奄美の誇りとは②奄美の姉妹神信仰と霊性尊重の文化(再掲載)
2013年06月07日
(再掲載)
幼いころから、奄美という島を考えるとき、私はいつも
「奄美人としての心のよりどころをどこにおくべきか」
ということで悩み続けてきました。
鹿児島であって鹿児島ではない奄美。
薩摩に支配され、搾取され、歴史を焼かれ、差別されてきた。
琉球であって琉球ではない奄美。
琉球王朝に侵攻され、戦後も沖縄から差別されてきた。
どちらの影響もうけながら、どちらでもない奄美。
このような「寄る辺の無い喪失感」を奄美にたいしてつねに抱え、奄美の誇りとは何か、誇りになりうる奄美像は何に依拠すれば完成できるかを、考え続けてきました。
その迷いと葛藤のなかで出会ったのが、新元博文さんの「奄美独立革命論」でした。中学二年生のときでした。
新元さんは、そのなかで「奄美は古来より女性の霊性が尊重された島だった」と書かれていました。
これを読んだときの衝撃は、今も忘れられません。
何度も何度もなぞり、泣きながら読み返しました。
「奄美独立革命論」は、私が中学卒業前に司書の先生にお取り寄せをお願いしたものが、今でも金久中学校の図書館にあるかもしれません。
金久中の生徒さんたち、是非読んでね!(笑) できたら一緒に取り寄せてもらった中村安太郎「祖国への道」もね!(笑)
新元さんの「奄美独立書革命論」によって、
奄美の誇りとは薩摩に依拠するものでもなく、琉球に依拠するものでもなく、奄美古来の思想「姉妹神信仰と霊性尊重の文化」そのものだと知ったとき、そのときが、
私のなかで、本当に郷土に自信と誇りと敬愛を持てた瞬間でもありました。
奄美の最高神はアマミコという女神でした。
沖縄の方では、女神の名はアマミキョとなっています。不思議なことに、沖縄の女神も名前はアマミなのです。
つい近年まで、集落の祭りごとはすべて「ノロ」という女性神官が司っていて、「クチの衆」という男性補佐役は、ノロよりも強い呪力を持ちながら、決してノロよりも上座に座ることは許されず、ノロをカバーする立場でした。
(琉球神道とも言われるノロ祭祀は、奄美発祥との説あり)
古来、奄美での一般的な家族の呼び方は「アンマとジュウ(母と父)」「トゥジとウトゥ(妻と夫)」というように、女性を先に呼び、
「姉妹(ウナリ)神」という言葉もあるように、「女性は男性を守る霊力を持っている」と、ごく当り前に信じられていました。
奄美民謡である島歌は、裏声を多用し、女性が歌いやすい音階に男性が合わせるという、めずらしい形の民謡です。
このように、奄美は本土よりも沖縄よりも、女性の神秘性・霊性を大切にしてきたのだと知り、その精神文化そのものが、奄美の誇りではないかと思うにいたりました。
奄美の誇りはたくさんあります。
でも、そこに私は、まだ加えられていない「奄美の精神文化として特化されているウナリ神信仰・女性の霊性尊重の文化」を加えたいのです。
ウナリ神は兄弟(男性)を護る女性の霊力であり、家族を護る女性の秩序と調和の力の象徴でもあります。
奄美大島は、女神の島、女性の霊性の島。
その魅力と不思議な力を、ぜひ、日本へ、そして世界へ伝えていただきたいと思うのです。
それには、まず奄美のみなさんが、「奄美は女神の島であり、女性の不思議な力が認められてきた島なのだ」と自信をもっていただきたいのです。
奄美の女神のやさしさは、きっと、奄美のみなさんとって、また奄美にふれるすべての人々にとって、今までかんじたことのない、神秘的な魅力にみちているものと思います。
奄美の新しき誇りは、奄美の「女神信仰とウナリ神思想」にあるのではないかと、私は思います。
ウナリ神は秩序や調和をもたらし、男性や家庭を護る存在です。
奄美そのものがウナリ神であり、女神アマミコがウナリ神なら、
奄美がその霊力によって護る存在とはなんでしょうか。
私は、それが「スメラミコト」であり日本であると信じてやみません。
幼いころから、奄美という島を考えるとき、私はいつも
