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防御について(妄想)

2010年07月19日

これはあくまで妄想。

私は霊界や霊知識にすさまじく関心がつよいが、それは霊感がないからあこがれの要素がつよいのだろうとは思う。

しかし、最近お客様をさせていただいていると、なにやら洒落にならないものを感じるのだ。

今から書くことはあくまで私の妄想だ。わかったか!


最近、「色情」がべっとりついてるお客様がかなり多い。

また「過去の抑圧感」をひきづってるお客様もかなり多い。


この事象から二つのパターンが見える。

「精神性をまったくもたない享楽は、それ自体がケガレ」

であることと、

「過去のパターンを見抜き、それを改善しないかぎりそれにまつわる出来事はおき続ける」

ということだ。




私はそこに「精神性」を軽視し、「宗教」を軽蔑した戦後日本の集大成を見る。

過去の抑圧をひきづっていることは、負の記憶に囚われ続けているということだ。

負の記憶を整理し、それにたいして落としどころをつけるために昔の人は「より大いなるプラスの存在を信じる」という行為によって精神のバランスをとってきたのだろう。

大いなるプラスの存在が神であれ仏であれ自然であれご先祖であれ、それが諦念となり道徳となり敬意となり礼節となり結界となった。

しかしいま、その精神の中核が失われいる。

これはとても危険な状態である。

精神的な秩序、霊的な防御が皆無にひとしいのだ。

私は日本の自殺率の驚異的な高さにここが関係していると思っている。

隊長は「自殺の半分は鬼の仕業(ひきこまれている)」と言っていた。

それを信じない人が、もっとも鬼にひっぱられやすい。そして今は信じない人が多すぎる。



私が最近「信仰」をキーワードにした日記を書く機会がおおいのも、それがあるのだろう。

特定の宗教をアピールすることはあってもその信仰を強制はしない。

ただ、「信仰心」を忘れるな。恩を忘れるな。感謝を忘れるな。尊き存在を忘れるな。

あなたに善き道をもたらす考え方と縁をむすべ。善き縁は100万の兵士に勝り、悪縁は奈落へのゆるやかな下り坂である。

「因縁果報」という言葉は、とても重要な言葉なのだと最近とても思う。

鬼や悪魔は人々を狂わさんとするとき、信仰をねじまげ、現世利益のための犠牲を肯定する。その心と行いにかかわらず安易に許しや裁きを与える。

しかし鬼や悪魔が一番跋扈する環境は「自分を縛る信仰や戒律のない」世界、「すべての悪しき自由が許される世界」、即ち「地獄」である。




なんとゆーか、まぁ、身近な人に感謝しましょー。

おてんとさまにてをあわせましょー。

母方の祖父はどんな天気のときも朝と夕、天照大御神(太陽)に手を合わせていたという。

その姿は母の目に今もやきついているという。

貧しい旅の行商人やライ病患者の物乞いが訪れると遠慮なく家にいれ、家族がつかう茶碗で食事を与え、自分たちが着ていた着物を与え、時には自分たちが使う布団で寝泊まりもさせた祖父ちゃんと祖母ちゃん。

その姿と太陽に手を合わせる姿がイコールのように私には思えるのです。

祖父ちゃんと祖母ちゃんみたいな人間になりたいとあこがれます。

世の中の歪みにいちいち噛みついてるようではまだまだですね。

じーちゃん、みーてーろーよー



(`・ω・´)シャキーン




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Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 02:21│Comments(1)つぶやき
この記事へのコメント
アマミキョさん

私も、いろいろな意味で、現在の多くの日本人から信仰心が無くなっていることを危惧しています。
霊に関わることだけでなく、具体的な政治や人間の未来社会に関しても、それに向き合うことが必要だと思うからです。

ちょっと切り口が違いますが、このブログやアマミキョさんのお父さんにはストライクだと思うので、張っちゃいます。ごめんなさい。
(よかったら記事にしてちょ (゚∀゚) )

長い議論の後の、終章です。

マイケル・サンデル 「これからの『正義』の話をしよう」 (p344-345)

政治と法律は道徳的・宗教的論争に巻き込まれるべきではないとわれわれは考えがちだ。
そうした論争に巻き込まれれば、強制と不寛容への道を開くことになるからだ。
そうした懸念が生じるのも無理はない。
多元的社会の市民は、道徳と宗教に関して意見が一致しないものだ。
これまで論じてきたように、行政府がそうした不一致について中立性を保つのは不可能だとしても、
それでもなお、相互的尊重に基づいた政治を行なうことは可能だろうか?

可能だと、私は思う。

だが、そのためには、これまでわれわれが慣れてきた生き方とくらべ、もっと活発で積極的な市民生活が必要だ。
この数十年でわれわれは、同胞の道徳的・宗教的信念を尊重するということは、(少なくとも政治的目的に関係する場合)それらを無視し、それらを邪魔せず、それらに-可能な限り-かかわらずに公共の生を営むことだと思いこむようになった。
だが、そうした回避の姿勢からは、偽りの敬意が生まれかねない。偽りの敬意は、現実には道徳的不一致の回避ではなく抑制を意味することが少なくない。
そこから反発と反感が生じかねないし、公共の言説の貧困化を招くおそれもある。
言説の貧困化とは、一つのニュースから次のニュースへと渡り歩きながら、スキャンダラスでセンセーショナルで些細な事柄にもっぱら気を取られるようになることだ。

道徳的不一致に対する公的な関与が活発になれば、相互的尊敬の基盤は弱まるどころか、強まるはずだ。
われわれは、同胞が公共生活に持ち込む道徳的・宗教的信念を避けるのではなく、もっと直接的にそれらに注意を向けるべきだ-ときには反論し、論争し、ときには耳を傾け、そこから学びながら。

困難な道徳的問題についての公の討議が、いかなる状況でも同意に至るという保証はないし、他者の道徳的・宗教的見解を認めるに至る保証さえない。
道徳的・宗教的教条を学べば学ぶほどそれが嫌いになるという可能性は、つねにある。
しかし、やってみないことには、わからない。

道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。
公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。
Posted by ぽえむん好きな人の夫 at 2010年07月19日 13:50
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