ぽえむん「さきぶれのみち」
2015年09月10日
さきぶれ
あまんじ
くものまにまに
うけてながれむ
こころのこえ
ききてうごけり
よのけがれ
みにうけて
にじむいたみは
てんかいの
おやがみさまの
なみだみち
さきぶれを
いわいておこす
ときのこえ
むくいもとめず
たたかわば
やがてきたれる
あけぐもの
さきにたたえる
おおおやの
こうみょうこそが
むくいなれ
うつくしき
ねいろでみたせ
あめつちを
さきぶれのみち
いろどりわするな
ぽえむん「まひこの話」
2015年09月10日
まひこの本当の名前は知らない
名前は母と父と兄弟と同胞とムラの外で使う名前がそれぞれ違う
母は「小さい子」と呼び、
父は「三番目の息子」と呼び、
兄弟は「すばしこい小人」と呼び、
ムラの同胞は「ヤマワキの三番目の子」と呼び、
ムラの外での呼び名は「ワキヤ」
だった。
しかし私の友人や親しい仲間は、私を
「まひこ」
と呼んだ。
本来はヒコは日子であり、王族しか使ってはならないが、
私は冗談でまひこと呼ばれた。
ある日、私はムラから選りすぐられた同胞の仲間たちと共に、
ある戦いに召集された。
私達の使命は、国の王族のなかで最も美しいといわれる、
姫君の護衛だった。
姫君はこの国のシンボルでもあり、
敵国はしつこく姫君を狙ってきているという。
姫君を直視することは許されなかったが、
姫君の眩しさは、どのように被り物やシラヌノで覆っても、それを透す薫りを湛えていた。
姫君をお守りすることは、国をお守りすることだった。
私達のムラは特別なムラであり、忠臣の末裔だった。
(アマミキョ注・本当は王族の傍系)
だから私達は、私達の血に誇りを持っていたし、だからこそ、普段は無官でも、勅命があればすぐに戦えるよう、
常に備えていた。
朝廷の争いで汚れぬよう、わたしの一族ははるか昔の王命により、朝廷から離れ、
勅命があるまで民にまぎれている。
だから、私がまひこと呼ばれるのは、
私がムラオサの代位の家の人間のなかで、
もっとも戦いに優れているからだった。
姫君は多くの敵国から狙われていた。
私達のムラに勅命があったのは、姫君を匿うためだった。
姫君は神の気が一際強く、先読みの神の神姫だという。
私達は姫君をなにがあってもお守りすることを天と王と姫君と祖霊に誓った。
同胞のシジが私に笑顔で話しかけてくる。
シジは一族のなかでは、私の従兄弟になり、弓ではムラ一番だ。
シジは、敵を早く射抜きたいと笑った。
一族の護衛は五人から七人。交代でつねに姫君から離れない。
私は姫君を守り通した。
戦ったのか、戦わずにすんだのか、
もう記憶も定かではないけれども、
私の一族は、姫君を守り通した。
姫君を守れた。
それが私の誇り。
姫君はやがてこの国の伝説になった。
王族の名は消えて、
国の名前は消えても、
姫君の名は残った。
喜ばしき、
喜ばしき。
いま、姫君はどうなさっておられるのだろうか。
当時はオオヒメとお呼びしていた姫君。
一緒に守った同胞たちは、
今も私のそばにいる。
ぽえむん「橘」
2015年09月10日
美しさを何よりも愛する魂が
何故に戦わねばならなかったのか
多くの魂を生かしめる道に
荒魂(あらみたま)の意味を知る
やがて過ぎ行くこの時
今を問うな
先を憂うな
過去に患うな
向くは天
一枚ずつ葉を落として数える
天の川の願い
円環の螺旋が奏でる
交わる音(ね)
君に届け
皆天帝の子
悪質な思念干渉への対処法・アマミちゃんの場合(ファンタジー最前線)
2015年09月10日
お盆の前後になんとも面白い現象が起きました。
その面白い現象とは何か?
思念干渉のなかでも特に悪質なもの、ずばり「悪霊現象」です。
わかりやすく言うと、「心のなかに直接語りかけてくるヤツ」でした。
私はこういうのは中学生の時に経験済みで、
さらに強烈なのも数年前に強烈な嫉妬をくらったときに経験済なので、
ある程度の思念干渉には自我との区別をつける訓練をしています。
(ここで訓練してないと飲まれやすい)
いろんなパターンがあるんですが、今回は
“自分の心の声に対して、疑念や正反対の意見をかぶせてくる声”でした。
つまり、自分に複数の思考が存在するように思わせることで、思考をぐちゃぐちゃに混乱させ、最終的に精神異常にさせようとするヤツですね。
これは、経験したことがない人が経験したらさぞかしビビるんでしょうが、
ところがどっこい、私はとっくに経験済み。(笑)
これがきた原因も複数すでにつかんでるんですが、
(一個じゃないです。ヒントは悪質宇宙人ww)
「ああ、こっちにもきたか~」としばらく自分の思考に語りかけてくる悪質思念干渉を楽しんでました。
たとえば、私が
“主エル・カンターレよ”
と思うと
“主って誰のことだ?”
