自己保身の肯定~悪魔との契約の道
2015年11月13日
バタバタしすぎて今になりました・・・・・。
私のブログの更新を待ってくださっている、とっても奇特な方々には更新の遅れをお詫びいたします!!
(*`・ω・)ゞ
さて、前回の記事で、私はご依頼をいただきはしたものの、なんとも偉そうにも(笑)憑依について私自身の体験談を述べさせていただきました。
そのなかで、「憑依とは身体に憑くというより、自分の心に一体化している、だから自分ではなかなか見破れない」と述べました。
そして「憑依・・・悪霊の思念干渉は、自分の心にある自己保身に入り込んでいる場合が多い」とも書きました。
さらに、「自分の憑依を見破るのは、自分自身の客観情報であり、その意味において諫言してくださる貴人の存在はとても重要である」とも述べました。
以上を踏まえ、次の論点「悪魔との契約の道」について述べたいと思います。
もちろん、私の体験談でござる。(笑)
だから他の人が私と同じとはかぎらないので、鵜呑みにせずに読んでくださいね!!(笑)
余談ですが、私がここで以前「悪質思念干渉」について書いたら、某読者さんから
「あれを読んで、自分が長年苦しんできた妄想が自分の思いではなく、
悪霊による悪質思念干渉だったと知ったら、
次の日から長年の妄想が完全に消えました」
とのお知らせとお礼のメッセージをいただきました。
これが「見抜くことで取れる」ということですね。
某読者様、ますますのご精進を心よりお祈りいたしておりまする。
ヽ(*´∀`)ノ
というわけで、「自己保身の肯定」が、なぜ悪魔との契約になるのかというお話です。
自己保身とは、幸福の科学信者さんにとっては「心の三毒」のなかの「癡(ち)」の部分にあたります。
この「癡(ち)」、実はそのまま六大煩悩の「悪見(あくけん)」に通じることを、ご存知でしょうか?
相関図にするとこうなるかと思われます。職員さんヘルプ~~!
貪とん(足ることを知らない心)→慢まん(うぬぼれ)
↓
瞋じん(過ぎた怒り)→疑ぎ(周りへの疑い)
↓
癡ち(自己保身)→悪見あくけん(間違った見識・価値観)
HSの教えでは、「悪見」は言わずとしれた「堕地獄」です。本来の正しい見方と真逆の見方になるということですね。
お分かりでしょうか?
これだけの精神的毒性を、「癡(ち)」(自己保身)はもっているんですね。
では、この「自己保身」とはなんでしょうか?
それは結局のところ「自分は悪くない!」「自分をまもりたい!」「自分の非を認めたくない!」という思いであり、
それは反省を拒絶する姿勢につながるわけですね。
反省を拒絶するから、自分を改めることができない。
ではどうするか?
自分にとって都合の悪い情報を知られたくないので、他人を騙すんですね。
これが、「ウソ」のはじまりになります。
そして、自分にとって都合の悪い情報をもたらす人(その人が善人であっても)を、
「敵」として陥れようとします。
上記は反射的に行われるので、本人にその時自覚はありません。
以前ご紹介した虚言癖の特徴がそうであるように、
「自分を守りたい」という一心なんですね。
だからこそ、悪質であるとも言えます。
(自覚していない罪の方がより悪)
では、私はどうしてそれを説明できるのか?
お恥ずかしながら、私自身がかつてそうであったからです。
私の場合は、それを師匠に見抜かれ、何度も何度も繰り返しご指導をいただくことで、
自覚できたのです。
はずかぴー!!!!!!!
