劣等感からくる虚栄心と自己不信の見抜き方
2014年05月03日
前回の「嫉妬心と劣等感の見抜き方」に引き続いて、
今回は、さらに「嫉妬心の奥底にあるモノ」について自己探求してみたいと思います。
実は意外と多い「自己不信」。
はい、例外なく私自身がそうです(笑)
この劣等感からくる自己不信が、実は嫉妬心の根底にあるということもよくあります。
(自己分析したときに、嫉妬心はすごくあこがれと劣等感がないまぜになった感情だとわかります)
私の場合は、「主人が褒める女性」になぜ嫉妬するかというと、
私自身が、「主人の好みのタイプではない」ということにつねに劣等感を持っているからですね。
自分自身への劣等感と、それによって打ちのめされた心が、
それ以上自分を傷つけたくないがために、対象を他人にすり替えるのですね。
では、劣等感とはなんでしょうか。
それは、「こんな自分になりたい」という願望や「あの人いいなぁ」という他人との比較・あこがれからくる、
そうなれない自分への強い不平不満と、それに伴う卑下の感情と、その逆恨みではないかと感じます。
たとえば、私の場合は、霊能者になりたくてもなれないので(当たり前です。霊感ないもん)、
霊能者さんを見て「いいなー!!!!」と思うし、
その能力でいろんな人を助けるということに憧れているわけですが、
そうなれないことを知っているからこそ、嫉妬と反発の心の炎のケムリで胸がモヤモヤするわけですね。(笑)
この嫉妬心と劣等感は、私自身を周りと比較して、周りから見たときに、すぐに分かる部分があります。
(くれぐれも言いますが、以下は私本人への自己分析の例です。他の人にはあてはまるかわかりません)
①好みという意味ではなく、いつも同じデザインの服ばかりを着ている、もしくは服を選べない
(自己客観視ができない、自己評価が怖い、それらから逃げている)
②リアルな場所で、すぐに「すみません」と言う
(自分は劣っているので周りに迷惑をかけていると思い込んでいる)
③目の焦点がよくずれる・ぼやける
(意図的ではない形でずれる場合は、自分のうしろめたい心や劣等感・恐怖心をごまかそうとしているときに多い)
こういう、強い自分へのネガティブ評価からくる不信感と、それに伴う苦悩は、
強く周りからの評価を求めたいという気持ちにつながります。
これが、いわゆる「虚栄心」というものだと思います。
私が「霊能者」という立場に強くあこがれるのも、この虚栄心が関係していると思われます。
だって、目に見えないものが見えるって、努力の必要ないし、楽だと思いません?
(と外見だけ見たら思える。実際はそんなことはありません。むしろ発狂の恐怖と紙一重の世界です)
この虚栄心は、私の場合はこのようにして出てきます。
①知ったかぶりをする
(自分が調べたわけでもないのに、人から見聞きしただけの情報を、さも自分がはじめから知っていたかのように話す)
②自分に都合よく情報を誇張して受け取る・話す
(たとえば、誰かからのアドバイスを受けてしたことが、周りから評価されたときに、いつのまにか「自分で気づいてやった」ということに自分のなかですり替えたりする)
③すぐに誰かの口調や思想をトレースする
(これは自分では気づかないことも多いですが、周りからはバレバレ。私の場合は師匠や隊長やnatsuさんの口調や思想をよく真似てますね)
これらの虚栄心は、自分の実績以上に自分をよく見て欲しいという「分をすぎた思い」なのですが、
これ自体は、かならずしも悪というわけではなく、方向性によってはすごく自分を伸ばしてくれると思います。
ただし、それには、自分が「自分のなかの虚栄心がどのくらいあるのか、そのバランスはどのくらいか」ということを自覚してうまくセーブできる状態でなければ、危険だと、最近気づきました。(笑)
なので、今こうやって自分を客観視するために、ボソボソと書いておりまして。いやーおはずかしー。
これら虚栄心の根底にある、劣等感と自己不信。
これを克服するには、一つには、先だって述べた「自分を知る」ことと、「縁の大切さ」が大事だと感じます。
しかし、劣等感の克服には、特に、大切なものがあると思います。
それは「自分と神様(もしくは大宇宙)もしくは大きな倫理観との結びつきの強い確信」ですね。