「奄美人としての心のよりどころをどこにおくべきか」
ということで悩み続けてきました。
鹿児島であって鹿児島ではない奄美。
薩摩に支配され、搾取され、歴史を焼かれ、差別されてきた。
琉球であって琉球ではない奄美。
琉球王朝に侵攻され、戦後も沖縄から差別されてきた。
どちらの影響もうけながら、どちらでもない奄美。
このような「寄る辺の無い喪失感」を奄美にたいしてつねに抱え、奄美の誇りとは何か、誇りになりうる奄美像は何に依拠すれば完成できるかを、考え続けてきました。
その迷いと葛藤のなかで出会ったのが、新元博文さんの「奄美独立革命論」でした。中学二年生のときでした。
新元さんは、そのなかで「奄美は古来より女性の霊性が尊重された島だった」と書かれていました。
これを読んだときの衝撃は、今も忘れられません。
何度も何度もなぞり、泣きながら読み返しました。
「奄美独立革命論」は、私が中学卒業前に司書の先生にお取り寄せをお願いしたものが、今でも金久中学校の図書館にあるかもしれません。
金久中の生徒さんたち、是非読んでね!(笑) できたら一緒に取り寄せてもらった中村安太郎「祖国への道」もね!(笑)
新元さんの「奄美独立書革命論」によって、
奄美の誇りとは薩摩に依拠するものでもなく、琉球に依拠するものでもなく、奄美古来の思想「姉妹神信仰と霊性尊重の文化」そのものだと知ったとき、そのときが、
私のなかで、本当に郷土に自信と誇りと敬愛を持てた瞬間でもありました。
奄美の最高神はアマミコという女神でした。
沖縄の方では、女神の名はアマミキョとなっています。不思議なことに、沖縄の女神も名前はアマミなのです。
つい近年まで、集落の祭りごとはすべて「ノロ」という女性神官が司っていて、「クチの衆」という男性補佐役は、ノロよりも強い呪力を持ちながら、決してノロよりも上座に座ることは許されず、ノロをカバーする立場でした。
(琉球神道とも言われるノロ祭祀は、奄美発祥との説あり)
古来、奄美での一般的な家族の呼び方は「アンマとジュウ(母と父)」「トゥジとウトゥ(妻と夫)」というように、女性を先に呼び、
「姉妹(ウナリ)神」という言葉もあるように、「女性は男性を守る霊力を持っている」と、ごく当り前に信じられていました。
奄美民謡である島歌は、裏声を多用し、女性が歌いやすい音階に男性が合わせるという、めずらしい形の民謡です。
このように、奄美は本土よりも沖縄よりも、女性の神秘性・霊性を大切にしてきたのだと知り、その精神文化そのものが、奄美の誇りではないかと思うにいたりました。
奄美の誇りはたくさんあります。
でも、そこに私は、まだ加えられていない「奄美の精神文化として特化されているウナリ神信仰・女性の霊性尊重の文化」を加えたいのです。
ウナリ神は兄弟(男性)を護る女性の霊力であり、家族を護る女性の秩序と調和の力の象徴でもあります。
奄美大島は、女神の島、女性の霊性の島。
その魅力と不思議な力を、ぜひ、日本へ、そして世界へ伝えていただきたいと思うのです。
それには、まず奄美のみなさんが、「奄美は女神の島であり、女性の不思議な力が認められてきた島なのだ」と自信をもっていただきたいのです。
奄美の女神のやさしさは、きっと、奄美のみなさんとって、また奄美にふれるすべての人々にとって、今までかんじたことのない、神秘的な魅力にみちているものと思います。
奄美の新しき誇りは、奄美の「女神信仰とウナリ神思想」にあるのではないかと、私は思います。
ウナリ神は秩序や調和をもたらし、男性や家庭を護る存在です。
奄美そのものがウナリ神であり、女神アマミコがウナリ神なら、
奄美がその霊力によって護る存在とはなんでしょうか。
私は、それが「スメラミコト」であり日本であると信じてやみません。
ある国防関係者様からのタレコミ情報 台湾侵攻可能性について
何故薩摩は奄美の歴史を奪ったのか・奄美側からの一考
ケンムンの正体と奄美の悲しみ ~本土の霊能者A先生から~
古仁屋の飲み屋Wで若い自衛隊さんにからんだのは誰だ!
