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『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった

2017年10月21日

一部の方から激烈なご好評をいただいたので、こちらにも載せます!(笑)







奄美で大変お世話になってる某女史にお誘いをいただいて、

行ってまいりました、9月22日の奄美博物館!

ここ自体訪れるの数年ぶりじゃ!(笑)

ちなみにイベントってこれね。
【VAF】第40回 日本映像民俗学の会「奄美記念大会」プログラム内容のご案内

http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/ihs/soc/anthropology/keida/2017/08/vaf40.html


本日はその一日目。

越間誠さんによる「奄美の祭り」の映像を見たあと、

いよいよ、奄美博物館の学芸員・高梨さんによる講演。

『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった





まずこの高梨さん、東京生まれの東京育ち。
沖縄出身の考古学者・外間守善さんの元で、沖縄考古学を徹底的にしてた方だそう。
でも、沖縄で考古学をしていて、疑問点にぶつかったのだとか。
「沖縄の考古学界から見たら、奄美遺跡の説明がつかない」
高梨さんいわく、沖縄考古学は首里中心史観が根深く、奄美はもれなく「周辺」扱いだそう。
でも、沖縄考古学界では説明つかないことが、奄美の遺跡からはゴロゴロでてくる。
これが、高梨さんが奄美考古学界に本格的にうつるきっかけになったのだとか。

『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった







・20代は久米島、沖縄本島を中心に沖縄考古学の勉強
・沖縄県の考古資料の理解を深めるために、20代後半から奄美考古学の勉強も
・想像していた以上に「沖縄側に似ていない」資料が多いことに驚き、
32歳で奄美に転住
・それまで勉強していた沖縄の歴史・文化の知識では説明できない奄美の資料にたびたび遭遇した
・昭和62年に鈴木靖民氏が問題提起した「南西諸島における文献史学と考古学の古代社会像の相違」が出発点
・その矛盾を解明する鍵が奄美にあるのではないか
・奄美の歴史の実像は沖縄の歴史では解明できないのではないか
・そうした問題意識で取り組んできた25年間

『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった




まず、知っておくべきは、

沖縄考古学界では、
『沖縄の文化は本土の影響を受けず、独自に発展してきた』
とされている

これが、ヤマトとは違うウチナー歴史像とされてる根拠なんだそうです。

『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった
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『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった

ところが、この「沖縄考古学界」の「常識」が、今、奄美遺跡によって崩されようとしているわけ。

ざっくり書くと、
「沖縄のグスク時代は奄美の影響によりはじまったのではないか」
としか思えない遺跡が、喜界島から近年出土したんですね。

この話になるまで、まぁ、ゆっくりお付き合いください。







まず、太宰府の遺跡から「奄美島」と書かれた木簡が発見されている。
この木簡の発見により、文献史学では8世紀前半頃の奄美には、太宰府に入貢できるだけの身分階層の分化が進んだ社会組織が存在していたのではないかと考えられている
沖縄考古学上では奄美はまだ貝塚時代(漁労採集経済段階にある停滞期社会)とされている時代。(もちろん沖縄も。考古学上、沖縄が農耕期に入るのは12世紀)
考古学と文献史学において奄美の時代認識に相違が生じているわけです。

『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった





驚くべきことに、まだ奄美の考古学的区分は不明な部分が多いそうです。
『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった




さらに驚くべきことに、全国の考古学研究者の間では、奄美遺跡はかなり注目の的らしい。
高梨さんいわく「北海道の考古学者でも奄美のフワガネク遺跡の名前は知っています」
ここ10年で奄美遺跡で南西諸島の考古学史を塗り替える発見が相次いでいるからなのだとか。

まず、小湊フワガネク遺跡。
この発見により、「日本本土で平安時代に珍重されていた夜光貝の酒器は、南西諸島で加工された可能性が高いのではないか」とされたのだとか。
(清少納言とかが「枕草子」で憧れの対象と書いてた夜光貝の器とかね!)