という思念が「自分の思い」のような形で浮かびます。(これを偽装自我とします)
この偽装自我による悪質な思念干渉をさらにリアルに再現すると、こうなります。
“私は主を信じます”
“信じるって何?それはどれほどの価値がある?”
“私は奄美を愛しています”
“愛って簡単に語れるほど軽い言葉なの?どんだけあんたは偉いの?”
“愛は理解であり関心です”
“愛なんて偽善だ。世の中は少しもよくならない。いつの時代も人は苦しみ続ける”
“うるさい、黙れ!”
“うるさい、黙れ!”
“お前は何者だ!”
“お前って誰のこと?”
ね?これが繰り返されるとそのうち頭おかしくなるのがわかるでしょ?(笑)
こうやって、悪質な思考干渉を受けてしまうと、
じょじょに、「もう一つの思考のほうが本当の自分ではないか」という錯覚にとらわれるんですね。
こうやって“死ね”とか“生きてる価値があるのか?”と言われ続けたら、自殺衝動になるんですね~。
でも残念ながら、私はアチラ様のそーゆー手の内はとっくに知ってるので(笑)、
しばらくこの偽装自我とのやりとりを楽しんだあと、
そろそろめんどいので終わりにしようと思いました。
“主エル・カンターレよ”(私)
“主エル・カンターレなんて所詮偶像でしょ?”
“主エル・カンターレなんてどこにもいないと本気で思ってるの?”(私)
“・・・・・主なんて幻想。宗教はすべて人間の産物”
“だとすればあなたも幻想だよね”(私)
“世の中はすべて無意味、無価値、幻想”
“じゃー、私に話しかけても意味ないじゃん(笑)”(私)
“・・・・じゃー、私に話しかけても意味ないじゃん(笑)”
“じゃー、私に話しかけても意味ないじゃん(笑)”(私)
“・・・・私の真似をするな”
“私なんてどこにもいない。あなたはだあれ?”(私)
“・・・・私は・・・・・・”
ここで通信(笑)が途絶えました(笑)
偽装自我による悪質な思念干渉に苦しむ方は、どうぞおためしください(笑)
ここで私がしている方法は、きわめて単純です。
まず、「自分」という人間の性格や考え方をよく自己分析して把握しておくことです。
すると、いくら私自身に似せようとしていても、私自身とは違う『綻び』が見えます。
(たとえば今回の場合は冒頭にある『信じる価値への疑問』ですね。
これは私の意識にはまずない思考だと日頃の自己分析から分かります)
そして、相手のやり方を逆手にとるんですね。
相手は私の意識を乗っ取ろうとするのが目的であり、
そのために私にまず私自身への疑念を植え付けつつ、
最終的に私を言い負かそうとします。
私はその相手の方法をそのまま真似して、逆に相手思念に「あなたのその考えは本当にあなたのものなの?」という疑念を植え付けるわけです。(笑)
そうすると、相手はイヤがって逃げます。
そりゃそうだよな(笑)
そしてここで重要なのは、
「決して一人では戦わない」
ということです。
自分の後ろにはたくさんの守護霊や指導霊が存在し、
たくさんの魂や光の系譜によって護られていると信じて祈ることです。
この光のイメージを持ち続けていると、相手がだんだんイライラしたり口調が弱っていくのがわかります。
イライラしたり口調が弱るのは、ダメージを受けているからです。
そして、もっとも大切なこと。
「闇の自分よりも光の自分をとる」
ことです。
悪意の声に飲まれるときは、自分自身のネガティブな部分が偽装自我によって増幅されている状態です。
ですから、偽装自我による悪質思念干渉は、ある意味ではたしかに自分自身でもあるのですね。
だからこそ、その時に選んでいただきたいのです。
「どの声の自分が、より多くの幸せを生むのか」
と。
偽装自我は、戦おうとすれば、どこまでも雄弁に自分の正当性を語ります。
しかし、静かに心を見つめ、
「良心の自分・善意の自分」を優先しようとする時、
偽装自我は、明らかにトーンダウンします。
そして、その時に主なる神を思っていただきたいのです。
主なる神の願いは、光をひろげることであると。
天とは、つねに慈愛をもってすべての命を見つめ続けている存在なのだと。
良心の自分・善意の自分は、絶対に天とつながっているのだと。
この思いに自分を向けていくことが、
万人が幸福になる最大の道ではないかと、私は信じています。
この気づきが、私が中学生の時に発狂状態から救われた道です。
その面白い現象とは何か?
