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「自己保身」を暴かれるという経験

2014年05月26日




さて、月読の霊言を拝聴して、改めてマイトレーヤーの霊言を読み返してみました。

そして、第一イザヤ・第二イザヤの霊言を拝聴してみて思うのは、

宗教における「神々の個性やバランスという関係」です。

神々の意図は、つねにいろいろなところから、

その都度足らざるところを補完しようとしたり、

また時代に合わせて救済力を高めるために、

新しい宗教や新しい文明をおこすことが多くあるように感じます。

しかし、それを地上の人間が素直に理解できず、

いつも「守旧派」と「新興勢力」での争いが起きてるように感じました。

そして、そのスキに、弱った方に狂わせる勢力が入り込む。



この場合、邪神のほうを注意するというよりも、

「どこにすり替えがあるか」

を注視したほうが理解が及びやすいと感じます。

そしてそのすり替えとは、邪神のみがするのではなく、

必ず私達にその付け入るスキがあるのであり、

それは「自己保存欲」=「痴」にあるのではないかと思います。

一言でいえば、「自分を守ろうとする」部分にあると思います。






この自己保存欲「痴」について、非常に根深いものがあると、私は感じております。

私自身の経験をお恥ずかしながら語ると、

この「すり替え」、自分では本当にわからないんです。(恥)

私は過去何度も師匠にお叱りをいただきました。

師匠から何時間もかけて徹底的に追い詰められて逃げ道を塞がれ、

そこではじめて

「あれ?そう言われたら、自分のこの考えは整合性がつかないぞ、理屈が通らないぞ」

と気づきました。

そして、さらに問い詰められ、完全に答えに窮してみてはじめて

「ああ、私はここの部分に触れられたくなくて、心のなかで必死にすり替えをしてたんだな」

と分かったものでした。

そんな、幼稚な理論武装で完璧に守りの体制にはいっている姑息な心を、

すべて生皮ひんむかれて直接肉をえぐられるような、

師匠からの徹底的なお叱りで、

逃げ道を完全に塞がれ、すり替えの中の「触れられたくない部分」に師匠が及ぶと、

私は最後には非常に頭痛がしたり、急激に眠気がきたり、

あるときは急に気持ち悪くなってトイレに駆け込んで嘔吐したこともあります。

それくらい、ふれられることへの恐怖と拒否反応がでるのですね。

自分の体験を通して、私が知ったのは、

自分の「自己保身」というものの根深さと、

「愛されることへの激しい渇望の裏返しの、激しい承認欲求」、

「自分の非を認めたくない心の奥にある、自己肥大と劣等感の強さ」

「それがバレたくないがために他人に責任転嫁することができる卑しさ」

「自分の内心の葛藤を誤魔化し麻痺させるための依存心と慢心」

「隠している自分がバレることへの凄まじい恐怖心」

でした。


これを20代のときに師匠に徹底的に見抜かれ何度もボコボコにされた私は、本当に幸せでしたが、

それでもまだまだ私のなかにはたくさんのすり替えがありますので、

本当に煩悩というのは自分で見抜いて取らないと、雑草みたいに生えてくるなーとつくづく思います。

なので私は、それまでは分かりませんでしたが、

師匠からあの何十回ものお叱りをいただいて、自分の自己保身をまざまざと見せつけられたあとからは、

自己保身や自己正当化のために、必死になって相手の悪を捏造したり、責任転嫁したりして、自分の非から注目をそらそうとすり替えをする人の気持ちが、

手にとるように非常によくわかるようになりました。

だって、私がそれを師匠に見抜かれて何度もボッコボコにされていたもん(;ω;)

自己保身モードに入ってる人の特徴が、自分が徹底的に見抜かれることを経験すると、反射的にわかるようになるんですね。

なので、すり替えを必死にしてる人を見ると、まるでかつて自分のように見え、

「ああ、いまこんな気持ちなんだろうなぁ・・・胸苦しいだろうなぁ・・・・キツいよなぁ・・・

わかるわかるー」

と、思わず心のなかで応援したくなる気持ちになったり(笑)






そうしたときに、では、自己保身を捨てるためにはどうしたらいいかというと、

これはあくまで私の体験上の答えですが、

「一度死ぬ覚悟で、自分の非を認め負けを認める」

ことでした。

いや、ホント、ここまでしないと、自分の非を認めるって、できないんです!

「私は悪くない」という言い分の理由をすべて論破されたあと残る方法は、

「相手を徹底的に否定する」か「自分が負けを認めるか」の二択しかない。

でも、「相手を否定する」ことができないのなら、どうするか。

もう、負けを認めるしかないわけで、

そこで私は、何度も嘔吐したり割れるような頭痛に苦しみひどいときは発熱しながら(笑)、

最終的に脂汗を流しながら、膝から震えがくるような恐怖心に拳をにぎりしめながら、

「自分をここまで追い詰めたにくい師匠」を、「それでも信じてゆだねよう」と決めた瞬間に、

『パシッ!!!!』と急に身体が暖かくなって、急に視界が明るくなり、頭が軽くなり、

ものすごく胸のしこりが取れて身体と心が生まれ変わったように楽になるのを何度も感じました。

皮肉なことに、自分を守ろうとしていたときはすごく身体と心がこわばってツライのに、

自分が死ぬつもりで非を認め負けを認めたら、

その瞬間から本当に楽になるんです。

これは、一種の奇跡体験だなぁと、そのたびに何度も(笑)思いました。

何度もその都度認めるまで死ぬほど苦しむんですけどね(笑)






これを経験したときに思うのは、

師匠への感謝です。

あのとき、師匠が徹底的に追い詰めてくださらなかったら、

私は、自分の自己保身を一生気づかずに終わっていたかもしれません。

それくらい私の自己保身は根深いものでした。

しかし、師匠はヘタしたら「一生恨まれるリスク」を負いながら、

私の生霊に斬りつけられながら、

それでも、何時間も私のために時間を割いてくださり、

私の心のすり替えを論破してくださいました。







見抜かれ追い詰められるという経験は、そのときは認め難く、ツライものかもしれません。

でも、それは必ず自分の財産であり、自分の宝になると、私は断言できます。

あのとき私が最後に非を認め負けを認めることができたのは、

師匠が、私にとって尊敬することしかできない、大きな徳の持ち主であられたからでした。

私にとって師匠は永遠の恩人です。








  


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 21:26Comments(2)つぶやき