昔の自分の記事を読んで面白がってる変態
現代の霊障 ~墓移動がもたらした霊障とその背景について
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Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 03:00│Comments(1)
│奄美
この記事へのコメント
昨日の安房神社参拝に対しての寄稿文です。
忌部族と安房神社
昨日、気になる事があり千葉県南房総館山にある安房一ノ宮の安房神社に参拝させていただきました。
この安房神社の創設は古く、由来は神話の世界の天岩戸伝承までさかのぼります。
天照大神が天岩戸におこもりされた際、世界が闇に沈んでしまい、そこで思兼神を中心に八百万の神々が天安河原に集まり協議をされました。
そして、協議が終わった後に天照大神がこもる天岩戸前で神々が儀式を行います。
天宇受賣(アメノウズメ)が踊りを捧げたのは有名なお話です。
そして、祭事を行い儀式を担当されましたのが、天太玉命と天児屋根命です。
天児屋根命の系譜は、天皇家を支える中臣家・藤原家のルーツになりました。
もう一人の天太玉命が表題の忌部氏のルーツになります。
二人は天岩戸の前で八尺瓊勾玉や八咫鏡などを下げた 天の香山の五百箇真賢木(いおつまさかき)を捧げ持ちあげ、天岩戸から顔を覗かせた天照大神の前に鏡をさしだしこう言います。
「ここにあなたより尊い神様の姿が映っています」と。
実際に八咫鏡に映し出されていたのは、天照大神の姿なのですが、八咫鏡には天照大神の神性が映し出されていたのでしょう。
その後に、天手力男が岩戸の封印を完全に開けてしまい。世界に光が戻ったというのが、日本神話の中の一番大事なところで語られています。
ここでもう1つ大事なところとしては、歴代天皇の正統性を示す三種の神器の内の八尺瓊勾玉と八咫鏡の二つが出てきます。もう1つは須佐之男伝承の天叢雲剣(草薙剣)です。
神話の世界でも時代は下り、天孫降臨の際に天照大神は、その正統性の証として瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に三種の神器をさずけます。
そして、天照は瓊瓊杵尊に配下をつけます。その配下には、天太玉命、天児屋がおり、天宇受賣がおります。
実際には天太玉命や天児屋根の子孫の氏族として、瓊瓊杵尊を支えたのでしょうとは推測されるのです。
天太玉系の氏族は忌部族と呼ばれ、やがて斎部とその名を変えます。
忌部の忌はイミ嫌われるのイミを表し、凶事を表しました。陰陽師のような仕事にはなると思いますが、一種の凶事を祓う結界師のような仕事を天皇家の中で担っていたのでしょう。
この天太玉の子孫である、天富命は神武東征の代に忌部族を引き連れて、四国徳島に開拓に入ります。
阿波忌部族の開拓地は、現吉野川市の川島町や鴨島町が中心であったとも言われます。
阿波川島町では、忌部氏が造ったと言われる大日寺の跡が見つかった事が最近話題になりました。
忌部氏の仕事は穢れを祓う仕事です。
きっと阿波忌部氏は古来から、川島町や鴨島町で穢れ祓いの神事を行い、最終的には、大日寺を造り、神仏習合の神事をされたのでしょうと、推察されます。
忌部氏は、麻や穀物を栽培する技術に優れ、徳島には麻植という地名があり、大麻比古神社という場所があります。
大麻比古神社は阿波一ノ宮で鳴門市にあり、四国八十八ヶ所の一番札所と二番札所の近くにあるそうです。
