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「海国長崎」・「海人長崎」・『邪馬壹国誕生時の五彩圏配置』1

2013年10月27日

http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/31524480.html?type=folderlist

海人国といえば「否」と言う人も多かろう。
しかし、今日からはこの長崎を、私は「海国長崎」・「海人長崎」という視点で見ることにする。



アフリカ地溝帯を出て人類ビッグバンを起こし、悠久の旅の末列島へ到達した祖先を訪ねたい。
世代交代や他集団との軋轢等で、新天地を求めて「路」を造り、「境界や出入り口」を築いた人類。
列島への出入り口の一つとして「長崎」はどうであったかを追ってみたい。



また、「海人」に対する考察を深めたい。
超古代から「海人」は「定住」せずに独自の生活様式を高め、「定住圏」の必要性に貢献したと思われる。
「海人」もまた彼等の必要とする諸資源を「定住圏」に依存したはずである。
「定住圏」に娘の子孫を残すことがあっても、彼の墓場は海中であったろう。
地上で集団化し、連邦化し、統一国家を形成する海人男系はあってもずっと後世のことになる。したがってDNAの残存についてY染色体が現状全体としての比率で、男系に少ないはずである。
しかし、言語や思想面では、逆に「定住圏」に強いインパクトを与え残したと思う。彼等の持つ世界的な情報量や文化的な諸技能は卓越していたことは否定できないと思っている。
海人の道は海である。現在認められている三つの東西シルクロードにさえもその存在は認められていない。
人の集団化は必ずしも血縁にはよらないのであった。
彼らの存在は人口も巨大で役割も想像を超えるものだったと信じている。
・・・・・・・・・・・・・・



『邪馬壹国誕生時の五彩圏配置』
出典:言語復原史学会・加治木義博(歴史言語学者)
    JINMU:ジンム・プロブレム
    KKロングセラーズ<ムック>の本
   【真説】日本誕生:建国前夜の巨大連邦発見:237~239頁
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/55323891.html?vitality
 その一番わかりやすい例を、あなたがよくご存じの『魏書倭人章』の国名でご覧にいれよう。
 その中にある「支惟国」は誰が考えても「キイ国=貴国」である。これは女王国以南の旁国の中に入っていて「遠絶で詳しくわからない」ところにあった。しかし先にみたように佐賀市付近の「キイ郡=基肄郡」はこれとまったく同じ発音をもっている。
 私たちはすでに、ヒミコ政権が倒されて邪馬壹国が生まれた直後に、伊都国の隣りに南から奴国が移動した事実を知っている。
 先に霧島が地元では「キイシマ」と発音されることもお話しした。この三つのキイ国も同じように移動してきたものの、元の地名と後の地名だと考えることができる。そして「黄=基肄」の場合の「白=平戸」も知っている。
 これは長崎県にある。その名からわかることは、「ナガ」は「奴(な)ガ国」の一部だということである。古代には「前」を「サキ」と読むから「奴ガ前=ナガサキ」になる。長崎は「肥前=日の前の国」であり、平戸は「ヒラト=日羅門」で「日の国の入口の港」という意味である。
 この日の国は、旁国ではマレー語で「ハリ(日)国=巴利国」と当て字されていて、同じように移動してきたことが簡単にわかる。
 では対照的な東の大分はどうなるだろう?そこは「豊後大分」である。豊後は「不呼国」であることはわかっているから、これも旁国が同じように移動してきたことがわかる。
 ついでにお話しすると、その大分もオオイタと発音するのは後世のことで、もとはやはり旁国の一つ「烏(ウ)奴国」である。この「烏」の当て字は、奄美大島の「大=沖縄語でウフ」に対する当て字だから大分も「大=ウ」「分=フン」で、やはり「ウフの(ン)国」に対する北九州式当て字なのである。
 それが「オオ」の発音で「青=倭」を意味したのだ。
 これで「黄=基肄」を中心にした東西線は、それ以前のヒミコ政権時代には南の旁国の中にあった五つの国が、邪馬壹国の誕生と同時にまず「奴国」と「不弥国」が九州北部の中央に移動し、それと同時か、あまり時間差のない時期に、他の「支惟国」と「巴利国」と「不呼国」とが、それと平行して南から移動したという事実が、地名ではつきり読みとれたのである。
 以上で「黄=基肄」を中心にした東西線は、ヒミコ戦争の戦後に生まれたことが確認できた。歴史記録と地名とをより精密に比較し分析すれば、どの国は、いつ、どこまで、なぜ、移動したかといったことが、年代別に特定できる、という事実が、よくご理解いただけたと思う。
 こんなに見事に歴史の復元ができるのは、私の復元した邪馬壹国の位置が正確だという証明なのである。他の邪馬台国説では、これは絶対に不可能なのだ。北九州説では二つの奴国の説明もできないし、大和説では途中にある多数の「東西線」全部の説明がつかないだけでなく、こうした旁国の位置関係のような、ありとあらゆる証拠が、どれもこれも食い違う。
 こうしたことのすべてが、五彩圏の移動の状態は、本シリーズの主題である建国の歴史が、私がこれまでお話ししてきたとおりだったと証明する。
 過去の「紀元前後に神武天皇が、奈良に攻めこんで、それ以来奈良にヤマト政権が存在した」という「間違った皇国史観」が何一つ合理性がなく「真実ではない」と、徹底的に雄弁に立証しているからである。
 なぜなら、ご存じのとおり五彩圏が奈良に届いたのは、仁徳天皇より後、倭王・武=允恭・雄略天皇のときだからである。
 それは五王の名乗りも、天皇たちの名乗りも、その他の地名・国名なども、すべてが異口同音に声をそろえて証言しているのだから、その全部をくつがえすだけの証拠と証明がそろわないかぎり、この結論をわずかでも変えることはできない。
 これで五彩圏が、北上し、東進したことが確認できた。その時代もまたはっきりわかった。その主義が誰々であったかもわかった。
 私たち日本人の出発点を、どこにとるかは自由だが、これまでに3千年を超える歴史がわかった。
 なにも紀元ごろなどと遠慮することはないのだ。
・・・・・・・・・
私たち日本人は、古来なぜか「天孫族」だと自称し、『日本書紀』にも天智天皇が大化改新のとき、やはり「天孫」と自称したと記録していますが、天孫とは中国では「織女星」のことだったのです。
 3世紀当時の沖縄地方は、すでに1000年以上も貝貨産業を続けてきたカリエン人の世界に縄文末期に移住してきた弥生人=ヤオ人やマレー人、インドネシア人が混血し、さらに前1世紀に移住してきたソナカ布教団の倭人(ギリシャ系インド人)が、ミャンマーやタイやベトナム、フィリピン、台湾からの技術教師や商人などを大量に連れてきました。
 さらにそこへ中国南部からの商人や漁民や移住者が加わって、あるいは人種的独立集団になり、あるいは混成集団をつくっていたのですから、とても「民族」などと区別できるような人種構成ではなかったのです。ですから強いて「天孫」とは何を指すかと考えると、それはギリシャ系の人々が女系集団の倭人を「アマゾン」と渾名(あだな)したものへの当て字「天孫=アマゾン」だったことになります。 それが先の「有窮国」などの天上の話として古くから中国へ伝わっていたのです。



「「天孫」はアマゾンへの当て字」
出典:言語復原史学会・加治木義博
http://blogs.yahoo.co.jp/matmkanehara/53872759.html








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Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 18:06│Comments(0)奄美おすすめサイト
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