思念干渉のなかでも特に悪質なもの、ずばり「悪霊現象」です。
わかりやすく言うと、「心のなかに直接語りかけてくるヤツ」でした。
私はこういうのは中学生の時に経験済みで、
さらに強烈なのも数年前に強烈な嫉妬をくらったときに経験済なので、
ある程度の思念干渉には自我との区別をつける訓練をしています。
(ここで訓練してないと飲まれやすい)
いろんなパターンがあるんですが、今回は
“自分の心の声に対して、疑念や正反対の意見をかぶせてくる声”でした。
つまり、自分に複数の思考が存在するように思わせることで、思考をぐちゃぐちゃに混乱させ、最終的に精神異常にさせようとするヤツですね。
これは、経験したことがない人が経験したらさぞかしビビるんでしょうが、
ところがどっこい、私はとっくに経験済み。(笑)
これがきた原因も複数すでにつかんでるんですが、
(一個じゃないです。ヒントは悪質宇宙人ww)
「ああ、こっちにもきたか~」としばらく自分の思考に語りかけてくる悪質思念干渉を楽しんでました。
たとえば、私が
“主エル・カンターレよ”
と思うと
“主って誰のことだ?”
という思念が「自分の思い」のような形で浮かびます。(これを偽装自我とします)
この偽装自我による悪質な思念干渉をさらにリアルに再現すると、こうなります。
“私は主を信じます”
“信じるって何?それはどれほどの価値がある?”
“私は奄美を愛しています”
“愛って簡単に語れるほど軽い言葉なの?どんだけあんたは偉いの?”
“愛は理解であり関心です”
“愛なんて偽善だ。世の中は少しもよくならない。いつの時代も人は苦しみ続ける”
“うるさい、黙れ!”
“うるさい、黙れ!”
“お前は何者だ!”
“お前って誰のこと?”
ね?これが繰り返されるとそのうち頭おかしくなるのがわかるでしょ?(笑)
こうやって、悪質な思考干渉を受けてしまうと、
じょじょに、「もう一つの思考のほうが本当の自分ではないか」という錯覚にとらわれるんですね。
こうやって“死ね”とか“生きてる価値があるのか?”と言われ続けたら、自殺衝動になるんですね~。
でも残念ながら、私はアチラ様のそーゆー手の内はとっくに知ってるので(笑)、
しばらくこの偽装自我とのやりとりを楽しんだあと、
そろそろめんどいので終わりにしようと思いました。
“主エル・カンターレよ”(私)
“主エル・カンターレなんて所詮偶像でしょ?”
“主エル・カンターレなんてどこにもいないと本気で思ってるの?”(私)
“・・・・・主なんて幻想。宗教はすべて人間の産物”
“だとすればあなたも幻想だよね”(私)
“世の中はすべて無意味、無価値、幻想”
“じゃー、私に話しかけても意味ないじゃん(笑)”(私)
“・・・・じゃー、私に話しかけても意味ないじゃん(笑)”
“じゃー、私に話しかけても意味ないじゃん(笑)”(私)
“・・・・私の真似をするな”
“私なんてどこにもいない。あなたはだあれ?”(私)
“・・・・私は・・・・・・”
ここで通信(笑)が途絶えました(笑)
偽装自我による悪質な思念干渉に苦しむ方は、どうぞおためしください(笑)
ここで私がしている方法は、きわめて単純です。
まず、「自分」という人間の性格や考え方をよく自己分析して把握しておくことです。
すると、いくら私自身に似せようとしていても、私自身とは違う『綻び』が見えます。
(たとえば今回の場合は冒頭にある『信じる価値への疑問』ですね。
これは私の意識にはまずない思考だと日頃の自己分析から分かります)
そして、相手のやり方を逆手にとるんですね。
相手は私の意識を乗っ取ろうとするのが目的であり、
そのために私にまず私自身への疑念を植え付けつつ、
最終的に私を言い負かそうとします。
私はその相手の方法をそのまま真似して、逆に相手思念に「あなたのその考えは本当にあなたのものなの?」という疑念を植え付けるわけです。(笑)
そうすると、相手はイヤがって逃げます。
そりゃそうだよな(笑)
そしてここで重要なのは、
「決して一人では戦わない」
ということです。
自分の後ろにはたくさんの守護霊や指導霊が存在し、
たくさんの魂や光の系譜によって護られていると信じて祈ることです。
この光のイメージを持ち続けていると、相手がだんだんイライラしたり口調が弱っていくのがわかります。
イライラしたり口調が弱るのは、ダメージを受けているからです。
そして、もっとも大切なこと。
「闇の自分よりも光の自分をとる」
ことです。
悪意の声に飲まれるときは、自分自身のネガティブな部分が偽装自我によって増幅されている状態です。
ですから、偽装自我による悪質思念干渉は、ある意味ではたしかに自分自身でもあるのですね。
だからこそ、その時に選んでいただきたいのです。
「どの声の自分が、より多くの幸せを生むのか」
と。
偽装自我は、戦おうとすれば、どこまでも雄弁に自分の正当性を語ります。
しかし、静かに心を見つめ、
「良心の自分・善意の自分」を優先しようとする時、
偽装自我は、明らかにトーンダウンします。
そして、その時に主なる神を思っていただきたいのです。
主なる神の願いは、光をひろげることであると。
天とは、つねに慈愛をもってすべての命を見つめ続けている存在なのだと。
良心の自分・善意の自分は、絶対に天とつながっているのだと。
この思いに自分を向けていくことが、
万人が幸福になる最大の道ではないかと、私は信じています。
この気づきが、私が中学生の時に発狂状態から救われた道です。