする。これがなんなのかはまだ不明。たぶん自分への封印?
◎傲慢さの自我と、それが周りに影響を与えることへの恐怖心(過去世の影響、これをカバーする思想が必要。それが「愛」と「知」ではないかと思う)
◎女性としての虐げられていた記憶(男性だったときに与えていた抑圧を女性として生まれてかぶった)
現在の自分の課題
◎人ともっと積極的にかかわるようにする(人への関わりに一線をひく癖がある)
◎もっと規則正しい生活をここがける(自分を戒めるというキーワードが苦手。やせたい・・・・)
◎自分に投資する(自分にたいしてかなり投げやり。もっと自分を知るべき)
◎「愛」「因果と縁起の法則」をよく学ぶ(いい意味での自分と世界のつながりと愛の大切さを魂におとしこむ)
◎もっと周りにいい影響を与えられる自分になる(いい内容のブログや言葉をつかう)
キーワード
◎花・祝福・癒し・普遍の愛・感謝・素直さ・肯定・透明な器・母性の復活
◎正しい神を信じる・因果と縁起の法則を学ぶ・霊性と精神性と現実世界がそのまま相互に影響する世界の認識(奄美に古来からある姉妹神信仰)とそのトライアングルの調和としての「女性が男性を守る祈りの力」
◎奄美の民族の転生の歴史とおじさまと宗派の仏神の関係を解く(もうちょい先か?)
緊急の課題
◎とりあえずあと10キロやせる。そのために歩け、それかレッグマジックXをかならずしろ
◎もうコーラはのむな
◎夜更かしするな
こんなもんかな?(≧ω≦)
ここから先はキモい自分語りです。興味ない方は回れ右してね。
前世からの課題(いわゆるカルマ)
◎レプタリアンを祭神にした縁による傲慢さと残酷さ、自我のつよさ、戦争への関心
◎自分の中での男性の魂の強さと、女性の魂とのアンバランスさによる苦しみ
(男性の魂の個性がつよく、いまの自分への干渉が強い。これは父親の影響、自分の過去世、奄美の民族神がからんでいる。つまり過去世の自分の干渉が同じ性質のものをひきよせている)
◎幼少時からの「フタをされている感覚」
自分につねにフタをされている感覚がする。これがなんなのかはまだ不明。たぶん自分への封印?
◎傲慢さの自我と、それが周りに影響を与えることへの恐怖心(過去世の影響、これをカバーする思想が必要。それが「愛」と「知」ではないかと思う)
◎女性としての虐げられていた記憶(男性だったときに与えていた抑圧を女性として生まれてかぶった)
現在の自分の課題
◎人ともっと積極的にかかわるようにする(人への関わりに一線をひく癖がある)
◎もっと規則正しい生活をここがける(自分を戒めるというキーワードが苦手。やせたい・・・・)
◎自分に投資する(自分にたいしてかなり投げやり。もっと自分を知るべき)
◎「愛」「因果と縁起の法則」をよく学ぶ(いい意味での自分と世界のつながりと愛の大切さを魂におとしこむ)
◎もっと周りにいい影響を与えられる自分になる(いい内容のブログや言葉をつかう)
キーワード
◎花・祝福・癒し・普遍の愛・感謝・素直さ・肯定・透明な器・母性の復活
◎正しい神を信じる・因果と縁起の法則を学ぶ・霊性と精神性と現実世界がそのまま相互に影響する世界の認識(奄美に古来からある姉妹神信仰)とそのトライアングルの調和としての「女性が男性を守る祈りの力」
◎奄美の民族の転生の歴史とおじさまと宗派の仏神の関係を解く(もうちょい先か?)