また、この時代(6~7世紀)は考古学的には漁労採集段階なはずなのに、「工房」と呼んでよい大規模な夜光貝加工場が奄美から見つかったことも衝撃だったそう。

この発見により、本土で流通していた螺鈿細工の原産地はそれまで中国南部だとされていたのが、このフワガネク遺跡の螺鈿細工原料跡の確認により、「南西諸島ではないか」とされはじめたとのこと。

(正倉院に収蔵されてる螺鈿細工とかの国産品は奄美が関係してるんじゃないの?という話ですね)

さらに驚くべきは、フワガネク遺跡からは鉄器がでてきた。
これは沖縄の遺跡から鉄器がでるよりも500年早いそうです。
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ちなみにフワガネク遺跡から出土したものと同じ加工をされた夜光貝の酒器は、古代朝鮮の大王墓からも出土してるそうです。

この遺跡の発見により、少なくとも6~7世紀の奄美にはただの漁労採集社会ではない交易において組織的な動きができる集団がいたことが考えられます。
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もう一つ重要なのは、徳之島で出土したカムィヤキ遺跡。

南西諸島一帯で流通していた焼き物で、戦前から「どこで作られているのか」と論争の対象だったが、

徳之島・伊仙町から100基以上の窯が出てきたことにより、論争は集結。

このカムィヤキがどんだけすごいかは↓でどうぞ。
『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった


つまり、のちの琉球国の統治領域に重なる南西諸島一帯の商品流通ルートを、最初に開拓したのは沖縄ではなく徳之島だったということです。





さらに驚くべきは、このカムィヤキ陶器、
朝鮮半島で当時流通してた高麗陶器の技術とまったく同じなのだそう!!!
(カムィヤキ陶器に精通した高梨先生が、まったく見分けがつかなかったそうです。それほど酷似してた)

『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった





ここから考えられるのは、
「朝鮮半島から陶工たちをカムィヤキ窯に呼び寄せ、
徳之島の土を使ってカムィヤキ陶器を焼かせた」

可能性が極めて高いということ!

これだけの流通経済を考えられる人間が、徳之島にいたということです。
『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった






そこでこうなるわけですね。
『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった




そうよね。

奄美大島・小湊にあるフワガネク遺跡。
(夜光貝細工の工房跡)

徳之島・伊仙町のカムィヤキ遺跡。
(南西諸島初の一大流通圏を拓いた高品質土器)

これだけの経済流通が、なぜ奄美・徳之島で可能だったのか?

という話になります。

そこでキー・ポイントとなるのが、古代日本の公式文献に何度も名前が出てくる「キカイガシマ」と、奄美の喜界島の関係です。
『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった

『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった

10世紀末の海賊来襲事件では、別文献に「奄美人が来襲した」と書かれてるそうです。

その海賊の追討命令を、太宰府が出した「キカイガシマ」が、もしも喜界島なら、

太宰府の行政機関が喜界島にあったということになります。


『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった


そう、この喜界島からでてきた「城久遺跡群」こそ、南西諸島史における世紀の発見だったんです!





詳しくはこちらをご覧下さい。
前例がないものばっかりの遺跡だったのだとか。
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「城久遺跡群」の特徴
奄美群島・沖縄諸島では類例がない
古代~中世段階の搬入遺物の大量出土
①国産容器類(土師器・須恵器)の大量出土
②滑石製石鍋の大量出土
③高級船載容器類の大量出土
高級船載容器類である初期貿易陶磁器(越州窯系青磁)が喜界島から集中出土
城久遺跡群の11世紀後半~12世紀前半の初期高麗青磁・高麗無釉陶器の出土。
琉球弧への高麗青磁の流入時期の通説・14世紀を著しく遡る。
太宰府や博多と関係があるのでは。






まず、日本本土でもこれだけの遺物が出るのは、国府や古代の役所くらいだそうです。

もちろん、同年代の沖縄にこれだけの遺跡群はありません。

さらに驚くべきは、「地元奄美の土器が全然出ていない」ということ。
すべて、本土から持ち込まれた高品質の土器・陶器ばかりだったんですね。

(余談ですが、日本本土に朝鮮陶磁器が持ち込まれるよりはるか以前から奄美には朝鮮陶磁器が流通してました)

もっと驚くべきは、この城久遺跡群から出てきたのは、「本土の人間の特徴をもった骨が多い」ということです。


ここに注目!!!
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そう、カムィヤキ遺跡の年代とピークが一致するんです!