そして、阿波川島町にある川島神社には天日鷲命が主宰神として祭られます。
忌部氏のルーツにあたる方で、世の中に吉兆が現れる時に現れる神の鳥がひとつの由来です。
忌部氏はその後氏族が別れ、奈良・讃岐・出雲・紀伊へ入植したと伝えられます。
そして吉野川を本拠地にした阿波忌部族の一部が、天富命に率いられたどり着いた場所が千葉県南房総館山の安房神社のある場所です。
正式には布良という場所です。最初布良の地に、忌部族のルーツの天太玉命と天富命が祭られ、場所を移し、現在の安房神社に祭られています。
安房神社は安房一ノ宮にあたります。
徳島の阿波と、千葉の安房は同じアワの発音なのですが、古代の重要な穀物の粟(アワ)からきているのではないかとも言われます。
忌部族は神事に使う麻の栽培に優れ、安房の地に上陸した忌部氏は、千葉県を北上します。
たわわに実る麻の事を総(ふさ)と呼ぶようです。千葉県は麻がたわわに実る良き大地であったので、そこから、千葉県の古い呼び名の上総・下総という名が出ています。千葉県北部の下総には、忌部(インベ)からなまった地名で印旛(インバ)という地名もあるのです。
ここで、高千穂と徳島と千葉と繋がりました。
古来から大和朝廷も千葉を重要視していた場所のようです。
千葉県各地にはヤマトタケル伝承が残り、源頼朝が再興をかけた地も南房総でした。そして、日蓮聖人が生まれた場所も千葉なのです。
昨日参拝した安房神社から北西に向かうと、日蓮聖人の修行場の清澄山があり、徳川四天王の一人本田忠勝の築いた大多喜城があり、上総一ノ宮玉前神社があり、長生村の九十九里一松海岸まで連なります。
神話の世界よりの話ではありますが、どこか神々の見えざる計画が働いているように思えるのです。
安房神社参拝を遠し、神話の世界に思いをはせてみました。
忌部族と安房神社
昨日、気になる事があり千葉県南房総館山にある安房一ノ宮の安房神社に参拝させていただきました。
この安房神社の創設は古く、由来は神話の世界の天岩戸伝承までさかのぼります。
天照大神が天岩戸におこもりされた際、世界が闇に沈んでしまい、そこで思兼神を中心に八百万の神々が天安河原に集まり協議をされました。
そして、協議が終わった後に天照大神がこもる天岩戸前で神々が儀式を行います。
天宇受賣(アメノウズメ)が踊りを捧げたのは有名なお話です。
そして、祭事を行い儀式を担当されましたのが、天太玉命と天児屋根命です。
天児屋根命の系譜は、天皇家を支える中臣家・藤原家のルーツになりました。
もう一人の天太玉命が表題の忌部氏のルーツになります。
二人は天岩戸の前で八尺瓊勾玉や八咫鏡などを下げた 天の香山の五百箇真賢木(いおつまさかき)を捧げ持ちあげ、天岩戸から顔を覗かせた天照大神の前に鏡をさしだしこう言います。
「ここにあなたより尊い神様の姿が映っています」と。
実際に八咫鏡に映し出されていたのは、天照大神の姿なのですが、八咫鏡には天照大神の神性が映し出されていたのでしょう。
その後に、天手力男が岩戸の封印を完全に開けてしまい。世界に光が戻ったというのが、日本神話の中の一番大事なところで語られています。
ここでもう1つ大事なところとしては、歴代天皇の正統性を示す三種の神器の内の八尺瓊勾玉と八咫鏡の二つが出てきます。もう1つは須佐之男伝承の天叢雲剣(草薙剣)です。