これは、幼少期に両親に対する激しい劣等感・あこがれ・不平不満を持っていた人(私も含め)には特に必要だと思われます。
どうしても、幼少期において価値観の出発点のなかに「自己不信につながる先入観が」そうとう刷り込まれてしまっているため、
受け取り方や感情表現、価値判断のなかで、その先入観に基づいた反応をしてしまいます。
これは「ネガティブな自己イメージ洗脳」といってもいいでしょう。
(対人関係のトラブルに、この幼少期のネガティブな自己イメージ洗脳による神経反射がある人は多いと思います。)
自分を振り返るときに、まずは、自分自身がこの事実を正しく受け止めることが重要だと思います。
「私は私の育った過程において、ネガティブな自己イメージを植え付けてしまった」と自覚すること。
これが、第一歩になると私は自分の経験を通して理解しました。
では、そのネガティブな自己イメージの自己洗脳をとくには、どうしたらいいのか。
欲求不満の解消のために虚栄心を満足させることでも解決にはなりませんし、
ましてや、嫉妬心であこがれの対象を緑色の目でギラギラとにらみつけても、解決にはらないのだと思います。
では、幼少期に自分に植え付けてしまったネガティブな自己イメージの自己洗脳をとくにはどうしたらいいか。
「大きな保護者を自分の内につくりあげること」ではないでしょうか。(私が現在チャレンジ中)
これが、信仰というものが心の拠り所として、倫理観や社会秩序に繋がる大きな理由であると思います。
創造主・根本神と、その下位につらなる神々との絆をとおした、「大いなる親との絆」によって、
ネガティブな自己イメージを、少しずつ融解していくが、自分なりに、近道であると考えます。
親とは、自分の理解者であり、自分の存在を肯定してくれる存在であり、
無条件の愛そのものの存在です。
それを外部に求めるのではなく、自分のなかに、
「魂の親としての神との一体感」を繰り返しイメージしていくなかに、
少しずつ、ネガティブな自己イメージの中和・浄化がはかられていくのではないかと、
私は思います。
守護霊とは、良心によってつながっていると、私は感じます。
その守護霊の上には、さらに指導霊がおられ、
その上に、大いなる神々がおられ、
さらにその遥か上に、すべての神々の父である、創造主・根本の神、もしくは宇宙そのものがおられます。
魂の父や魂の系譜に見守られ、はじめから、私の魂はすべて保護されているという大きな安心感。
そのうえで、根源なる存在のてのひらの上で、育てていただいているというこの世界の真実。
悲しみも苦しみも、すべては根源なる存在が「我が子らの魂の向上のために、さらなる幸福のために」との思いで、存在を許されている。
そう考えたときに、私達の苦しみや悲しみは、すべて、親である根源の存在と共にあると思えたときに、
この世の両親への不平不満も、渇望も、また自分への不平不満も渇望も、
この「劣等感や自己不信をのりこえていくための学び」こそが、
魂の輝きになり、
それが魂の根源の存在がつくりだした宇宙という庭を彩る花畑になるという真実が、
すなわち、自分自身が尊い存在であるという認識と結びつくのではないでしょうか。
劣等感や自己不信を頭から否定し、ないものとしてあつかい、
その苦しみ悲しみをごまかすための虚栄心や嫉妬心に胸を焦がすときもまだまだあります。
それをくりかえしながら、ときどき立ち止まり、自分を深く見つめてみたときに、
「こんな自分でも光となれる」というありがたさに、涙します。
恥をかきながら、自分を見つめて、
劣等感と自己不信を、
一枚いちまい、のりこえていきたいと思います。
私の魂の根源である存在が、私の魂のすべてを保護してくださっていることを、
その都度に、信じていきながら。
今回は、さらに「嫉妬心の奥底にあるモノ」について自己探求してみたいと思います。
実は意外と多い「自己不信」。
はい、例外なく私自身がそうです(笑)
この劣等感からくる自己不信が、実は嫉妬心の根底にあるということもよくあります。
(自己分析したときに、嫉妬心はすごくあこがれと劣等感がないまぜになった感情だとわかります)
私の場合は、「主人が褒める女性」になぜ嫉妬するかというと、
私自身が、「主人の好みのタイプではない」ということにつねに劣等感を持っているからですね。
自分自身への劣等感と、それによって打ちのめされた心が、
