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先輩との会話~自分の気付かない苦しみ

2010年12月11日

先輩とヤボ用で電話していたときのこと。

「あのさー、この前すごくキッツイときがあってね」

「はぁ。先輩がすごくキツイというと、私なら余裕で20回は死んでますね」

「うん。(キッパリ)そしたらさ、前にアマちゃんがなってたヤツの感覚がわかったよ」

「え?なんでしたっけ?変な体臭とかですか?」

「ほら、あんた、先生(師匠)とか周りのスタッフにどんなにキツいこと言われても、すぐに言われたこと忘れてたじゃん。」

「ああ~。そうですね!集中力ないんで(笑) すみません・・・(笑)」

「いや、違うんだよ。あれってね、私もなってみてはじめてわかったの。

あれ、『自己防衛』なのよ。ギリギリの状態でのね。」

「そうなんですか?」

「そう。あれね、あそこまでなってみてわかった。ああ、ここまでなると『なかったことにしようとするんだな』って。あれ、本当に心が壊れる寸前なんだよ。

たぶんアマちゃんはそれを無意識に身につけてたんだよね。だからよく瞬間的に忘れてたし、説教されてる最中に居眠りとかしてたじゃない。あれもそう。あれってね、かなりキツいんだよ、本当は。」

「・・・・・」

「だから、たぶんそれっていじめられたときになったと思うんだけど、それ、早くなんとかできるといいね」

「そ、そうですね」



これは隊長からも師匠からも指摘をいただいていた。

私は、周りから言われるお叱りを「害されている!」と思い、無意識に心がシャットアウトしてしまう。

本当は私を導きたいという愛の言葉なのに、私は幼いころの恐怖心から、自分を守ろうとする。それを今でも繰り返している。

しかし、「苦しみから自分を閉ざして守ろうする」その先にあるのは停滞と怠惰、不自然にゆがめられた苦しみの持続しかない。それは、結局「自己愛」であり「自己憐憫」でしかないのだから。


もっともっと積極的になりたい。

もっともっと明るく素直でありたい。

もっともっと、のびのびと働き者でありたい。

もっともっと、建設的で前向きでありたい。

そのために、私のなかに今もいる傷ついた幼い私を愛し、共に成長していきたい。


祈りに向かうとき、祈りのたびに、自分の体を包む堅い殻のようなものを祈りによって破る感覚が「痛み」に似ていて、それがつらくて祈りは苦手だと気付いた。

その「殻のようなもの」とは、「自分を守りたい思い」であり、「自我」の鎧なのだ。

自分を守る思いはこれほどまでに苦しく、なのに、捨てるのが怖くていつまでもつかんでいる。



まだこれだけしか気付けていない自分。

まだここまでしか歩めていない自分。


でも、私は私を見捨てない。

素直に、祈りたい。

素直に、悲しみたい。

自分という囚われをおろして、自由になりたい。

いつか、かなえたい夢です。








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Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 01:50│Comments(6)自分がたり
この記事へのコメント
こんにんちは。

これは一種のネグレクトに対しての精神的な防御なのだと思います。
本人の精神が未成熟で外部の風雪に耐え切れない状態の際に、
外部からの危機的な力に対抗する生存防衛本能の一種ではないでしょうか。

子供は幼少期に精神的に”絶対安全な場所”(通常は両親)を確保することが
難しい際には、一種の精神的な”さなぎ”状態になり身を守ることが
あります。

この”絶対安全な場所”をもつことが、自分や他人への自己信頼というものの”芽”ではないかと思います。



”精神的さなぎ”になるスイッチの入れ方は各人千差万別です。

これに関しては今回使われている仏教用語の「自我」とは少し違うと思いますが、いかがでしょうか、、、

あくまで今回の文章を読んでの個人的な感想ではありますが、
「〜ねばならない」というのが少し強いようにも感じます。

もっと自然に。
もっと自由に。

植物が縦に伸びようが、横に伸びようが、下に伸びようが、それが成長であるように、個性を生かした伸び方が個性の発揮や多様性の喜びに結びつくと感じます。

アマキヨさんは、少し自己処罰の気持ちも強いのではないですかね?
他の人たちを許すように、自分の過去に対しても許すことも大切だと思います。

反省→自分の過去を認める→自分の魂(思考)の傾向性を知る→未来において同じ判断をしないように認識する→反省という学習材料になった過去を受け入れる=反省後は許す、認める


出過ぎたコメント失礼しました。
読んで頂いたあとは削除で結構です。

今後も楽しい文章楽しみにしております。
Posted by natsu at 2010年12月11日 06:41
 心が壊れないように自己防御するシステム自体は万人に存在していると思いますが、

 それとは別に、心の壁とか、自分の我による無意識的な防御は、実際に経験してそういう人が居るのを知っています。

 自分の主義主張が、少しでも変わってしまうような、核心的な話題になると、居眠りを始めたり、耳が遠くなっちゃうことが、不思議ではあるんですが、あるようなんです。

 私が言えたことではないんですが、本人の考え方が変わってしまうことに、潜在意識のレベルで防御反応をするということはあるようです。それは、本人の精神性が高ければ、悪から守る力にも確かになるけど・・・・・反省が出来なくなってしまうという問題があります。

 悪いものが付いているわけではないのに、反省しようとすると、眠たくなる。そういう現象に近いのかもしれないです。

 最近、その壁を破る方法をさがしてました。

 鏡の前で自分に向けて、「心の壁に穴を開けて仏と縁をつける」と念じてエルカンターレファイトを行うと、破れやすいと気付きました。(よければ試してみてください・・・たぶん、効くかな?)