神話の世界でも時代は下り、天孫降臨の際に天照大神は、その正統性の証として瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に三種の神器をさずけます。
そして、天照は瓊瓊杵尊に配下をつけます。その配下には、天太玉命、天児屋がおり、天宇受賣がおります。
実際には天太玉命や天児屋根の子孫の氏族として、瓊瓊杵尊を支えたのでしょうとは推測されるのです。
天太玉系の氏族は忌部族と呼ばれ、やがて斎部とその名を変えます。
忌部の忌はイミ嫌われるのイミを表し、凶事を表しました。陰陽師のような仕事にはなると思いますが、一種の凶事を祓う結界師のような仕事を天皇家の中で担っていたのでしょう。
この天太玉の子孫である、天富命は神武東征の代に忌部族を引き連れて、四国徳島に開拓に入ります。
阿波忌部族の開拓地は、現吉野川市の川島町や鴨島町が中心であったとも言われます。
阿波川島町では、忌部氏が造ったと言われる大日寺の跡が見つかった事が最近話題になりました。
忌部氏の仕事は穢れを祓う仕事です。
きっと阿波忌部氏は古来から、川島町や鴨島町で穢れ祓いの神事を行い、最終的には、大日寺を造り、神仏習合の神事をされたのでしょうと、推察されます。
忌部氏は、麻や穀物を栽培する技術に優れ、徳島には麻植という地名があり、大麻比古神社という場所があります。
大麻比古神社は阿波一ノ宮で鳴門市にあり、四国八十八ヶ所の一番札所と二番札所の近くにあるそうです。
そして、阿波川島町にある川島神社には天日鷲命が主宰神として祭られます。
忌部氏のルーツにあたる方で、世の中に吉兆が現れる時に現れる神の鳥がひとつの由来です。
忌部氏はその後氏族が別れ、奈良・讃岐・出雲・紀伊へ入植したと伝えられます。
そして吉野川を本拠地にした阿波忌部族の一部が、天富命に率いられたどり着いた場所が千葉県南房総館山の安房神社のある場所です。
正式には布良という場所です。最初布良の地に、忌部族のルーツの天太玉命と天富命が祭られ、場所を移し、現在の安房神社に祭られています。
安房神社は安房一ノ宮にあたります。
徳島の阿波と、千葉の安房は同じアワの発音なのですが、古代の重要な穀物の粟(アワ)からきているのではないかとも言われます。
忌部族は神事に使う麻の栽培に優れ、安房の地に上陸した忌部氏は、千葉県を北上します。
たわわに実る麻の事を総(ふさ)と呼ぶようです。千葉県は麻がたわわに実る良き大地であったので、そこから、千葉県の古い呼び名の上総・下総という名が出ています。千葉県北部の下総には、忌部(インベ)からなまった地名で印旛(インバ)という地名もあるのです。
ここで、高千穂と徳島と千葉と繋がりました。
古来から大和朝廷も千葉を重要視していた場所のようです。
千葉県各地にはヤマトタケル伝承が残り、源頼朝が再興をかけた地も南房総でした。そして、日蓮聖人が生まれた場所も千葉なのです。
昨日参拝した安房神社から北西に向かうと、日蓮聖人の修行場の清澄山があり、徳川四天王の一人本田忠勝の築いた大多喜城があり、上総一ノ宮玉前神社があり、長生村の九十九里一松海岸まで連なります。
神話の世界よりの話ではありますが、どこか神々の見えざる計画が働いているように思えるのです。
安房神社参拝を遠し、神話の世界に思いをはせてみました。
Posted by 千葉 at 2013年06月13日 14:47
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