それ以上自分を傷つけたくないがために、対象を他人にすり替えるのですね。
では、劣等感とはなんでしょうか。
それは、「こんな自分になりたい」という願望や「あの人いいなぁ」という他人との比較・あこがれからくる、
そうなれない自分への強い不平不満と、それに伴う卑下の感情と、その逆恨みではないかと感じます。
たとえば、私の場合は、霊能者になりたくてもなれないので(当たり前です。霊感ないもん)、
霊能者さんを見て「いいなー!!!!」と思うし、
その能力でいろんな人を助けるということに憧れているわけですが、
そうなれないことを知っているからこそ、嫉妬と反発の心の炎のケムリで胸がモヤモヤするわけですね。(笑)
この嫉妬心と劣等感は、私自身を周りと比較して、周りから見たときに、すぐに分かる部分があります。
(くれぐれも言いますが、以下は私本人への自己分析の例です。他の人にはあてはまるかわかりません)
①好みという意味ではなく、いつも同じデザインの服ばかりを着ている、もしくは服を選べない
(自己客観視ができない、自己評価が怖い、それらから逃げている)
②リアルな場所で、すぐに「すみません」と言う
(自分は劣っているので周りに迷惑をかけていると思い込んでいる)
③目の焦点がよくずれる・ぼやける
(意図的ではない形でずれる場合は、自分のうしろめたい心や劣等感・恐怖心をごまかそうとしているときに多い)
こういう、強い自分へのネガティブ評価からくる不信感と、それに伴う苦悩は、
強く周りからの評価を求めたいという気持ちにつながります。
これが、いわゆる「虚栄心」というものだと思います。
私が「霊能者」という立場に強くあこがれるのも、この虚栄心が関係していると思われます。
だって、目に見えないものが見えるって、努力の必要ないし、楽だと思いません?
(と外見だけ見たら思える。実際はそんなことはありません。むしろ発狂の恐怖と紙一重の世界です)
この虚栄心は、私の場合はこのようにして出てきます。
①知ったかぶりをする
(自分が調べたわけでもないのに、人から見聞きしただけの情報を、さも自分がはじめから知っていたかのように話す)
②自分に都合よく情報を誇張して受け取る・話す
(たとえば、誰かからのアドバイスを受けてしたことが、周りから評価されたときに、いつのまにか「自分で気づいてやった」ということに自分のなかですり替えたりする)
③すぐに誰かの口調や思想をトレースする
(これは自分では気づかないことも多いですが、周りからはバレバレ。私の場合は師匠や隊長やnatsuさんの口調や思想をよく真似てますね)
これらの虚栄心は、自分の実績以上に自分をよく見て欲しいという「分をすぎた思い」なのですが、
これ自体は、かならずしも悪というわけではなく、方向性によってはすごく自分を伸ばしてくれると思います。
ただし、それには、自分が「自分のなかの虚栄心がどのくらいあるのか、そのバランスはどのくらいか」ということを自覚してうまくセーブできる状態でなければ、危険だと、最近気づきました。(笑)
なので、今こうやって自分を客観視するために、ボソボソと書いておりまして。いやーおはずかしー。
これら虚栄心の根底にある、劣等感と自己不信。
これを克服するには、一つには、先だって述べた「自分を知る」ことと、「縁の大切さ」が大事だと感じます。
しかし、劣等感の克服には、特に、大切なものがあると思います。
それは「自分と神様(もしくは大宇宙)もしくは大きな倫理観との結びつきの強い確信」ですね。
これは、幼少期に両親に対する激しい劣等感・あこがれ・不平不満を持っていた人(私も含め)には特に必要だと思われます。
どうしても、幼少期において価値観の出発点のなかに「自己不信につながる先入観が」そうとう刷り込まれてしまっているため、
受け取り方や感情表現、価値判断のなかで、その先入観に基づいた反応をしてしまいます。
これは「ネガティブな自己イメージ洗脳」といってもいいでしょう。
(対人関係のトラブルに、この幼少期のネガティブな自己イメージ洗脳による神経反射がある人は多いと思います。)
自分を振り返るときに、まずは、自分自身がこの事実を正しく受け止めることが重要だと思います。
「私は私の育った過程において、ネガティブな自己イメージを植え付けてしまった」と自覚すること。