緊急の課題
◎とりあえずあと10キロやせる。そのために歩け、それかレッグマジックXをかならずしろ
◎もうコーラはのむな
◎夜更かしするな
こんなもんかな?(≧ω≦)
レプタリアンのやり方とそれを覆すもの
2010年05月27日
佐竹館長の話をDVDでききまして。
レプタリアンのやり方。(どこのだれかと似てるというツッコミはこの際ぬきで)
1,民族や思想を分断する・身内に敵をつくる
2,洗脳する(特に智慧のない方を)主に責任転嫁の理論や分をこえた欲望を喚起させる
3,戦いや争いを正当化する
4,多数派によって上の人間を粛正させる
5.そのカルマによって多数派を縛る
6,多数派からすべての自由・個性を奪う
7,自分の考えのもとにすべてを支配する(逆らう者は粛正)基本的に自分の下の階級は奴隷・家畜という概念
グレイはレプタリアンの奴隷階級だから個性がない(奪われている)
レプタリアンはなるべく表にでない(正体が見抜かれることは負けること)
エンリルとルシフェル・ミカエルのやり方の酷似(まぁ同じ種族だし)
ゾロアスターいわく「ミカエルとルシフェルは同じコインの表裏」
ここを見抜くことの重要さ
レプタリアンは思想の前提が「弱肉強食・自分の欲望(正当化)のためには手段を選ばない」
(ここと一番対立する思想が仏教の「欲望・執着を絶つ」自戒と布施の思想。悪魔もここが一番キライ。レプタリアンには反省や利他の思想はない)
愛や善悪の概念は地球オリジナル。レプタリアンの母星には天国・地獄は存在しない(なので罪の意識が薄い)
地獄の世界はレプタリアンの母性の世界観そのもの
レプタリアンの手法へのアンチテーゼであり王道
1,ヘルメスのつくった自由主義経済(信用貿易)winwinの関係(どちらも発展する関係・戦争の真逆)
2.ドラッガーの思想(全体主義への抵抗勢力としての経営者育成・自由主義経済)
自由と責任の重要さを知ること・自由主義経済(自己責任と社会発展の使命)の浸透
地球は宇宙からみて「愛の星」であり、愛を学ぶための星である。
私たちはレプタリアンの個性を知り罪を犯させず、レプタリアン出身者ももっとスムーズに愛を学ぶようにする。
レプタリアンのやり方。(どこのだれかと似てるというツッコミはこの際ぬきで)
1,民族や思想を分断する・身内に敵をつくる
2,洗脳する(特に智慧のない方を)主に責任転嫁の理論や分をこえた欲望を喚起させる
3,戦いや争いを正当化する
4,多数派によって上の人間を粛正させる
5.そのカルマによって多数派を縛る
6,多数派からすべての自由・個性を奪う
7,自分の考えのもとにすべてを支配する(逆らう者は粛正)基本的に自分の下の階級は奴隷・家畜という概念
グレイはレプタリアンの奴隷階級だから個性がない(奪われている)
レプタリアンはなるべく表にでない(正体が見抜かれることは負けること)
エンリルとルシフェル・ミカエルのやり方の酷似(まぁ同じ種族だし)
ゾロアスターいわく「ミカエルとルシフェルは同じコインの表裏」
ここを見抜くことの重要さ
レプタリアンは思想の前提が「弱肉強食・自分の欲望(正当化)のためには手段を選ばない」
(ここと一番対立する思想が仏教の「欲望・執着を絶つ」自戒と布施の思想。悪魔もここが一番キライ。レプタリアンには反省や利他の思想はない)
愛や善悪の概念は地球オリジナル。レプタリアンの母星には天国・地獄は存在しない(なので罪の意識が薄い)
地獄の世界はレプタリアンの母性の世界観そのもの
レプタリアンの手法へのアンチテーゼであり王道
1,ヘルメスのつくった自由主義経済(信用貿易)winwinの関係(どちらも発展する関係・戦争の真逆)
2.ドラッガーの思想(全体主義への抵抗勢力としての経営者育成・自由主義経済)
自由と責任の重要さを知ること・自由主義経済(自己責任と社会発展の使命)の浸透
地球は宇宙からみて「愛の星」であり、愛を学ぶための星である。
私たちはレプタリアンの個性を知り罪を犯させず、レプタリアン出身者ももっとスムーズに愛を学ぶようにする。
貪・瞋・癡の反省について 2009.10.27 佐竹館長講話
2010年05月27日
(これはうちの宗派の考え方だが、正鵠を得ていると思うので転記する。仏を神、正心法語を感謝の言葉と言い換えても充分に通じると思うからである。キリスト教の悔い改めと主への感謝やハワイのホ・オポノポノ、またいわゆるニューエイジ界などでのハイヤーセルフとのコンタクトにも共通するものがある。過去への反省、そして感謝の心の重要性がすべてに共通する。)
