「自分の言い分が正しい」という生霊
2012年01月19日
どうも!去年から嫉妬やらなまれいやら呪詛やらとお友達(いやだ・・・)なアマミキョです!
しかし一番厄介なのは「自分の正しさへの盲信」だと知ったのが一番の収穫です!(号泣)
うちの師匠や隊長が普段から言われてる「自分が正しいと信じてる言い分を捨てる事の重要性」が、念をうける立場にたってみて改めてわかりました・・・
これは特定の方を揶揄するものではなく、あくまで「私自身の生霊とばし体験」からも見た「パターン分析」です。
私も師匠を念の刀で何度も斬りつけてた側なので言えるんですが(号泣)、ほとんどの場合、生霊をとばすときは「無自覚」です。
いや、マジでマジで。
ただ私の場合は職場が特殊(笑)だったもので、「自分の目で見る反省や客観視」などという生易しいモノではなく、「師匠からの直接のお叱り」というストレートな潜在意識のえぐり出しが日常だったので、
自分の生霊(生き念)というモノの正体がなんであるかも早めにわかりました。
師匠に生霊をとばしたときの私の感情はずばり「私の言い分が正しい!」という気持ちです。
100%自分が正しいとまで思わなくとも「すくなくともこの部分においては私の言い分のほうが師匠よりも分があるはず!」という思いも、「自分の言い分が正しい」という思いに入ります。
「私の方が師匠より道理がたってる!だから私の方が正しい!師匠に魔が入ってるにちがいない!」
という思いが、まさに生霊となっていたのです。私にその自覚はなくとも。そして、その思いが私の「魔境」だったわけです。(笑)
このときの「自分が正しい!」と信じてるときの自分は、明らかに「法で理論武装」してます。誰からに聞かれたら、本当に1から10まで自分の正当性を並べ立てることができます。
しかし、もっとも根本的な部分で、大きく欠けているものがありました。
それは「基本的な礼儀」の部分でした。
自分が「この人は間違ってる」と思っている相手に「礼」をもって接することができるかどうかが、「自分が魔境にいるかどうかのリトマス試験紙」なんですね。
いや、これ、すごーく大事なんですよ。
たとえば私の言い分が表向き正しかったとしても、私の気持ちがねじ曲がっているときは、師匠に対して明らかに礼儀を軽んじるような言動がでていました。これは自分ではわからなくても周りのスタッフから「あんた、先生に対してその態度なに?」と率直に指摘されることでわかりました。
同じように、私にたいして「アマミキョより自分が正しい!」と信じてる人たちからおかしい念をとばされてるときも、相手の方からいただく言動は明らかに「常識で考えてもおかしい言動」でした。
(私は自分の主観を信じない人間なので、かならず周りのみなさんに意見を求めます。三人以上の意見が共通しているときに「そうなんだな」という判断をくだします)
私本人のときも含め、「自分が正しい、相手が間違っているという魔境」にいるときは、本人は道理が立ってるつもりでいても、「基本的な道徳心が欠けた振る舞い」を、しらずしらずに本人がしてしまっているんですね。なぜなら、その時点で本人が「自分の方が正しい!」と慢心しきってるからです。
これが、一番わかりやすい「魔境チェック」です(笑)
つまり、「相手よりも自分の方が正しい、優れている」と、優位性を主張しようとする心が、その時点で魔境のすぐ近くにあるんですね。
私は人と比べて優位でありたいという願望が非常に強い虚栄心の強い人間なので、本当に気をつけないといけないと思います。
人と比べず、「他人に対して理解をし、自分に対しては反省せよ」という仏言は、霊的には最大の防御なのだと思います。
そういう意味では、私が去年会員さんからの生霊によって苦しんだのも、かつて自分が一方的なゆがんだ「自分の言い分への盲信」から師匠に何度も生霊をとばして苦しめた、その因果応報なのかもしれません。
理不尽な仕打ちを受けたり、自分の気持ちが正しくうけとめてもらえない苦しみにいる方は、その気持ちに「自分の責任を認めたくない被害者意識があるのではないか」、「本当にそれは自分に原因が微塵もないのか」という観点からどうか「正見」の思慧を深めていただき、
私のような愚かな「生霊とばし」という罪を犯さないように、お気をつけていただきたいと思います。
ご本尊に毎日手を合わせて、相手の幸せを願ってるから、自分は生霊とばしてないという保証はどこにもありません。
幹部の方であっても主に生霊をとばすことからもそれは明らかですね。
自分の心を観るという修行と、与える愛に必要な「無我観」の重要性を思います。
ああ、下座の生き方を身につけ、無我なる愛になりたい。 .