これが、第一歩になると私は自分の経験を通して理解しました。
では、そのネガティブな自己イメージの自己洗脳をとくには、どうしたらいいのか。
欲求不満の解消のために虚栄心を満足させることでも解決にはなりませんし、
ましてや、嫉妬心であこがれの対象を緑色の目でギラギラとにらみつけても、解決にはらないのだと思います。
では、幼少期に自分に植え付けてしまったネガティブな自己イメージの自己洗脳をとくにはどうしたらいいか。
「大きな保護者を自分の内につくりあげること」ではないでしょうか。(私が現在チャレンジ中)
これが、信仰というものが心の拠り所として、倫理観や社会秩序に繋がる大きな理由であると思います。
創造主・根本神と、その下位につらなる神々との絆をとおした、「大いなる親との絆」によって、
ネガティブな自己イメージを、少しずつ融解していくが、自分なりに、近道であると考えます。
親とは、自分の理解者であり、自分の存在を肯定してくれる存在であり、
無条件の愛そのものの存在です。
それを外部に求めるのではなく、自分のなかに、
「魂の親としての神との一体感」を繰り返しイメージしていくなかに、
少しずつ、ネガティブな自己イメージの中和・浄化がはかられていくのではないかと、
私は思います。
守護霊とは、良心によってつながっていると、私は感じます。
その守護霊の上には、さらに指導霊がおられ、
その上に、大いなる神々がおられ、
さらにその遥か上に、すべての神々の父である、創造主・根本の神、もしくは宇宙そのものがおられます。
魂の父や魂の系譜に見守られ、はじめから、私の魂はすべて保護されているという大きな安心感。
そのうえで、根源なる存在のてのひらの上で、育てていただいているというこの世界の真実。
悲しみも苦しみも、すべては根源なる存在が「我が子らの魂の向上のために、さらなる幸福のために」との思いで、存在を許されている。
そう考えたときに、私達の苦しみや悲しみは、すべて、親である根源の存在と共にあると思えたときに、
この世の両親への不平不満も、渇望も、また自分への不平不満も渇望も、
この「劣等感や自己不信をのりこえていくための学び」こそが、
魂の輝きになり、
それが魂の根源の存在がつくりだした宇宙という庭を彩る花畑になるという真実が、
すなわち、自分自身が尊い存在であるという認識と結びつくのではないでしょうか。
劣等感や自己不信を頭から否定し、ないものとしてあつかい、
その苦しみ悲しみをごまかすための虚栄心や嫉妬心に胸を焦がすときもまだまだあります。
それをくりかえしながら、ときどき立ち止まり、自分を深く見つめてみたときに、
「こんな自分でも光となれる」というありがたさに、涙します。
恥をかきながら、自分を見つめて、
劣等感と自己不信を、
一枚いちまい、のりこえていきたいと思います。
私の魂の根源である存在が、私の魂のすべてを保護してくださっていることを、
その都度に、信じていきながら。
憲法九条を押し付けた米軍、護憲運動をおこさせた中ソ
2014年05月03日
憲法記念日ですね。
憲法九条をノーベル賞候補にという報道をみて、爆笑したアマミちゃんです。
そもそも日本国憲法がどういう経緯でつくられたか、分かって言ってるんでしょうか?
これ、日本に絨毯爆撃という非戦闘員の大量虐殺を重ね、最後に原爆おとして人体実験までしてくださったアメリカ様が、
負けて土下座した日本に恵んで与えてくださった、れっきとした「植民地憲法」なんですけど。
つまり、ここに書かれてるキレイ事は、
「もう二度とアメリカに歯向かわないと誓いなさいね、これを信じてお前たちは生きていけばいいのですよ」」という、
見た目はとっても美しい奴隷の首輪なんです。
私は、この憲法を見るたびに、吐き気がします。
そして、もう一つおさえていただきたい事実があります。
戦後日本におきた護憲運動。これを主導していた社会党という存在についてです。
この社会党は、ソ連崩壊時に流出した国家機密情報により、ソ連のスパイであったことが発覚しております。
また、中国や北朝鮮とも緊密な関係を持ち、たびたび中国や北朝鮮に招待されていました。
この社会党は、北朝鮮による日本人拉致を、一切認めない団体でした。
この事実が何を意味しているかが、わかりますでしょうか?