2009.10.27 湯布院正心館七の日感謝式典
佐竹館長講話
☆★貪・瞋・癡の反省について☆★
皆様こんにちは。今、映画『仏陀再誕』が封切られておりまして、多くの方がこの映画を観ておられるわけですが、この映画の中の一つのテーマとして、「反省と救い」というテーマがあろうかと思います。仏陀の説かれる説法の中で、必ず悪霊に対して、また衆生に対して、貪・瞋・癡の反省をせよと、心を静めよということを、何度も映画の中で訴えられておりますので、これは非常に大切なテーマであると思います。そこで、今日はこの貪・瞋・癡の反省について、ご一緒に考えさせて頂きたいと思います。
これは、反省に入るにはどのようにすればいいのかというのと、ほぼ同じようなことだと思うのですが、反省がなかなか苦手だとおっしゃっる方は、どこが苦手かと言うと、入り方がよく掴めないというのがあるのではないかと思います。そこで、では何故反省が必要かというと、ここに救いの光が降りてくるからでございます。
また、病気などが治る奇跡も、必ず反省が入ります。反省なくして奇跡の光が降りるということは、まずあり得ませんので、この反省の入り方というのは非常に大切になろうかと思います。
そこで、この反省というのは一体何かというと、一つの波長の切り替えと言いますか、波動の切り替えをしようとしているのだということです。波長の切り替えをしようとしている。どのような波長かと言うと、苦しみの波長であるとか、悩みの波長であるとか、苦悩の波長、これを切り替えたいと。安らかなものに切り替えたいというのが、一つの目的です。
そこで、どのようにして切り替えるかというと、まずこの波長を止めなければいけないわけですね。暴走している車があって、本当は右に曲がりたいんだけれども曲がれない、という場合がありますね。或いは、サッカーでも何でもそうですけれども、球をパスしてくると初心者は一回止めますね。或いは、自転車でもなかなかハンドルが切れない時は、一回ブレーキをかけて止めて、ハンドルを切るというようなやり方があるので、止めなきゃいけませんね。
心を止めると。この止めることを止観と申します。止観瞑想の止観、止めると観ると書きますけれど、止観(しかん)と言うわけですね。この止観をしなければいけません。
そこで、この反省が単なる瞑想と違う部分は、信仰に基づく反省的瞑想ですので、まず信仰が入らなければいけません。まず止めるには、信仰が必要です。例えば、自分が霊的な影響を受けているとか、悩みの中にあるとか、明らかに悪霊の影響を受けているというような場合がありますね。
この時に何をやらなければいけないかというと、これは主に対する感謝が、まず最初にきます。そうすると、多くの方はそれが出来ないとおっしゃいますね。祈る気も起きなければ、主の名を呼ぶ気も起きない、何にも起きない。そのようにおっしゃるんですが、まず必要なのは、主に対する感謝が出来なきゃいけません。これは、念力を込めようが何しようが、主に対して、主よありがとうございますということを、心の中に念ずることが最優先でございます。これができませんと、その後の反省には、ほぼ入れないと考えていいと思われます。
何故かというと、まず簡単なことですけれども、自分が今苦しかろうが、今病気の渦中にあろうが何をしようが、生きているとい
う事実があるということです。生きているということは、生かし主がおられるということですね。今自分は勝手に生きている訳ではなくて、生かされているという生かし主がおられる以上、その生かし主に対して、如何なる状況下でも、主よありがとうございますと感謝をする。息をしていて、心臓も動いているわけですから、それに対する感謝というのがあると言っているわけです。
ここに、信仰の原点に戻す必要があると。まず、自分は勝手に生きているのか生かされているのか、という根本的な部分に戻って、いや自分は生かされていると思うのであるならば、生かし主であるに対して、主よありがとうございますと念ずる必要があります。ここに、信仰の原点に戻るということがあろうかと思います。