(ご指導とは「やましい心の内面をすべてえぐり出されて自分の非を突きつけられる説教」です。
受けてる時は死ぬほどつらいですよ~
師匠が正しいと分かってはいても、自分がそれを受け入れたくないので、
真実を突きつける師匠に対して怒りを通り越して殺意が沸くことすらありました。
この殺意が同時に追い詰められてるオバケの感情だったと分かるのは、取れたあとのこと。)
ある日、私は師匠からこのような言葉をいただきました。
「リノ、よく聞きなさい。
本当に憑依されると、『ニセモノの気づき』が降りてくるときがあるの。
突然目の前が明るく開ける感覚がして、「ああ、自分はいままで間違っていた!この気づきこそが正しい道だ!」と確信するの。
反省をやめたり、自分の間違いを正当化させたり、自分は周りより偉い人間なんだと錯覚しはじめるの。
その時不思議に運が向いてきて、周りのことがうまくいきはじめたりするの。
でもね、その時に、悪魔がとり憑いてるのよ。
悪魔はね、間違った見方を正しいと信じ込ませるプロなのよ。
だから、「本当に正しい考えに気づけた!」とニセモノの気づきを与えて、本人を冷静に狂わせていくの。
一見それはとってもスッキリする気づきだから、頭も軽くなるし、運も開けるから、
本人はほとんどそれが悪魔の仕業だとは気づかない。
でも、その人は、確実におかしくなっていくの。
今までお世話になった人たちを簡単にないがしろにしはじめたり、
今までの人生の失敗をうまく責任転嫁しはじめるから。
だから、リノ、『ニセモノの気づき』には気をつけなさい。
本当の気づきは、かならず反省や感謝がともなうものなのよ」
私はそれを聞いて、「自分を正当化する道がどれだけ怖い末路につながるのか」を知り、戦慄しました。
一見、悟りを得たような開放感に包まれ、
まるで自分が真実に目覚めたような確信を得て、
おかしくなっていく。
それによって運が開けるような現象
(実際は悪魔による一時的な支援。もちろん後にくる大きな代償つき)
も起き、本人はまったくそれに疑いを持たない。
ますます自分の方向性の正しさに確信を深める。
しかし、その人は、少しずつ言動がおかしくなっていく。理性が、道徳心が狂っていく。
人間関係が壊れはじめ、おごり高ぶった言動が周りを巻き込んでゆっくりと破滅的な道にすすんでいく。
そう、「自分を守りたい」という心が、皮肉にも「自分は間違っていない」と信じたいオバケと通じ、
その自分を正当化したい心が、悪魔と通じてしまうんですね。
結果的に、自分を守れていないどころか、
悪魔の霊指導を受ける状態(つまり悪魔の手下)になってしまっているわけです。
これが、自己保身の恐ろしさです。
ですから、悪魔と契約するのに、ヘンな魔術(笑)や魔法陣(笑)などは必要ありません。
自分を正しいと信じ、自分の非は認めず、
自分に都合の悪い情報は一切遮断し、
自分はたとえ間違っていたとしても、今更改める必要性まではないと思い、
自分にとって都合のいい、自分を高評価するような情報だけを宝物のように大事にし、
自分を諌める友人知人とはすべて縁を切り、
自分は特別な人間だと確信して、自分の事を理解できない周りの愚かさにあきれ、
自分にとって都合の悪い情報をもたらす人間をすべて悪人だとみなし、
自分を守るためにウソをつくのは仕方ないと思っていれば、
私やあなたはその時悪魔と契約しているのですね。
自分のなかの自己保身を観るのはつらい作業です。
周りは本当はその人の自己保身がありありと観えていますが、誰もわざわざ教えてはくれません。
それは当然です。誰しも、恨まれたくはないですから。
しかし師匠は、私に恨まれる覚悟をもって、私自身の自己保身の醜さを教えてくださいました。
その経験が、今の私の何よりも強い心の護り(気づき)になっています。
その時の苦しみのなかに、自分や他の人の自己保身の痛みを理解していく道があります。
自己保身をこえた時に、周りからたくさんのご恩をいただいていることを知りました。
私は決してすぐれた人間ではございません。
すごく不器用で、人よりも劣ったところばかり多い人間です。
その私でも、自分自身の体験が、誰かのお役に立てることのありがたさをかみしめています。
本当の気づきは、反省と感謝にある。
師匠の言葉を、みなさんと共有させていただきたいと思います。
自己保身をこえて、絆をむすぶ道に至りたいですね。
私のブログの更新を待ってくださっている、とっても奇特な方々には更新の遅れをお詫びいたします!!
