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(半分宗教注意)奇跡の無駄遣い

2010年09月19日

これはうちの宗派の誰かから、はるか昔にきいた気がする。

たぶんこれは一宗派の話というより、霊的世界の事実についての話なのだろう。

というわけで、あえて「スピリチュアル」にのせる。

「スピリチュアル」に興味がある人ほど、この話は知っておくべきだろうと思う。











ある夫婦のお話。

旦那さんは、とても熱心な信仰者だった。

奥さんは無神論で、精神論にも興味関心はまったくなく、もっぱらブランド物の買い物と友達との夜遊びが大好きだったという。

旦那さんはよく奥さんのことで悩んでいたという。




ある時、奥さんが倒れた。

子宮癌。すでに末期だった。

旦那さんは必死に奥さんに頼んだ。お願いだから一緒に「病気平癒祈願大祭」にいってくれ。今なら間に合うかもしれない。

奥さんはこのときばかりは素直にしたがった。

入会し、病気平癒祈願をうけた。講師のアドバイスも聞き、奥さんは病室で毎夜今までの自分の思いをノートに記し反省行にうちこんだ。はじめて、こんな自分を支えてくれていた旦那さんへの感謝で涙をおとした。

手術前の最終検査の日、うつしたレントゲンに癌細胞はどこにもなかったという。


夫婦は泣いて喜んだ。

これは奇跡だ。仏の慈悲だ。キミの反省に仏の光がおりたんだよ。




しかし、それから一年ほどたつと、奥さんは元に戻ってしまった。

いや、以前にも増して高慢になってしまった。

あの入院の日々に奥さん自身が書いた反省ノートを旦那さんが見せると、

「それはあなたに騙されただけ」と目の前で捨ててしまった。

「私を騙して宗教に入れた、癌は治ったんじゃない、元々医者の誤診で私は癌じゃなかった」と言ったという。






数ヶ月後、再び奥さんは倒れた。

癌の再発。乳癌だった。しかも急激なスピードで進行していた。

奥さんは青ざめた。また病気平癒祈願につれていってと旦那さんに頼んだ。

旦那さんに頼み込み、以前はしなかったあらゆる祈願をした。いっぱいお布施もした。

しかし結局、2度目の奇跡はおきなかった。

乳房を切除し、抗ガン剤をつかった闘病に、奥さんはやつれ果てた。

以前のような気力もなくなり、あれだけさかんだった友人関係もほとんど絶ち、めったに家から出ることもなくなったという。







「私はこの二度の祈願に立ち会いました。

人間は哀しいことに、『のど元過ぎれば熱さを忘れる』のです。

奇跡の無駄遣いをする人は、実は信仰者(長年当会で学んでいる人)であってもいっぱいいるのです。

私は奇跡の無駄遣いをする人を、たくさん見てきました。

一度目は浮上しても、2度目に沈む人は多いのです。

天上界はよほどでないかぎり、2度目の奇跡はお与えになりません。

それは、本人がそれ(困難による反省)を望んだからです。

奇跡を布施で買おうなんてもっての他です。

布施は見返りを求めないからこそ尊いのです。

みなさん、どうか初心を忘れないでください。

奇跡の無駄遣いをしないでください。

天上界を悲しませないでください。

魔は外にはおりません。

己心の魔がすべてです。

己心の魔と、たたかってください。」










はるか昔、ある支部長から聞いたお話。

語っておられたI支部長の、哀しそうな目が忘れられない。



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Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 18:45│Comments(9)幸福の科学スピリチュアルエピソード
この記事へのコメント
以前ある共産党員の会員さんが、「HSに入会してからも唯物論の思想は心の片隅に残っていて、今でもまだその己心の魔と闘っている」と語っていたのを思い出しました。

この奥さんの場合は、反省行で無神論という心の最大の闇を浄化しきれなかったのが、転落して再び完全憑依されてしまった根本的な原因ではないかと推測出来ます。

入会する前は全く教典を読んでいなかったという教学のベースの弱さも、祈願成就後の転落の危険性を高めていたと思います。

旦那さんのお誘いの仕方が、HSをただの御利益信仰と誤解させてしまった可能性もあります。

仏法真理とは真逆の生き方をしてきた人に奇跡が与えられた場合、その後の心境をどう維持させるかは非常に難しい問題ですね。

信仰の入口に立ったばかりの人は心のコントロールも初心者なので、信仰生活が確立するまでの間は何らかのフォローは必要な気がします。
Posted by ピアニスト健太郎 at 2010年09月21日 04:46
大病が奇跡的に治ったら、信心深くなりそうなのに、
やはり心の持ちようとか、好み(うまい言葉が見つからないんですが自分にとって都合言いかどうか、とか)左右されちゃうんですね;
人間は弱いなあ・・・・
友人の両親は某手かざし系団体さんに胃がん治してもらったってどっぷり信じてます。
胃全摘出してるので治したのはお医者さんのような気がするんですけどね;
Posted by もーむ at 2010年09月21日 13:02
コメント失礼します。
大変貴重な体験談を読ませて頂き、感謝いたします。
この話を読んで、ふと思い出したのが「御礼参り」という言葉です。
何年か前に、某正心館で祈願を受けさせて頂いた時に、S館長が導師をしてくださいました。
その時の、祈願を受ける前のお話が「皆さん、祈願を受けるときは一生懸命だけれども、その後がとても大事なんですよ。祈願を受けた後は御礼参りにくるのが礼儀です。それをされる方が、とても少ないです。」というような内容でした。
自分の家は元々キリスト教系だったので、初めて聞く言葉でしたがとても心に残りました。
この体験談を読ませて頂いてから「お礼参り」で検索すると、お寺や神社のHPに意味が丁寧に載せてあり、改めて勉強になりました。
ありがとうございました。
Posted by 桃 at 2010年09月22日 10:18
信仰による病気平癒の奇跡は、
人生煌めきの瞬間としてそれ自体素晴らしいことです。