ハル・ノートを作らせ、日米を開戦に導き、また蒋介石を脅して日中戦争を主導させたコミンテルンは、本部がソ連にありますね。
このソ連の傀儡である社会党が、「憲法九条を守れ」という運動を重要視していたということ。
この二つの事実から見出される事実とは、
この憲法の意図は、平和ではなく、
「自衛権を奪うことによる国家としての独立権の放棄」であり、
「他国に蹂躙される無防備国家の保証書」
ということです。
第二次大戦において明らかなジェノサイド(大量虐殺)を日本にしかけたアメリカから押し付けられた、
日本人が二度と自衛戦争ができなくなるための植民地憲法。
そして、それを日本国民に守れという運動をおこさせた共産主義国家・ソ連と中国。
この二つを見て、悔し涙が流れないのなら、
私は、その方は「平和」ではなく、「奴隷としての被支配の安寧」を愛する方なのだと思います。
憲法九条にノーベル賞をあげるなら、どうか2発の原爆にもノーベル賞をあげてください。
原爆のおかげで、日本は無条件降伏できたのですから。
日本が無条件降伏したからこそ、日本を焼け野原にしてトドメに原爆をおとしてくれたアメリカ様が、
ボロボロになった日本に、「二度と戦争をしないと誓わせる」尊い平和憲法を恵んでくださったのですから。
つまり、憲法九条にノーベル賞とは、そういうことだと思います。
最後に、私は決して憲法九条の理念が嫌いなわけではありません。
むしろ、憲法九条の理念そのものは、素晴らしい人類の理想だと思います。
ただ、アメリカから与えられた現在の憲法とは、奴隷の首輪であることを私達は知る必要があります。
日本は新しい憲法を自分達の手でつくるべきです。
そのうえで、日本人の総意において、崇高な平和憲法をつくるべきでしょう。
憲法を語るなら、憲法の背景に本来あるべき国としての誇りや独立権もセットで語れる、そんな普通の国にしたいですね。
憲法九条をノーベル賞候補にという報道をみて、爆笑したアマミちゃんです。
そもそも日本国憲法がどういう経緯でつくられたか、分かって言ってるんでしょうか?
これ、日本に絨毯爆撃という非戦闘員の大量虐殺を重ね、最後に原爆おとして人体実験までしてくださったアメリカ様が、
負けて土下座した日本に恵んで与えてくださった、れっきとした「植民地憲法」なんですけど。
つまり、ここに書かれてるキレイ事は、
「もう二度とアメリカに歯向かわないと誓いなさいね、これを信じてお前たちは生きていけばいいのですよ」」という、
見た目はとっても美しい奴隷の首輪なんです。
私は、この憲法を見るたびに、吐き気がします。
そして、もう一つおさえていただきたい事実があります。
戦後日本におきた護憲運動。これを主導していた社会党という存在についてです。
この社会党は、ソ連崩壊時に流出した国家機密情報により、ソ連のスパイであったことが発覚しております。
また、中国や北朝鮮とも緊密な関係を持ち、たびたび中国や北朝鮮に招待されていました。
この社会党は、北朝鮮による日本人拉致を、一切認めない団体でした。
この事実が何を意味しているかが、わかりますでしょうか?
ハル・ノートを作らせ、日米を開戦に導き、また蒋介石を脅して日中戦争を主導させたコミンテルンは、本部がソ連にありますね。
このソ連の傀儡である社会党が、「憲法九条を守れ」という運動を重要視していたということ。
この二つの事実から見出される事実とは、
この憲法の意図は、平和ではなく、
「自衛権を奪うことによる国家としての独立権の放棄」であり、
「他国に蹂躙される無防備国家の保証書」
ということです。
第二次大戦において明らかなジェノサイド(大量虐殺)を日本にしかけたアメリカから押し付けられた、
日本人が二度と自衛戦争ができなくなるための植民地憲法。
そして、それを日本国民に守れという運動をおこさせた共産主義国家・ソ連と中国。
この二つを見て、悔し涙が流れないのなら、
私は、その方は「平和」ではなく、「奴隷としての被支配の安寧」を愛する方なのだと思います。
憲法九条にノーベル賞をあげるなら、どうか2発の原爆にもノーベル賞をあげてください。
原爆のおかげで、日本は無条件降伏できたのですから。
日本が無条件降伏したからこそ、日本を焼け野原にしてトドメに原爆をおとしてくれたアメリカ様が、
ボロボロになった日本に、「二度と戦争をしないと誓わせる」尊い平和憲法を恵んでくださったのですから。
つまり、憲法九条にノーベル賞とは、そういうことだと思います。
最後に、私は決して憲法九条の理念が嫌いなわけではありません。
むしろ、憲法九条の理念そのものは、素晴らしい人類の理想だと思います。
ただ、アメリカから与えられた現在の憲法とは、奴隷の首輪であることを私達は知る必要があります。
日本は新しい憲法を自分達の手でつくるべきです。
そのうえで、日本人の総意において、崇高な平和憲法をつくるべきでしょう。
憲法を語るなら、憲法の背景に本来あるべき国としての誇りや独立権もセットで語れる、そんな普通の国にしたいですね。