自分を知ることの方法
2010年08月29日
自分を知るということをいろいろしてきて、一番効率のいい方法がある。
それは「瞑想」。
宗派の瞑想研修をうけていると非常に自分がクリアに見える。
しかしそこで私はやっと気付いたのだ。
「瞑想」は魂のチューニング。ある特定のイメージに自分を合わせていくということ。
ということは、自分をよりよく見ることのできる瞑想とは、つまり
「神仏や守護霊の目にチューニングを合わせて自分を見る」
ということなのだ。
たしかしに瞑想をしているとき、自分という存在はとても未熟でありながら、とても輝いてみえる。
自分の魅力がたくさんあり、しかしその魅力に気付かず、遠回りをしては転んでべそをかいている。
すぐれているところはやがて慢心というつまづきの石となり、そのことも知っていてあえて本人の学びのためにじっと見ている。
劣等感は優れたるものの証でもありながら、容易に足をとられる。
自分が人生において大きく関わる苦しみは最も魂が欲する目覚めへの最大の転回の入り口であるのにそれに気付けず、最大の機会を泥沼に捨てるおろかさ。
しかしそれもすべて含めても、かぎりなくいとおしい自分という存在。
見方をどこに合わせるかによって、自分像とはここまで違うとは!
それを経ていくと、自分の心に干渉してくる他人の感情、オバケの感情、また守護霊や先祖霊からのインスピレーションがわかるようになる。
自分の心とは、自分以外のたくさんの存在からも絶えず影響をうけているのだとわかる。
しかし悲しいかな、それも日常に埋没していくうちに忘れてしまう。やはり自分の主観で自他を見てしまう自分がいる。
繰り返し繰り返し、自分の主観を捨てること。目上の視点からわたしという人間の人生・人格を点検すること。
それがわたしには必要なのだと、いまさらながらに気づいた。
私にはまだハッキリと自分の闇から逃げたい心がある。師匠や隊長が私の自己正当化の歪みに言及するとき、私は猛烈な眠気に襲われ、話をまともに聞くこともできない。
いつまで傷ついたままでいれば気が済むのだ。私に語りかてみる。
鏡の向こうの私は「前にすすむ勇気がほしい」と言う。
やるべきことをただやることだよ。
もっともっと、のびのび生きなさいよ。
もっと自分を愛しなさいよ。
ああ、自分を知ることは実践することだとわかっていても、むずかしい。
だから自分を知ることは面白い。
それは「瞑想」。
宗派の瞑想研修をうけていると非常に自分がクリアに見える。
しかしそこで私はやっと気付いたのだ。
「瞑想」は魂のチューニング。ある特定のイメージに自分を合わせていくということ。
ということは、自分をよりよく見ることのできる瞑想とは、つまり
「神仏や守護霊の目にチューニングを合わせて自分を見る」
ということなのだ。
たしかしに瞑想をしているとき、自分という存在はとても未熟でありながら、とても輝いてみえる。
自分の魅力がたくさんあり、しかしその魅力に気付かず、遠回りをしては転んでべそをかいている。
すぐれているところはやがて慢心というつまづきの石となり、そのことも知っていてあえて本人の学びのためにじっと見ている。
劣等感は優れたるものの証でもありながら、容易に足をとられる。
自分が人生において大きく関わる苦しみは最も魂が欲する目覚めへの最大の転回の入り口であるのにそれに気付けず、最大の機会を泥沼に捨てるおろかさ。
しかしそれもすべて含めても、かぎりなくいとおしい自分という存在。
見方をどこに合わせるかによって、自分像とはここまで違うとは!
それを経ていくと、自分の心に干渉してくる他人の感情、オバケの感情、また守護霊や先祖霊からのインスピレーションがわかるようになる。
自分の心とは、自分以外のたくさんの存在からも絶えず影響をうけているのだとわかる。
しかし悲しいかな、それも日常に埋没していくうちに忘れてしまう。やはり自分の主観で自他を見てしまう自分がいる。
繰り返し繰り返し、自分の主観を捨てること。目上の視点からわたしという人間の人生・人格を点検すること。
それがわたしには必要なのだと、いまさらながらに気づいた。
私にはまだハッキリと自分の闇から逃げたい心がある。師匠や隊長が私の自己正当化の歪みに言及するとき、私は猛烈な眠気に襲われ、話をまともに聞くこともできない。
いつまで傷ついたままでいれば気が済むのだ。私に語りかてみる。
鏡の向こうの私は「前にすすむ勇気がほしい」と言う。
やるべきことをただやることだよ。
もっともっと、のびのび生きなさいよ。
もっと自分を愛しなさいよ。
ああ、自分を知ることは実践することだとわかっていても、むずかしい。
だから自分を知ることは面白い。
どれだけ自分を知ってますか?