しかし一番厄介なのは「自分の正しさへの盲信」だと知ったのが一番の収穫です!(号泣)
うちの師匠や隊長が普段から言われてる「自分が正しいと信じてる言い分を捨てる事の重要性」が、念をうける立場にたってみて改めてわかりました・・・
これは特定の方を揶揄するものではなく、あくまで「私自身の生霊とばし体験」からも見た「パターン分析」です。
私も師匠を念の刀で何度も斬りつけてた側なので言えるんですが(号泣)、ほとんどの場合、生霊をとばすときは「無自覚」です。
いや、マジでマジで。
ただ私の場合は職場が特殊(笑)だったもので、「自分の目で見る反省や客観視」などという生易しいモノではなく、「師匠からの直接のお叱り」というストレートな潜在意識のえぐり出しが日常だったので、
自分の生霊(生き念)というモノの正体がなんであるかも早めにわかりました。
師匠に生霊をとばしたときの私の感情はずばり「私の言い分が正しい!」という気持ちです。
100%自分が正しいとまで思わなくとも「すくなくともこの部分においては私の言い分のほうが師匠よりも分があるはず!」という思いも、「自分の言い分が正しい」という思いに入ります。
「私の方が師匠より道理がたってる!だから私の方が正しい!師匠に魔が入ってるにちがいない!」
という思いが、まさに生霊となっていたのです。私にその自覚はなくとも。そして、その思いが私の「魔境」だったわけです。(笑)
このときの「自分が正しい!」と信じてるときの自分は、明らかに「法で理論武装」してます。誰からに聞かれたら、本当に1から10まで自分の正当性を並べ立てることができます。
しかし、もっとも根本的な部分で、大きく欠けているものがありました。
それは「基本的な礼儀」の部分でした。
自分が「この人は間違ってる」と思っている相手に「礼」をもって接することができるかどうかが、「自分が魔境にいるかどうかのリトマス試験紙」なんですね。
いや、これ、すごーく大事なんですよ。
たとえば私の言い分が表向き正しかったとしても、私の気持ちがねじ曲がっているときは、師匠に対して明らかに礼儀を軽んじるような言動がでていました。これは自分ではわからなくても周りのスタッフから「あんた、先生に対してその態度なに?」と率直に指摘されることでわかりました。
同じように、私にたいして「アマミキョより自分が正しい!」と信じてる人たちからおかしい念をとばされてるときも、相手の方からいただく言動は明らかに「常識で考えてもおかしい言動」でした。
(私は自分の主観を信じない人間なので、かならず周りのみなさんに意見を求めます。三人以上の意見が共通しているときに「そうなんだな」という判断をくだします)
私本人のときも含め、「自分が正しい、相手が間違っているという魔境」にいるときは、本人は道理が立ってるつもりでいても、「基本的な道徳心が欠けた振る舞い」を、しらずしらずに本人がしてしまっているんですね。なぜなら、その時点で本人が「自分の方が正しい!」と慢心しきってるからです。
これが、一番わかりやすい「魔境チェック」です(笑)
つまり、「相手よりも自分の方が正しい、優れている」と、優位性を主張しようとする心が、その時点で魔境のすぐ近くにあるんですね。
私は人と比べて優位でありたいという願望が非常に強い虚栄心の強い人間なので、本当に気をつけないといけないと思います。
人と比べず、「他人に対して理解をし、自分に対しては反省せよ」という仏言は、霊的には最大の防御なのだと思います。
そういう意味では、私が去年会員さんからの生霊によって苦しんだのも、かつて自分が一方的なゆがんだ「自分の言い分への盲信」から師匠に何度も生霊をとばして苦しめた、その因果応報なのかもしれません。
理不尽な仕打ちを受けたり、自分の気持ちが正しくうけとめてもらえない苦しみにいる方は、その気持ちに「自分の責任を認めたくない被害者意識があるのではないか」、「本当にそれは自分に原因が微塵もないのか」という観点からどうか「正見」の思慧を深めていただき、
私のような愚かな「生霊とばし」という罪を犯さないように、お気をつけていただきたいと思います。
ご本尊に毎日手を合わせて、相手の幸せを願ってるから、自分は生霊とばしてないという保証はどこにもありません。
幹部の方であっても主に生霊をとばすことからもそれは明らかですね。
自分の心を観るという修行と、与える愛に必要な「無我観」の重要性を思います。
ああ、下座の生き方を身につけ、無我なる愛になりたい。 .
