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疫神といふものへの関心

2010年05月19日

これはあくまで妄想。そしてひとりごと。



口蹄疫の問題は4月の段階で「日本をゆるがす大問題になる」と夢に何度もでた。だから日記にも何度も書いた。

取り返しのつかない規模になってから世間がさわぎはじめたが、私はいま別の部分からの見方を考えはじめている。

キーワードは「高天原」「疫神」。

神道の本宮である高天原をもつ宮崎。そこで起きた未曾有の獣の疫病。

疫神について調べると以下の文章がでてきた。


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疫神社、疫隅神社、天疫神社、は大抵スサノヲが祭られているようである。スサノヲには疫病を払って貰う御利益があると信じられている。
さて、崇神5年紀では「疾疫により人口の半ばが死亡した」という記事がある。よほどの伝染病であったのではなかろうか。そして、その原因は大物主神が祟っていた、ということになる。また、倭大国魂神も祟っていたらしく、その二柱の神を、それぞれ、祭ることによって疫病は消滅して国内平穏になった、とある。

話は変わってアイヌの方では天然痘、疱瘡を pa と言う。この病気は pa kor kamuy 即ち 疱瘡を・もつ・神 が訪れると罹る、と考えられている。実際この神は、apkas kamuy (歩行する神、遊行する神、巡り神)とも paykay-kamuy, payoka-kamuy (旅行する神)などとも言われる。また、「疱瘡神を一種の渡り鳥の姿に於て観じている」(知里真志保・分類アイヌ語辞典・ほおそお@p361)そうで、同辞典によるとかのバチェラーさんの収集にも pa koro chikappo(疱瘡を 持つ 鳥)という語彙があり、群れをなして来る渡り鳥で「悪い病気」をもたらすという。

その語彙 pa は実は「疱瘡」の意味以外にも幾つかの意味がある。「頭」「煙、湯気」「口(くち)「年(歳)、季節」である。また、動詞に後置されて、その動詞を複数化する機能がある。動詞の複数、とは、主語が複数の場合も、目的語が複数の場合も、また、行為自体が複数回繰り返されることも含む。

一方、除疫の御利益のあるスサノヲのこどもに「大年神」がある。pa kor kamuy (年・歳を 持つ 神)の翻訳ではなかろうか。また、大年神の子には「大国御魂神」(崇神天皇が除疫のために祭った神)がある。

長い間、大年神は穀類の神様として崇められて来たが原義は「年を司る神」、pa の同音異義によって「疱瘡の神」だったのではなかろうか。その祟りを鎮めるために崇神天皇は出雲系の神様を祭った、と読むのは如何であろう。

こう考えると「サイの神」が村と村を「サヘギル(遮る)」神というよりは「年の神、歳の神」と捉えれば好いように思われる。アイヌが疱瘡神を退けるための祭儀にも村の端にイナウを並べ立てるものがある。(p384)

大年神の配偶者は「天知迦流美豆比賣」(あめ・ちかる・みづ・ひめ)とある(古事記)。この「知迦流」を chikap rup と解けば「鳥の群れ」である。毎年季節ごとに疱瘡病を運んでくる、とアイヌが考えている鳥の群れである。pa kor kamuy (大年神)と chikap rup (鳥の群れ)とは大変なカップルである。



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道饗祭と現代

 続日本紀(しょくにほんぎ)には、奈良時代後期の西暦770年、「疫神(えき-しん)を京師の四隅と畿内の十堺(じゅっかい)に祭らしむ」という記事がある。

 奈良の天皇たちは、疫病を神の一種と考え、その侵入を防ぐための祭りを、平城京の四方と畿内・畿外の境界10ヵ所(畿内の十堺)で行なったのである。
 つまり、「内の世界」へ疫病が蔓延しないよう、内外の境界で疫神をさえぎり、「外の世界」に追い返す儀式である。
 疫神に畿内や都に入るのをあきらめさせ、そして、機嫌をそこねずに引き上げてもらうためには、盛大なご馳走を供して丁重に祭らねばならない。
 疫神が入って来ようとする道の上で、ご馳走を用意して祭るので、これを“道饗祭(みちあえ-の-まつり)”という。

 播摂国境上の多井畑の地も、770年に疫神を祭った「畿内の十堺」のひとつであるとされる。
 今の神戸市須磨区にある 多井畑厄神(たいのはた-やくじん) 境内に残る土盛りが、かつて道饗祭に用いられた祭壇の跡と伝えられている。
 山陽道からの畿内への入り口であった多井畑で、疫神を阻止しようとしたのである。
 道饗祭は、多井畑に限らず、また、770年ばかりでなく、都周辺の各地でしばしば繰り返された祭りであった。

 けれども、少し考えてみればわかることだが、畿外の人々の立場からは、このような祭りは、実に迷惑で無礼千万なものと言わざるを得ない。
 仮りに、疫神というのが、必ず畿外から畿内へと向かうものであるとしても、そして、たとえ、それが道饗祭で防ぎ得るとしても、畿内へ入れずに引き帰した疫神は、一体どこへ行くことになるのであろうか。

 疫神を畿外へ追い払う道饗祭とは、それが畿外の人々のあいだに留まり、はびこることを容認するものに他ならない。
 「大和朝廷の権力中枢から遠い畿外であれば、疫病が蔓延してもかまわない」という発想にもとづいて行なわれていたのである。

 道饗祭は、しかし、はるかな古代の話であるが、これと同じような発想が、現代における廃棄物処理施設や原発や米軍基地の立地にも見られる。
 多くの市町村では、廃棄物処理施設は、その町の中心部からはずれた隣町との境界近くに設けられているし、原子力発電所は、主に都会で消費される電気をまかなうための施設であるのにもかかわらず、例外なく「地方」に造られる。在日アメリカ軍の基地は、その大部分が沖縄県に集中し、「本土」に暮らす人々の目には日常的に触れることがない。
 どうやら、権力の中枢近くにある者の発想は、奈良時代も今も、あまり異ならないのかも知れない。

 しかも、古代の王権が、道饗祭で疫神にご馳走を供したのと同じように、現代の「迷惑施設」においても、やはりご馳走が用意されることになっている。
 廃棄物処理施設では、たとえば、焼却炉の余熱を利用して温水プールを併設するなど、施設の立地を地元に受け入れてもらうための方策が、さまざまに考えられる。
 原発や米軍基地の場合は、話がもっと大がかりで、電源三法や沖縄振興策による莫大な予算をともなう「優遇」策を示し、これらの施設によって負わされる危険や損害をあきらめさせ、その押しつけを図る。

 古代国家が「疫神払い」の儀式を行なったのと、非常に似かよった意識が、今日にも続くように感じられるのである。


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国津神の災い。朝廷への警告。必要なのは敬意。祀れば大きな守護となる。

いろんな見方はあるかもしれないが、私はこの問題のスピリチュアルな側面について考えはじめている。

私たちはどうあるべきなのか。なにをなすべきなのか。

この問題は何を「示し」ているのか。


目に見えるものだけを見てはいけない。

自分にいいきかせている。




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Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 14:41│Comments(1)つぶやき
この記事へのコメント
やっと本質を見るきになったんだね そう自分のもつ知識と情報もて 考えねば 道とざされる
Posted by 隊長 at 2010年05月19日 15:17
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