2010年08月29日
私の人生のテーマの一つに
「自分を知る」
というのがある。
中学生の頃、頭がおかしくなったときに気付いた。
「私も含め、自分を知らずに生きてる人間が多すぎる。自分を知るということは、世界を知ることなんだ」
そうやって自分を知ろうとしたとき、あまりに自分に盲目な事実に戦慄した。
自分というは決して一面的ではない。世界がそうであるように。
長所が欠点に通じ、短所が精進をうながし、自分の知る自己像と他人から見た自己像のひらきはそのまま「自分の先入観の偏り」をしめし、良心が守護霊・先祖霊に通じ、感情が悪霊・動物霊に通じ、たとえ良心であってもその背景に偏りがあれば人生に与える影響ははかりしれない。
そういったところを知るにつれ、到った答えは至極単純だった。
「人間は10代の感性から大して成長しない」(笑)
ヘタすると小学生の頃にできた価値観でそのまま大人の人生を生きてる人もめずらしくない(笑)
もちろん、そのなかに私がいるわけだ。
だからこそ様々な価値観にふれ、外側からの価値観を自分から吸収し、多角的に自分を見つめ、自分の価値観・先入観をその都度点検していくことを、私は「人生のテーマ」とした。
自分という人間をのぞきこむとき、その向こうに世界への眼差しがある。
私はまだ自分と世界の片鱗も知ってはいない。
占いもいろいろ試した。だが自分を知らない者にとってそれは一時の余興でしかない。
過去世のこともいろいろわかってきた。だが、最終的には「過去世のカルマはすべて今世においてあらわれる。今世をより多角的にとらえられたとき、それは過去のカルマの前転も意味している」と知った。
悪霊憑依や病気のメカニズムにおいても、それは「自分の心がつくりだす」ものであり、結局のところ、「自己責任」であり、それをつきつめるなら「自分の心の歪みに盲目的であることの結果」なのだ。
野崎りのという人間にたいしての私の自己イメージは
「意思が弱い、一人では何もできない、声がでかい、体がでかい、ときどき言動が違う人間になる、基本上から目線、笑顔は忘れない、基本わがまま、配慮が足りない、空気読めない、我慢が苦手、よく居眠りする、ささいなことに怒りがわくときがある、抑圧された自己イメージがつよい、性格は父親似、好きな食べ物は肉」
くらいだ。
それにたいして周りからの基本的な野崎りののイメージは
「空気読めない、痩せたいと言いながら一向にダイエットしない、基本上から目線、いつも明るい、ケツがでかい、ゼッタイ霊とか見えてる、物事への分析は並はずれてる、妙な迫力がある、いつもジャージ、かなり目立つ」
くらいだろう。
しかし師匠と隊長はここにもっと踏み込んだ野崎りの像が加わる。
「自分の価値観をもって周りをはかろうとする一面的な未熟さがある、小さい頃の家庭の寂しさ(インナーチャイルド)をのりこえられていない、怒りは父親の思想と憑依霊の影響、強いなまけ心、現実逃避癖がありやるべき事が見えているのにやらない事が多い、やるべき事をやればおのずと道はひらける」
最初、私は師匠と隊長のおっしゃることがほとんどわからなかった。
今でもボンヤリとしかわからない。
それは、私が「知りたくない自分」がまだあるのだろう。
でも、私は私をもっともっと知りたい。私という人間の内面に深く穿ちいりたい。
だから私は自分を繕うことをまずやめた。ありのままの自分でありたい。そして、次の目標が「やるべきことをやれる自分になる」ことだ。
それがまわりを見る目をあたたかな眼差しにかえるための一番の「自己変革」であり、同時に自分をより深く知り、より深く周りを知るための方法の一つだと思っている。
これらのことをまとめたら、
「なんつーか、素直に自分を愛したいですな」
「そしたら素直に周りを好きになれるじゃん」