(*`・ω・)ゞ
さて、前回の記事で、私はご依頼をいただきはしたものの、なんとも偉そうにも(笑)憑依について私自身の体験談を述べさせていただきました。
そのなかで、「憑依とは身体に憑くというより、自分の心に一体化している、だから自分ではなかなか見破れない」と述べました。
そして「憑依・・・悪霊の思念干渉は、自分の心にある自己保身に入り込んでいる場合が多い」とも書きました。
さらに、「自分の憑依を見破るのは、自分自身の客観情報であり、その意味において諫言してくださる貴人の存在はとても重要である」とも述べました。
以上を踏まえ、次の論点「悪魔との契約の道」について述べたいと思います。
もちろん、私の体験談でござる。(笑)
だから他の人が私と同じとはかぎらないので、鵜呑みにせずに読んでくださいね!!(笑)
余談ですが、私がここで以前「悪質思念干渉」について書いたら、某読者さんから
「あれを読んで、自分が長年苦しんできた妄想が自分の思いではなく、
悪霊による悪質思念干渉だったと知ったら、
次の日から長年の妄想が完全に消えました」
とのお知らせとお礼のメッセージをいただきました。
これが「見抜くことで取れる」ということですね。
某読者様、ますますのご精進を心よりお祈りいたしておりまする。
ヽ(*´∀`)ノ
というわけで、「自己保身の肯定」が、なぜ悪魔との契約になるのかというお話です。
自己保身とは、幸福の科学信者さんにとっては「心の三毒」のなかの「癡(ち)」の部分にあたります。
この「癡(ち)」、実はそのまま六大煩悩の「悪見(あくけん)」に通じることを、ご存知でしょうか?
相関図にするとこうなるかと思われます。職員さんヘルプ~~!
貪とん(足ることを知らない心)→慢まん(うぬぼれ)
↓
瞋じん(過ぎた怒り)→疑ぎ(周りへの疑い)
↓
癡ち(自己保身)→悪見あくけん(間違った見識・価値観)
HSの教えでは、「悪見」は言わずとしれた「堕地獄」です。本来の正しい見方と真逆の見方になるということですね。
お分かりでしょうか?
これだけの精神的毒性を、「癡(ち)」(自己保身)はもっているんですね。
では、この「自己保身」とはなんでしょうか?
それは結局のところ「自分は悪くない!」「自分をまもりたい!」「自分の非を認めたくない!」という思いであり、
それは反省を拒絶する姿勢につながるわけですね。
反省を拒絶するから、自分を改めることができない。
ではどうするか?
自分にとって都合の悪い情報を知られたくないので、他人を騙すんですね。
これが、「ウソ」のはじまりになります。
そして、自分にとって都合の悪い情報をもたらす人(その人が善人であっても)を、
「敵」として陥れようとします。
上記は反射的に行われるので、本人にその時自覚はありません。
以前ご紹介した虚言癖の特徴がそうであるように、
「自分を守りたい」という一心なんですね。
だからこそ、悪質であるとも言えます。
(自覚していない罪の方がより悪)
では、私はどうしてそれを説明できるのか?
お恥ずかしながら、私自身がかつてそうであったからです。
私の場合は、それを師匠に見抜かれ、何度も何度も繰り返しご指導をいただくことで、
自覚できたのです。
はずかぴー!!!!!!!