そして、次に入っていくわけですけれども、この波長というものを、一つの音楽として考えてみればいいわけですね。非常にざわついた騒がしい音楽、うるさい音楽から、非常に安らかな音楽に切り替えたいんです。ということになると、音楽には三つの要素があると言われています。
まず、一番最初の要素は、リズムです。リズムがあるんです。非常に騒がしいアップテンポのガンガンガンガン言っているようなリズムから、緩やかなリズムに変える必要があります。まずリズムを変換する必要がある。これは調子のことですね。テンポ、心のテンポを緩やかに戻す。それに必要なのは何かというと、呼吸法であると言われています。
私たちは色心不二と言われていて、肉体と心は一体ですから、心が制御出来ない場合、肉体から入ると。それは呼吸法だと。深い丹田(たんでん)呼吸、これを繰り返すことによって、意識をちょうどお臍(へそ)の下、指3本ぐらいのところ、下っ腹の方に意識を持っていく。感情をずっとこっちに落としていくんですね。
このやり方は、ご存知の通り、まず息を吐きますね。お腹をへこめて息を吐いて、ストンとこう落としていくという呼吸法を、しばらくお続けになる必要があると思います。そうすると、意識が落ちます。苦しんでいる時は、呼吸は非常に浅くなっております。特に怒りが起きている時には、ほとんど息をしておりません。非常に浅い呼吸になって、100メートル走で全力疾走しているような状況になっていますから、身体中が酸欠状態になっている。酸欠状態になっている部分を、ゆっくりと戻す。これでリズムが戻ります。
そして、その次はメロディーというものがあるんですね。これを旋律と言いますけれども、この旋律を醸し出さなきゃいけないわけです。どのようにするか。これが、仏説 正心法語でございます。この仏説 正心法語、主への祈り、これは偉大なる主
から頂いた、天上界の旋律そのものです。天上界の理念そのものが込められています。天上界の姿、その波長、旋律がそのまま入っておりますから、これをゆっくりと唱えていくというのがメロディーです。
そして、その次に必要なのは何かというと、ハーモニーですね。ハーモニーというのは調和のことです。では、調和とは何か。これは天上界そのもので、天上界のあの美しい風景。それは、非常に明るい世界であった。明るい世界というものを、まず想起する必要がありますね。
そして、その世界は愛に満たされていた世界であり、勇気ある世界であった。そして、慈悲に満ちた世界であり、非常に積極的な世界であり、また、正義というものがそこにあった。そして、真理に満ちている。こういったものを心の中に描く。天上界はそうであったという事実を心の中に描いてほしいわけです。これで、三つ揃いました。
それは、緩やかなリズムであり、素晴らしい音色・メロディーであり、また調和のとれたハーモニーです。こういった世界があるんだということです。その世界をもって、今自分の心の中に、そういう世界があるんだということをまず見出だして、その世界から今のこの苦しみを見たら、どうなるんだということになりますね。これを正見とも言うわけですけれども、心安らいだ状態をまず作ろうとすることなんだと。
これは正見と言いましたが、その前の結論で言う正定というか、少し定に入る、瞑想状態に入るということですね。そして、その立場からこの地上世界を見てみようではないかと。これが、守護霊様の目とも言われるものですね。というのは、守護霊様の目
で見ようと思うと、守護霊様のおられる世界というものを思い出すことができないと、守護霊様の目で見ることはできません。ですから、そこをまず思い出して、自分の今の状況を見ようと。
それで、一番最初が貪です。何故そのような貪りが起きているのか、何故怒りが起きているのか、それがどのように見えるのか、或いは、貪・瞋・癡、愚かなことを繰り返している。これが、何故起きているのか。その愚かさの典型は、愚痴とも言われていますね。愚痴ったら、愚痴った結果が起きてきます。苦しい、苦しいと言えば、苦しい結果が起き、不幸になる、不幸になると言えば、その不幸な結果が起きてくる。本人は幸福になりたいと思っているにも関わらず、逆を心の中で念じている。或いは、健康になりたいと思いながら、病気の不幸を心の中で何度も何度も繰り返す。
愚かですね。自分が思っている方向と逆の方向に向いていくわけですから。だから、これを愚かと言っていると。これを、貪・瞋・癡の癡と言っていると。