あ、二行で終わった・・・・(。・ω・)ゞ
「自分を知る」
というのがある。
中学生の頃、頭がおかしくなったときに気付いた。
「私も含め、自分を知らずに生きてる人間が多すぎる。自分を知るということは、世界を知ることなんだ」
そうやって自分を知ろうとしたとき、あまりに自分に盲目な事実に戦慄した。
自分というは決して一面的ではない。世界がそうであるように。
長所が欠点に通じ、短所が精進をうながし、自分の知る自己像と他人から見た自己像のひらきはそのまま「自分の先入観の偏り」をしめし、良心が守護霊・先祖霊に通じ、感情が悪霊・動物霊に通じ、たとえ良心であってもその背景に偏りがあれば人生に与える影響ははかりしれない。
そういったところを知るにつれ、到った答えは至極単純だった。
「人間は10代の感性から大して成長しない」(笑)
ヘタすると小学生の頃にできた価値観でそのまま大人の人生を生きてる人もめずらしくない(笑)
もちろん、そのなかに私がいるわけだ。
だからこそ様々な価値観にふれ、外側からの価値観を自分から吸収し、多角的に自分を見つめ、自分の価値観・先入観をその都度点検していくことを、私は「人生のテーマ」とした。
自分という人間をのぞきこむとき、その向こうに世界への眼差しがある。
私はまだ自分と世界の片鱗も知ってはいない。
占いもいろいろ試した。だが自分を知らない者にとってそれは一時の余興でしかない。
過去世のこともいろいろわかってきた。だが、最終的には「過去世のカルマはすべて今世においてあらわれる。今世をより多角的にとらえられたとき、それは過去のカルマの前転も意味している」と知った。
悪霊憑依や病気のメカニズムにおいても、それは「自分の心がつくりだす」ものであり、結局のところ、「自己責任」であり、それをつきつめるなら「自分の心の歪みに盲目的であることの結果」なのだ。
野崎りのという人間にたいしての私の自己イメージは
「意思が弱い、一人では何もできない、声がでかい、体がでかい、ときどき言動が違う人間になる、基本上から目線、笑顔は忘れない、基本わがまま、配慮が足りない、空気読めない、我慢が苦手、よく居眠りする、ささいなことに怒りがわくときがある、抑圧された自己イメージがつよい、性格は父親似、好きな食べ物は肉」
くらいだ。
それにたいして周りからの基本的な野崎りののイメージは
「空気読めない、痩せたいと言いながら一向にダイエットしない、基本上から目線、いつも明るい、ケツがでかい、ゼッタイ霊とか見えてる、物事への分析は並はずれてる、妙な迫力がある、いつもジャージ、かなり目立つ」
くらいだろう。
しかし師匠と隊長はここにもっと踏み込んだ野崎りの像が加わる。
「自分の価値観をもって周りをはかろうとする一面的な未熟さがある、小さい頃の家庭の寂しさ(インナーチャイルド)をのりこえられていない、怒りは父親の思想と憑依霊の影響、強いなまけ心、現実逃避癖がありやるべき事が見えているのにやらない事が多い、やるべき事をやればおのずと道はひらける」
最初、私は師匠と隊長のおっしゃることがほとんどわからなかった。
今でもボンヤリとしかわからない。
それは、私が「知りたくない自分」がまだあるのだろう。
でも、私は私をもっともっと知りたい。私という人間の内面に深く穿ちいりたい。
だから私は自分を繕うことをまずやめた。ありのままの自分でありたい。そして、次の目標が「やるべきことをやれる自分になる」ことだ。
それがまわりを見る目をあたたかな眼差しにかえるための一番の「自己変革」であり、同時に自分をより深く知り、より深く周りを知るための方法の一つだと思っている。
これらのことをまとめたら、
「なんつーか、素直に自分を愛したいですな」
「そしたら素直に周りを好きになれるじゃん」
あ、二行で終わった・・・・(。・ω・)ゞ