ただ厳しい言い方ですが、
あくまでも信仰の入り口に立ったという天からのプレゼントであって、
悟りの出発点にしかすぎないことを銘記すべきだと思いました。

信仰生活の継続による魂浄化の精進こそ、奇跡継続の要諦ですね。

潜在意識が変わっていないままであるのならば、
過去の心の傾向性に引きずられて、
病念が現象化してくるのは避けられません。

臭いものにふたをしていても
臭ってくるものは臭ってくるからですね。

消臭剤をふりかけるのではなく
臭いの元から断つ根本治療の機会をいただいた
というのが、
信仰に目覚めるということではないかと思います。

信仰に目覚め信者となったならば、
三宝帰依をして直弟子として信仰を深める道を歩んでいただけるよう誘いたいものです。

毎日、奇跡をいただいた主の慈悲に感謝し、
生かされている今日一日に感謝し、
日々、心を見つめ、心の塵や垢を落とす反省を重ね、
報恩として、真理を学び真理を伝える主への道を歩み続ける―。

そのような良き導き手になりたいものです。
Posted by good guy at 2010年09月23日 09:24
>ピアニスト健太郎さん
そうですね。
信仰者にも奇跡の無駄づかいは多い」との支部長の意見に、学びを腑におとすことのむずかしさを考えさせられます。

>もーむさん
正直ウケました(笑)
胃を全摘してるのに治ったって(笑)
あ、いえ、感謝は大事ですけど・・・・・(笑)

>桃さん
桃さんのおっしゃるとおりだと思います。
まさに「お礼参り」、感謝と謙虚の心ですよね。
そこを支部や精舎で浸透できたらいんですよね。
そういうソフトを作ってもいいんじゃないかなと思います。

>good guyさん
お久しぶりです!
あ、すみません、私の書き方が極端でしたね。
たぶん支部長が言いたかったのは「信仰者(長年当会で学んでる人でも)でも多いんだよ」ということなんだと思います。この例は一番わかりやすいだけで。
いつのまにかご利益が目的になっていないか、奇跡への感謝・その後の精進はあるか。そこをチェックしてほしかったのだと思います。

あー、書き足さなきゃいけないところがいっぱいですね・・・・
文章ってむずかし~
Posted by アマミキョアマミキョ at 2010年09月23日 10:04
私も御礼に参りに行きます。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と
うちの旦那からよく言われてます(^^;
Posted by あーちゃんママ at 2010年09月23日 10:08
>あーちゃんのママさん
私なんか秒速で忘れます。(笑)
薄っぺらな光明思想の典型です(笑)
わーん、ごめんなさーい!
Posted by アマミキョアマミキョ at 2010年09月23日 10:12
私自身も、信仰による病気平癒の奇跡は、人生の一大転換の序章、きっかけに過ぎないものと思います。

かく言う私も、数年前、伴侶の大病を通じて、信仰というものを深く学ばさせていただく機会を得ました。
今思えば、あの時の苦しみがなければ、今の自分もなかった。。。それほどの人生の一大転換でした。
私は、幸福の科学の信仰歴が既に20年になりますが、今になって思えば、その試練によって、自分が違う人間に生まれ変わることができた。。。
その事こそ、その瞬間こそが、最大の信仰の奇跡でした。
奇跡の無駄使いとありますが、ある意味、病気こそ最大のチャンスであります。
病気には、それが奇跡のように治るだけでは分からない、奥深い天の采配がそこにあります。
私は、この数年、それを学ぶ機会に恵まれました。
どれほど論理的に考えても、論理だけでは推し量れないものが、神仏の作られたこの世界には厳として存在します。
その世界の扉を拓く鍵こそが、実は信仰です。
これを他の人に伝えることは難しい事かも知れませんが、
それでも伝えずにいられなくなる。。。それも信仰なのでしょうね。
Posted by えひめの翁 at 2010年09月23日 10:35
>えひめの翁さん
おっしゃるとおりです。
病気というものも悪ではなく、それ自体が大きな試練であり、また魂が真実の信仰を得るための尊い経験なのだとも思います。
奇跡はあくまで例外であり、それによって価値がわけられるものではありません。
昔リバティであった会員さんの体験談で、主が一番喜ばれたというお話をお聞きしたことがあります。
支部で出会い、総本山で結婚式をあげられたばかりの奥様が、お腹にはじめてのお子さんを宿したまま脳梗塞で倒れ、お子さんはお腹の中で亡くなり、奥様も長く植物状態のまま、最終的に息をひきとられました。
その試練のあと、のこされたご主人は、「苦難のなかにも仏のまなざしがあることを知りました」と、さらに信仰をふかめ、透明な心境にいたったと告白されてました。
一見すればたまらない悲劇です。でも、そこにも仏のまなざしがある。
うまくは説明できませんが、信仰とはまさに霊的人生観なのだと知ったお話でした。
Posted by アマミキョアマミキョ at 2010年09月23日 10:48
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