「魔」を見抜くための正見のすすめ・アマミちゃん編
2012年01月19日
うちの宗派の人系のお話。
これは師匠からきいた方法なので、あくまで参考程度にしてくださいね。
「魔」を見抜くには、一にもニにも「正見」だそうです。
正見は、いわずと知れた八正道ですね。
もっとざっくり言えば「自分の過去の因果(カルマや傾向性)」を見抜くことです。
つまり、「自分のなかにある『魔とつながる種』を見抜けた分だけ、周りの魔も見抜ける」という仕組みらしい。
仏説・八正道によると、このように書かれています。
「己れ 自身の 幸・不幸
過去に 必ず 原因あり
振り返り見て 反省の
心 起こすは 正見なり」
ここがものすごーく重要だと思うんですね。
で、ここを安易にすっとばして「明日から私変わる!」とか言ってる会員さんが結構いるんじゃないかな?と思うんです。
主は八正道において、最初に「因果を見抜け」と言われてるんですね。
「縁起の理法を信じては 己れの道を正すなり
原因・必ず結果あり因縁生起が縁起なり」
そして
「己れ自身の幸・不幸 過去に必ず原因あり」
と書かれています。
自分の不遇や不幸や理不尽な苦しみは、必ず、過去に自分がまいた種であり、水をやったもの(関わったもの)ということです。
ここで自身の傾向性を法に照らし合わせて、納得できるまで自分に問い続けること、
自分のなかの三毒(貪り・怒り・自己保存欲)が自分の過去の苦しみの原因(カルマ)の元であったと発見すること
これが、正見ではないでしょうか。
たとえば私の場合は、すぎた「自責の念」「怒り」「慢心」というこだわりが原因をつくりました。これもすべて根っこは「怒り」という三毒の一つに集約されます。
それを、自分で見抜くこと、自分の傾向性とは何か、その傾向性がつくったカルマが自分の人生にどのように影響したのか、それを知ることが、「因果を見抜くこと」だと思うのです。
これは霊能者センセイに頼らずとも、ある程度自己分析や法友との語らいで、周りの人に忌憚なく自分の傾向性を指摘してもらえたら見えてきます。
主への信仰による奇跡という大いなる他力が及ぶ時代、それは同時に「自分の及ぼす影響力(作用・反作用)も大きくなる」ということでもあります。
決して宗教理論で自己正当化することなく(これも自己保存欲なので三毒)、つねに「他人に対して理解をし、自分に対しては反省」をこころがけたいですね。
これは師匠からきいた方法なので、あくまで参考程度にしてくださいね。
「魔」を見抜くには、一にもニにも「正見」だそうです。
正見は、いわずと知れた八正道ですね。
もっとざっくり言えば「自分の過去の因果(カルマや傾向性)」を見抜くことです。
つまり、「自分のなかにある『魔とつながる種』を見抜けた分だけ、周りの魔も見抜ける」という仕組みらしい。
仏説・八正道によると、このように書かれています。
「己れ 自身の 幸・不幸
過去に 必ず 原因あり
振り返り見て 反省の
心 起こすは 正見なり」
ここがものすごーく重要だと思うんですね。
で、ここを安易にすっとばして「明日から私変わる!」とか言ってる会員さんが結構いるんじゃないかな?と思うんです。
主は八正道において、最初に「因果を見抜け」と言われてるんですね。
「縁起の理法を信じては 己れの道を正すなり
原因・必ず結果あり因縁生起が縁起なり」
そして
「己れ自身の幸・不幸 過去に必ず原因あり」
と書かれています。
自分の不遇や不幸や理不尽な苦しみは、必ず、過去に自分がまいた種であり、水をやったもの(関わったもの)ということです。
ここで自身の傾向性を法に照らし合わせて、納得できるまで自分に問い続けること、
自分のなかの三毒(貪り・怒り・自己保存欲)が自分の過去の苦しみの原因(カルマ)の元であったと発見すること
これが、正見ではないでしょうか。
たとえば私の場合は、すぎた「自責の念」「怒り」「慢心」というこだわりが原因をつくりました。これもすべて根っこは「怒り」という三毒の一つに集約されます。
それを、自分で見抜くこと、自分の傾向性とは何か、その傾向性がつくったカルマが自分の人生にどのように影響したのか、それを知ることが、「因果を見抜くこと」だと思うのです。
これは霊能者センセイに頼らずとも、ある程度自己分析や法友との語らいで、周りの人に忌憚なく自分の傾向性を指摘してもらえたら見えてきます。