その姿を少しずつ見ていく必要があります。そうすると、非常に醒めた心で見ていくことになりますので、おかしいなと思うわけですね。どの辺がおかしいかというと、そのようにメチャクチャやっている自分がいるということが、まず見えてくる。
しかし、メチャクチャやっている自分も、ちゃんと仏の光によって生かされているんです。メチャクチャやって感謝もしない人間が、ありがたいことに、主の光によって生かされ満たされているということを見ていくと、仏の光というのは、誠に誠に無償の光である。無所得で、何の見返りもなく私たちを生かして下さっているということが見えてくると、自動的に申し訳なくなってくるものなんですよ。本当に申し訳ないと。申し訳なくなってきたら、自然にお詫びができますね。申し訳ありませんでしたと。全く気づきませんでした、本当に申し訳ないという気持ちが出てきます。
そして、それでも光をくださっていることが分かってくると、感謝ができますね。
生かされているんだと。最初の原点に戻りますと、自分は生かされているのか、勝手に生きているのかということですが、霊的な天国的な目から見ると、本当にありがたいことであるという感謝ができるようになります。ここで、主に対するお詫びと感謝ができます。これを、反省と感謝ということになります。
そうしますと、それができて来ますと、心が天上界に向いていきますから、そこにが入る。想念帯が明るくなると言われるような状況に戻って、本来の自分に戻るんだと言っているわけですね。これを、貪・瞋・癡の反省、または正思の反省とも言うわけです。
今回の映画の中でも、何度も悪霊に対しても、貪・瞋・癡、心の三毒を正せと、或いは、衆生に対する説法におきましても、貪・瞋・癡のこの三つをチェックせよと何度も教えて頂いておりますけれども、この三つを押さえるだけでも、心が浄化されます。
もう一度言いますけれども、一つの波長の世界におりますから、これを一つの個人個人の音楽だとして、その音楽をどのようにして切り替えていくかという目で、もう一度この三つの要素をポイントにして、今回の映画で言われている貪・瞋・癡というものを深く見つめることができればありがたいと思います。そして、それを多くの方々にお伝えすることによって、この真理の世界に誘って参りたいと思います。ありがとうございました。
2009.10.27 湯布院正心館七の日感謝式典
佐竹館長講話
☆★貪・瞋・癡の反省について☆★
皆様こんにちは。今、映画『仏陀再誕』が封切られておりまして、多くの方がこの映画を観ておられるわけですが、この映画の中の一つのテーマとして、「反省と救い」というテーマがあろうかと思います。仏陀の説かれる説法の中で、必ず悪霊に対して、また衆生に対して、貪・瞋・癡の反省をせよと、心を静めよということを、何度も映画の中で訴えられておりますので、これは非常に大切なテーマであると思います。そこで、今日はこの貪・瞋・癡の反省について、ご一緒に考えさせて頂きたいと思います。
これは、反省に入るにはどのようにすればいいのかというのと、ほぼ同じようなことだと思うのですが、反省がなかなか苦手だとおっしゃっる方は、どこが苦手かと言うと、入り方がよく掴めないというのがあるのではないかと思います。そこで、では何故反省が必要かというと、ここに救いの光が降りてくるからでございます。
また、病気などが治る奇跡も、必ず反省が入ります。反省なくして奇跡の光が降りるということは、まずあり得ませんので、この反省の入り方というのは非常に大切になろうかと思います。
そこで、この反省というのは一体何かというと、一つの波長の切り替えと言いますか、波動の切り替えをしようとしているのだということです。波長の切り替えをしようとしている。どのような波長かと言うと、苦しみの波長であるとか、悩みの波長であるとか、苦悩の波長、これを切り替えたいと。安らかなものに切り替えたいというのが、一つの目的です。
そこで、どのようにして切り替えるかというと、まずこの波長を止めなければいけないわけですね。暴走している車があって、本当は右に曲がりたいんだけれども曲がれない、という場合がありますね。或いは、サッカーでも何でもそうですけれども、球をパスしてくると初心者は一回止めますね。或いは、自転車でもなかなかハンドルが切れない時は、一回ブレーキをかけて止めて、ハンドルを切るというようなやり方があるので、止めなきゃいけませんね。