(ご指導とは「やましい心の内面をすべてえぐり出されて自分の非を突きつけられる説教」です。
受けてる時は死ぬほどつらいですよ~
師匠が正しいと分かってはいても、自分がそれを受け入れたくないので、
真実を突きつける師匠に対して怒りを通り越して殺意が沸くことすらありました。
この殺意が同時に追い詰められてるオバケの感情だったと分かるのは、取れたあとのこと。)
ある日、私は師匠からこのような言葉をいただきました。
「リノ、よく聞きなさい。
本当に憑依されると、『ニセモノの気づき』が降りてくるときがあるの。
突然目の前が明るく開ける感覚がして、「ああ、自分はいままで間違っていた!この気づきこそが正しい道だ!」と確信するの。
反省をやめたり、自分の間違いを正当化させたり、自分は周りより偉い人間なんだと錯覚しはじめるの。
その時不思議に運が向いてきて、周りのことがうまくいきはじめたりするの。
でもね、その時に、悪魔がとり憑いてるのよ。
悪魔はね、間違った見方を正しいと信じ込ませるプロなのよ。
だから、「本当に正しい考えに気づけた!」とニセモノの気づきを与えて、本人を冷静に狂わせていくの。
一見それはとってもスッキリする気づきだから、頭も軽くなるし、運も開けるから、
本人はほとんどそれが悪魔の仕業だとは気づかない。
でも、その人は、確実におかしくなっていくの。
今までお世話になった人たちを簡単にないがしろにしはじめたり、
今までの人生の失敗をうまく責任転嫁しはじめるから。
だから、リノ、『ニセモノの気づき』には気をつけなさい。
本当の気づきは、かならず反省や感謝がともなうものなのよ」
私はそれを聞いて、「自分を正当化する道がどれだけ怖い末路につながるのか」を知り、戦慄しました。
一見、悟りを得たような開放感に包まれ、
まるで自分が真実に目覚めたような確信を得て、
おかしくなっていく。
それによって運が開けるような現象
(実際は悪魔による一時的な支援。もちろん後にくる大きな代償つき)
も起き、本人はまったくそれに疑いを持たない。
ますます自分の方向性の正しさに確信を深める。
しかし、その人は、少しずつ言動がおかしくなっていく。理性が、道徳心が狂っていく。
人間関係が壊れはじめ、おごり高ぶった言動が周りを巻き込んでゆっくりと破滅的な道にすすんでいく。
そう、「自分を守りたい」という心が、皮肉にも「自分は間違っていない」と信じたいオバケと通じ、
その自分を正当化したい心が、悪魔と通じてしまうんですね。
結果的に、自分を守れていないどころか、
悪魔の霊指導を受ける状態(つまり悪魔の手下)になってしまっているわけです。
これが、自己保身の恐ろしさです。
ですから、悪魔と契約するのに、ヘンな魔術(笑)や魔法陣(笑)などは必要ありません。
自分を正しいと信じ、自分の非は認めず、
自分に都合の悪い情報は一切遮断し、
自分はたとえ間違っていたとしても、今更改める必要性まではないと思い、
自分にとって都合のいい、自分を高評価するような情報だけを宝物のように大事にし、
自分を諌める友人知人とはすべて縁を切り、
自分は特別な人間だと確信して、自分の事を理解できない周りの愚かさにあきれ、
自分にとって都合の悪い情報をもたらす人間をすべて悪人だとみなし、
自分を守るためにウソをつくのは仕方ないと思っていれば、
私やあなたはその時悪魔と契約しているのですね。
自分のなかの自己保身を観るのはつらい作業です。
周りは本当はその人の自己保身がありありと観えていますが、誰もわざわざ教えてはくれません。
それは当然です。誰しも、恨まれたくはないですから。
しかし師匠は、私に恨まれる覚悟をもって、私自身の自己保身の醜さを教えてくださいました。
その経験が、今の私の何よりも強い心の護り(気づき)になっています。
その時の苦しみのなかに、自分や他の人の自己保身の痛みを理解していく道があります。
自己保身をこえた時に、周りからたくさんのご恩をいただいていることを知りました。
私は決してすぐれた人間ではございません。
すごく不器用で、人よりも劣ったところばかり多い人間です。
その私でも、自分自身の体験が、誰かのお役に立てることのありがたさをかみしめています。
本当の気づきは、反省と感謝にある。
師匠の言葉を、みなさんと共有させていただきたいと思います。
自己保身をこえて、絆をむすぶ道に至りたいですね。