衝撃的な内容はそれだけではありませんでした。

なんとこの城久遺跡群は、沖縄の「グスク時代」のオリジナルである可能性すら出てきたのです。
(てゆーか、沖縄のグスク時代が、喜界島文化圏を憧れて真似た可能性が高いと言った方がわかりやすい)

↓根拠はこちらをどうぞ。(私の書き込みは無視してくださいw)
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【城久遺跡群に注目する理由】
《沖縄考古学におけるいわゆる「グスク時代」の開始時に認められる様相》
①鉢形土器+壷型土器・椀型土器へ器種構成が変化する
②滑石製石鍋(鉢)・白磁(椀)・カムィヤキ(壺)の外来容器3点セットが微量出土する
③鉢形土器⇒滑石製石鍋の模倣品
壷型土器⇒カムィヤキの模倣品
椀型土器⇒白磁(椀)の模倣品
《城久遺跡群における出土物の様相》
●沖縄で微量出土する外来容器3点セットが大量出土
●土師器・須恵器も大量出土
●奄美の在来土器である兼久式土器がほとんど出土しない
●出土物が非在地的様相を示す
(沖縄における)「グスク時代」の開始時の本質的様相が城久遺跡群に認められる
城久遺跡群が「グスク時代」の引き金となる


(ざっくり言うと、沖縄グスク時代の幕開けとなる、当時沖縄では超貴重だったのでわずかしか本物は出回らず、そのかわり模倣品が大量に出回ってたくらいの超高級ブランド3点セットの本物が、
城久遺跡群から大量出土したというわけです)




つまり、これらの重要遺跡により、

6世紀頃、すでに日本本土・朝鮮に夜光貝を輸出していた可能性が高い小湊フワガネク遺跡の夜光貝工房跡(考古学上では漁労採集時代とされてるwww)沖縄の遺跡から鉄器が発見されるよりも年代より500年早く鉄器が出てきている点も注目。

11世紀頃、当時の本土における国府機能に等しい高度かつ豊かな本土文化が平安時代の喜界島に出来ていた喜界島城久遺跡群
(カムィヤキ遺跡もこの時代に関連している。カムィヤキ遺跡は南西諸島における最初の一大流通ネットワークを築いた形であり、のちの琉球国文化圏に通じる流通領域。これが沖縄からではなく、徳之島から出たという部分が重要)

喜界島城久遺跡群の文化を模倣してんじゃね?な可能性が非常に高い沖縄のグスク文化がその後幕開け(グスク文化から琉球王朝へ)

本土からの政治経済活動の流入で大きく発展した喜界島文化を模倣したということは、沖縄考古学界における「沖縄独自発展説」に大きな疑問符

となるわけ。


その他にも、日宋貿易の拠点としての喜界島の役割や、

鎌倉幕府時代まで、日本の国境は奄美だったことなど、
(日本最古の古地図には奄美までが載ってる)

実に興味深い資料が目白押しでした!

でももう説明がめんどいので、資料をどうぞ。(笑)

『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった
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雨見島(奄美)までが鎌倉幕府のなかの私領だと書かれてます。




『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった
『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった
中世列島南縁の動態
●境界領域を舞台とした薩南諸島海域における南方物産交易
●薩南諸島の活火山を対象とした火薬原料としての硫黄交易
●南方物産交易、硫黄交易へ展開していく越境的交易の外的要因から誕生した(命名された)琉球国




これはたぶん沖縄考古学会へのダメだし?
『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった
●「沖縄県」で自己完結した県内資料と「中国」側資料を中心に沖縄本島中心の絶対的歴史像を構成する
●古代史・中世史の国家南縁に関わる文献史学側の研究成果を吸収・消化していない

●鹿児島県の薩南諸島の資料、九州西海岸や「韓国」側資料まで目を配り、琉球弧の相対的歴史観を構成する
●古代国家・中世国家と南西諸島の関係について
その統治政策と南方物産交易の視点から
文献史学側の研究成果を吸収・消化していく





『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった




はい、最後のここに注目!!!
『浮かび上がりはじめたニライ・カナイの原風景』の衝撃度 琉球発展のモデルは奄美にあった

高梨さんの結論:
「沖縄のニライカナイって、奄美をモデルにしたんじゃありませんか?」

キタ――(゚∀゚)――!!

沖縄における久高島(首里から見て東)
奄美における喜界島(奄美大島から見て東)

この辺は、これから少しずつ出てくるものかと思います。

元々、沖縄考古学界に長くいた人だからこそ言えるこのセリフ!

惚れたね!!!!!(笑)

高梨さん、このたびはすごいお話まことにありがとうございましたー!!!!!!

つД`)・゚・。・゚゚・*:.。..。.:*・゚














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Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 22:25│Comments(0)奄美
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