心を止めると。この止めることを止観と申します。止観瞑想の止観、止めると観ると書きますけれど、止観(しかん)と言うわけですね。この止観をしなければいけません。
そこで、この反省が単なる瞑想と違う部分は、信仰に基づく反省的瞑想ですので、まず信仰が入らなければいけません。まず止めるには、信仰が必要です。例えば、自分が霊的な影響を受けているとか、悩みの中にあるとか、明らかに悪霊の影響を受けているというような場合がありますね。
この時に何をやらなければいけないかというと、これは主に対する感謝が、まず最初にきます。そうすると、多くの方はそれが出来ないとおっしゃいますね。祈る気も起きなければ、主の名を呼ぶ気も起きない、何にも起きない。そのようにおっしゃるんですが、まず必要なのは、主に対する感謝が出来なきゃいけません。これは、念力を込めようが何しようが、主に対して、主よありがとうございますということを、心の中に念ずることが最優先でございます。これができませんと、その後の反省には、ほぼ入れないと考えていいと思われます。
何故かというと、まず簡単なことですけれども、自分が今苦しかろうが、今病気の渦中にあろうが何をしようが、生きているとい
う事実があるということです。生きているということは、生かし主がおられるということですね。今自分は勝手に生きている訳ではなくて、生かされているという生かし主がおられる以上、その生かし主に対して、如何なる状況下でも、主よありがとうございますと感謝をする。息をしていて、心臓も動いているわけですから、それに対する感謝というのがあると言っているわけです。
ここに、信仰の原点に戻す必要があると。まず、自分は勝手に生きているのか生かされているのか、という根本的な部分に戻って、いや自分は生かされていると思うのであるならば、生かし主であるに対して、主よありがとうございますと念ずる必要があります。ここに、信仰の原点に戻るということがあろうかと思います。
そして、次に入っていくわけですけれども、この波長というものを、一つの音楽として考えてみればいいわけですね。非常にざわついた騒がしい音楽、うるさい音楽から、非常に安らかな音楽に切り替えたいんです。ということになると、音楽には三つの要素があると言われています。
まず、一番最初の要素は、リズムです。リズムがあるんです。非常に騒がしいアップテンポのガンガンガンガン言っているようなリズムから、緩やかなリズムに変える必要があります。まずリズムを変換する必要がある。これは調子のことですね。テンポ、心のテンポを緩やかに戻す。それに必要なのは何かというと、呼吸法であると言われています。
私たちは色心不二と言われていて、肉体と心は一体ですから、心が制御出来ない場合、肉体から入ると。それは呼吸法だと。深い丹田(たんでん)呼吸、これを繰り返すことによって、意識をちょうどお臍(へそ)の下、指3本ぐらいのところ、下っ腹の方に意識を持っていく。感情をずっとこっちに落としていくんですね。
このやり方は、ご存知の通り、まず息を吐きますね。お腹をへこめて息を吐いて、ストンとこう落としていくという呼吸法を、しばらくお続けになる必要があると思います。そうすると、意識が落ちます。苦しんでいる時は、呼吸は非常に浅くなっております。特に怒りが起きている時には、ほとんど息をしておりません。非常に浅い呼吸になって、100メートル走で全力疾走しているような状況になっていますから、身体中が酸欠状態になっている。酸欠状態になっている部分を、ゆっくりと戻す。これでリズムが戻ります。
そして、その次はメロディーというものがあるんですね。これを旋律と言いますけれども、この旋律を醸し出さなきゃいけないわけです。どのようにするか。これが、仏説 正心法語でございます。この仏説 正心法語、主への祈り、これは偉大なる主
から頂いた、天上界の旋律そのものです。天上界の理念そのものが込められています。天上界の姿、その波長、旋律がそのまま入っておりますから、これをゆっくりと唱えていくというのがメロディーです。
そして、その次に必要なのは何かというと、ハーモニーですね。ハーモニーというのは調和のことです。では、調和とは何か。これは天上界そのもので、天上界のあの美しい風景。それは、非常に明るい世界であった。明るい世界というものを、まず想起する必要がありますね。
