自分を贔屓目に見ているという我見
2013年04月26日
私はこれまで人間関係でトラブルになった多くの人に怒りの思いを向けてきた。
そのほとんどは、私なりの理由を述べれば、私自身からふっかけたという事はなかったつもりだ。
ほとんどは、相手様からふっかけられた人間関係のトラブルであったりした。(と、私は思っている)
でも、客観的に見たときに、私に完全に非がないのかと言われたら、
そんなことはなかった。
たとえば、私は人に対しての気遣いが極度に苦手だ。
いまこのタイミングでこのような事を言えば相手様が喜ぶ
(逆に言わないと相手が自分をないがしろにされたと思って傷つく)
ということが分からないし、
分かっていても、気恥ずかしくてどうしても言えないことも多い。
それが、相手様にとっては、
「ここまでしてあげたのに、この人はこんなに冷たい人間だったのか」
と思われてしまうこともあったのかもしれない。
これは私にとってはまったく悪気のないことかもしれない。
でも、相手様にとっては、とてもショックで、それによって傷付けられたという相手様の言い分が発生してもなんらおかしくはないだろう。
また、私は自分が目に余ると判断したことは、相手様のためと思って、ストレートに言うときがある。
その時の私に悪意などまったくない。
しかし、それを言われた相手様の気持ちはどうだろうか?
強い口調で言われたという行為そのもので、深く傷つき、失望する人もいるかもしれないという想像力、人の痛みを考える想像力が、私には著しく欠如している。
私がそれをされたとても平気だから、相手様も平気だとはかぎらない。
それを慮ることができない私は、相手様への理解力がないことと同じなのだ。
ここで、私はたくさんの人を傷つけてきたのかもしれない。
これらの事実を、私個人は軽く考えている。
でも、相手様から見たらどうだろうか?
このようなことはたくさんあると思う。
私は自分から誰かを傷つけたつもりはなかったとしても、
『結果的に、誰かを傷つけた』事実はたくさんあるのだ。
そう見たときに、人間関係のトラブルの原因は、やはり私にも確実にある。
いや、私にある。
その結果、相手様がその心の傷からどのような言動にでたのかは、あくまで結果であり、
社会人であるなら、その「因果の種を自分がまいた」という事実から逃げてはいけないと思う。
それでも、私はまだ、自分がまいた原因というものを、あまりに軽く考えている。
私に期待をかけていた人が、私を大事に思ってくれた人が、私に注目してくれていた人が、
私の軽い言動によって、また私の気遣いのない言葉や態度によって、
どれだけ傷ついたのか。
この原因と責任を、私は自分にだけ贔屓目に見えているのだ。
ある人間関係のトラブルにおいて、自分を贔屓目に見ているということは、
私は自分をまったく客観視できていないし、それは「正見ができていない」「反省ができていない」
という事実とイコールでもある。
私にその気はなかったかもしれない。
しかし、私がその原因をつくったということは事実だ。
私はそのことをどうとらえるのだろうか。
あいかわらず「原因に関わったのは自分だけれども、それでも、相手様からこうむった痛手はあまりにも大きすぎるから、相手様の非が大きい」と、自分のことを棚にあげて相手様を責めるのだろうか。
私はいつになれば、「他人との競争」から抜け出すことができるのか。
この日記は、私自身の恥ずべき告白だ。
自分が原因となった人間関係のトラブルで、結果的に私自身も深く傷つき、
相手様を心の中で責めたことも多い。
しかし、どんな理由があっても、
やはり、自分の正しさを主張するために、相手様を責めるという心の状態は、
ひどく胸が重い。
「相手にこんなことをされた、だから悪いのは相手だ」
と自分なりの言い分があったとしても、
誰かを責める感情は、たまらなく、胸が重い。
相手を嘲笑するときは、気持ちがふわりとなるから、胸が軽くなったと勘違いすることもある。
しかし、正気に戻ったら、そのふわりとした感覚は、
「心がまるで麻薬に侵されたように、正常な理性や道徳心が極端に鈍麻した状態」
なのだ。
ある匿名の方から、コメントで「あなたは本当に嘲笑が好きですね」と書かれたとき、
私は自分がつねに嘲笑していることを知り、愕然とした。
それはなにげない意見かもしれない。
でも、言われて気づいた。
私は確実に嘲笑していた。
だからこそ、いま自分の言い分を掲げて相手様を嘲笑する人の文章にふれると、
ご本人はまだそのご自分の状態が客観的には見えていないのかもしれないが、
その気持ちが私には痛いほどにわかる。
嘲笑は、本当は自嘲なのだ。
私は、いつも、自分ではどうにもならない心の葛藤を抱えた自分を自嘲していた。
自分ではどうしようもない悲しみや怒りを嘲笑に変えて、必死で虚勢を張っていた。
今も、その姿勢に大差はないかもしれない。
背伸びしている自分のつま先から力をぬき、
賢者の言葉に少しだけ耳をかたむける。
自分の言い分という刀を手放して、
自分の思いをふりおろすことを諦めることを、
一歩ずつ学ぶところから、はじめている。
反省を邪魔するプライドは、とても大きな姿で私の目の前に横たわる。
「私は悪くない!」という自分の声がつねに耳元にこだまする。