主への信仰による奇跡という大いなる他力が及ぶ時代、それは同時に「自分の及ぼす影響力(作用・反作用)も大きくなる」ということでもあります。
決して宗教理論で自己正当化することなく(これも自己保存欲なので三毒)、つねに「他人に対して理解をし、自分に対しては反省」をこころがけたいですね。
ぷちお祓い②鈴と柏手と音霊(言霊もこれにはいるわね)
2012年01月19日
はい、あまりにネタがないのではじめたぷちお祓い第二弾。
こんなん常識だろ!というそこのあなたには伏して謝ります。
これは例のあの御方から聞きました(笑)
お祓いと「邪気除け」を兼ねているのが「鈴」。これは神社のあの参拝するところにデカい鈴を鳴らすことからも明らかですね。
聞くところによると、「何かを打ち合わせる音」は、「祓い」の力が強いらしい。特に金属を打ち合わせる音が効果が高いのだとか。
昔から柏手とか太鼓とか鈴とか錫杖とかが儀式で使われてきたのは、「邪気祓い」の意味があったんですね。へぇー。
なので、個人としてもオススメなのは「鈴」だそうです。特に銀でできてるモノはいいそうで。
音というものもそれ自体に力が宿っているので、十分にその作用によってぷちお祓いができるんですね。
ポジティブな言葉や昔の祝詞、経文、真言などが意味がわからなくても効果があるのは、一つには、「音霊」つまりその言葉自体が持つ音の波長にパワーがあるかららしい。
お祓いという意味でも、「ポジティブな言葉を使う・もしくはポジティブな自己宣言」を繰り返し使うことがとても大事だそうです。
ポジティブな言葉はたとえば「周りのみなさまに感謝します、お父さん、お母さんに感謝します」とか「私はとっても魅力的でステキな人間です」とか「私はかならず変われます!人間として成長します!」とかですね。たとえばよ。自分が使ってて「これがいい!」と思う言葉でいいと思いますが。
こういうポジティブな言葉にパワーがあるので、できたら多用されることをお勧めします。
言葉も音も色も念も共鳴振動なので、似た性質のものを引き寄せます。また、反発するものを遠ざけるという作用もあります。
あなたは、普段自分が発する共鳴振動によって、どのような性質のものを引き寄せておられますか?
どうせ引き寄せるなら、いい運気やのびのびした成長のパワーや、周りもまきこんで豊かにしていくエネルギーをうみだし、また引き寄せたいですね!
こんなん常識だろ!というそこのあなたには伏して謝ります。
これは例のあの御方から聞きました(笑)
お祓いと「邪気除け」を兼ねているのが「鈴」。これは神社のあの参拝するところにデカい鈴を鳴らすことからも明らかですね。
聞くところによると、「何かを打ち合わせる音」は、「祓い」の力が強いらしい。特に金属を打ち合わせる音が効果が高いのだとか。
昔から柏手とか太鼓とか鈴とか錫杖とかが儀式で使われてきたのは、「邪気祓い」の意味があったんですね。へぇー。
なので、個人としてもオススメなのは「鈴」だそうです。特に銀でできてるモノはいいそうで。
音というものもそれ自体に力が宿っているので、十分にその作用によってぷちお祓いができるんですね。
ポジティブな言葉や昔の祝詞、経文、真言などが意味がわからなくても効果があるのは、一つには、「音霊」つまりその言葉自体が持つ音の波長にパワーがあるかららしい。
お祓いという意味でも、「ポジティブな言葉を使う・もしくはポジティブな自己宣言」を繰り返し使うことがとても大事だそうです。
ポジティブな言葉はたとえば「周りのみなさまに感謝します、お父さん、お母さんに感謝します」とか「私はとっても魅力的でステキな人間です」とか「私はかならず変われます!人間として成長します!」とかですね。たとえばよ。自分が使ってて「これがいい!」と思う言葉でいいと思いますが。
こういうポジティブな言葉にパワーがあるので、できたら多用されることをお勧めします。
言葉も音も色も念も共鳴振動なので、似た性質のものを引き寄せます。また、反発するものを遠ざけるという作用もあります。
あなたは、普段自分が発する共鳴振動によって、どのような性質のものを引き寄せておられますか?
どうせ引き寄せるなら、いい運気やのびのびした成長のパワーや、周りもまきこんで豊かにしていくエネルギーをうみだし、また引き寄せたいですね!