そして、その世界は愛に満たされていた世界であり、勇気ある世界であった。そして、慈悲に満ちた世界であり、非常に積極的な世界であり、また、正義というものがそこにあった。そして、真理に満ちている。こういったものを心の中に描く。天上界はそうであったという事実を心の中に描いてほしいわけです。これで、三つ揃いました。
それは、緩やかなリズムであり、素晴らしい音色・メロディーであり、また調和のとれたハーモニーです。こういった世界があるんだということです。その世界をもって、今自分の心の中に、そういう世界があるんだということをまず見出だして、その世界から今のこの苦しみを見たら、どうなるんだということになりますね。これを正見とも言うわけですけれども、心安らいだ状態をまず作ろうとすることなんだと。
これは正見と言いましたが、その前の結論で言う正定というか、少し定に入る、瞑想状態に入るということですね。そして、その立場からこの地上世界を見てみようではないかと。これが、守護霊様の目とも言われるものですね。というのは、守護霊様の目
で見ようと思うと、守護霊様のおられる世界というものを思い出すことができないと、守護霊様の目で見ることはできません。ですから、そこをまず思い出して、自分の今の状況を見ようと。
それで、一番最初が貪です。何故そのような貪りが起きているのか、何故怒りが起きているのか、それがどのように見えるのか、或いは、貪・瞋・癡、愚かなことを繰り返している。これが、何故起きているのか。その愚かさの典型は、愚痴とも言われていますね。愚痴ったら、愚痴った結果が起きてきます。苦しい、苦しいと言えば、苦しい結果が起き、不幸になる、不幸になると言えば、その不幸な結果が起きてくる。本人は幸福になりたいと思っているにも関わらず、逆を心の中で念じている。或いは、健康になりたいと思いながら、病気の不幸を心の中で何度も何度も繰り返す。
愚かですね。自分が思っている方向と逆の方向に向いていくわけですから。だから、これを愚かと言っていると。これを、貪・瞋・癡の癡と言っていると。
その姿を少しずつ見ていく必要があります。そうすると、非常に醒めた心で見ていくことになりますので、おかしいなと思うわけですね。どの辺がおかしいかというと、そのようにメチャクチャやっている自分がいるということが、まず見えてくる。
しかし、メチャクチャやっている自分も、ちゃんと仏の光によって生かされているんです。メチャクチャやって感謝もしない人間が、ありがたいことに、主の光によって生かされ満たされているということを見ていくと、仏の光というのは、誠に誠に無償の光である。無所得で、何の見返りもなく私たちを生かして下さっているということが見えてくると、自動的に申し訳なくなってくるものなんですよ。本当に申し訳ないと。申し訳なくなってきたら、自然にお詫びができますね。申し訳ありませんでしたと。全く気づきませんでした、本当に申し訳ないという気持ちが出てきます。
そして、それでも光をくださっていることが分かってくると、感謝ができますね。
生かされているんだと。最初の原点に戻りますと、自分は生かされているのか、勝手に生きているのかということですが、霊的な天国的な目から見ると、本当にありがたいことであるという感謝ができるようになります。ここで、主に対するお詫びと感謝ができます。これを、反省と感謝ということになります。
そうしますと、それができて来ますと、心が天上界に向いていきますから、そこにが入る。想念帯が明るくなると言われるような状況に戻って、本来の自分に戻るんだと言っているわけですね。これを、貪・瞋・癡の反省、または正思の反省とも言うわけです。
今回の映画の中でも、何度も悪霊に対しても、貪・瞋・癡、心の三毒を正せと、或いは、衆生に対する説法におきましても、貪・瞋・癡のこの三つをチェックせよと何度も教えて頂いておりますけれども、この三つを押さえるだけでも、心が浄化されます。
もう一度言いますけれども、一つの波長の世界におりますから、これを一つの個人個人の音楽だとして、その音楽をどのようにして切り替えていくかという目で、もう一度この三つの要素をポイントにして、今回の映画で言われている貪・瞋・癡というものを深く見つめることができればありがたいと思います。そして、それを多くの方々にお伝えすることによって、この真理の世界に誘って参りたいと思います。ありがとうございました。