 長文すいません
Posted by 777 at 2010年12月11日 17:25
僕の知り合いの女性は、彼女にお説教しようとした人とはどんなにいい人でも絶交して、

自分に甘いことを言ってくれる人だけを周りに置いて、必死に自分を守ろうとしています。

彼女の場合は、身内からの執拗な嫌がらせが原因でそうなってしまいましたが、

防衛反応もひどくなるとそこまで行ってしまうので、

アマミキョさんの場合は重症にならずに済んでいると思います。
Posted by ピアニスト健太郎 at 2010年12月11日 18:41
アマミキョさんの話、皆さんのコメント、大変参考になります。

自分が傷ついたとき、どうしても内向きの心になってしまって
なかなか外に向かって心を開くことができない。

悶々としてただ時間だけが過ぎていく、という経験をしたことがあります。

私の場合は、ある種の前後裁断のようなことがあって、浮上することができましたが、根本的な解決ができたわけではありません。

このような心の傾向性があるのだ、ということは気がついているのですが、原因となるものがまだ見つかりません。(たぶん過去世にあるのかな?)

今は浮き袋をつけて泳いでいるのですが、浮き袋に穴が開かないように、また、穴が開いても空気(光)を入れてすぐ塞ぐよう、日々の反省・感謝・瞑想・祈りを充実させるように心がけています。

やり直しのチャンスを与えられるということは、大変ありがたいことです。
Posted by 犀角 at 2010年12月11日 23:48
最近、心境の変化いちじるしいアマミちゃんですが、
いつもアマミちゃんのコメントには、考えさせられることが多く、参考にさせていただいています。
まだまだ、アマミちゃんの心境には程遠いわたしではありますが、共通するところがあるとすれば、それは、自分を処罰してしまうきらいがあるところでしょうね。
わたしも、人からの助言を受けても、それを、被害を受けているように感じるところがあります。
特に、幸福の科学の会員さんと会話していると、そういう気持ちになることが多かったです。
大川隆法総裁の著書を読んで、それで、支部へ行ったのに、なんで、わたしがこんなめに会わなくてはいけないのだろう。なんで、こんなに苦しまなければいけないのだろう。
そう感じていました。
仏法真理の書籍を読んでも、正心法語を読んでも、心の苦しみは治まりませんでした。
講演会のテープも聞いてみましたが、話の内容が自分とは関係ないことを話されているようで、耳にも届きませんでした。
こういう時は、心の統御ができないので、どうしようもありませんでした。
そういうときに、どうすれば、心が楽になるか。
いろいろと試してみましたが、わたしがやった方法で、最も効果があったのは、こんな方法です。
まず、自分が最も尊敬している霊人の書籍を選びます。
わたしの場合は、「仏陀再誕」でした。
ただ、目で文字を追っているだけでは苦しいので、書籍の文字を指でなぞりながら読んでいきます。
すると、不思議なことに、そうやって指でなぞって読んでいる時だけは、苦しみが治まりました。
それで、またしばらくすると苦しみがやってきます。
ある程度、苦しみに耐えることができるようになるまで、その行為を続けます。
そうこうしているうちに、時間が過ぎ、あとは、日々がたつにつれ、苦しみも治まってきました。
しかし、最近でも、ときどきは、怒りが爆発し、苦しみに襲われることもあります。
まあ、一般人さんや、政治ウォッチャーさんのコメントを読んでいるときに怒りがこみあげてくることもありましたがね。
アマミちゃんのぽえむんは、最近とてもすばらしいと感じることが多いですが、それは、最近は、すこしは余裕ができてきて、心も落ち着いてきたからでしょうか。
本当に苦しいときは、ぽえむんを読む気にもなりませんね。
でも、あとから考えてみると、なんだかそういう時期がいとおしく感じられることもあります。
Posted by まっちゃん at 2010年12月15日 22:07
まっちゃんさんへ>>

 求道心の強さに感服いたしました。
 
 私も法は時に、自分の至らなさを突かれているようで、厳しく感じるときがあります。

 苦しい中でも、どうにかして法を読もうとする。その闘いは、私には、本当に尊く感じられます。(合掌)

 
 
Posted by 777 at 2010年12月15日 22:25
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