ぽえむん「失われたときを求めて」
2013年01月26日
すがりついてきた想いに
私は何ができるだろう
御山の主に導かれて
たどり着いたその場所の
悲しみの記憶にふれて
北九州に
縄文中期
かつてあった国が
焼き討ちされ
巫女であった女性が
慕う女性の名を叫びながら焼け死んだ
おねえさま
おねえさま
と
その手が想いが
2012年3月
現代の私の袖をつかむ
おねえさま
やっとお会いできた
行かないで
行かないで
と
私は古代の彼女のすがる腕をふりきり
奄美に帰る飛行機に乗る
私は北九州に
とても大きな後悔を置いて
奄美に帰った
私はおねえさまじゃない
あなたのことは知らない
しかし
なぜこんなに胸が痛むのか
なぜこんなに申し訳ないと思うのか
祈りをいくら向けても向けても
あの子には届かない
私の祈りは
あまりに弱い
私の心が揺れるから
祈りは届かない
御山の主よ
どうして私をあの場所に導いたのだ
悲しみの記憶を
どうにもできない過去を
どうして私に見せたのだ
私がおねえさまなのかはわからない
私にその記憶がないから
だが
たまらなく胸が痛む
心が痛む
私はどうすればいい
たくさんの涙のあとに
内なる奄美の神に問うた
「私はどうすればいいのですか」
奄美の神は応える
『お前の主に委ねよ』
ああ
そうか
私はつかんでいたのだ
悲しみにとらわれて
私は祈る
彼の地に
主エル・カンターレの愛の御光が臨みますように
私は祈る
たくさんの見えない仲間たちと共に
この国は焼き討ちに遭わなかった
私は南の聖地への旅から戻ってきて
待っていたみんなに
たくさんの土産話をする
そしてまたいつものように
稲を育て
稲を刈り
女神の豊穣に感謝するのだ
待たせたね
南の島から戻ってきたよ
たくさんの宝物を持ってきたよ
もっともっと
この国が豊かになりますように
もっともっと
子供達の笑顔が増えますように
たくさんの理想があり
たくさんの現実があり
たくさんの悲しみがあり
今の私があり
未来を創る私がいる
私は祈る
たくさんの愛と共に
理想に向かう道の途中に
委ねる祈りを知る
北九州いのちのたび博物館にて
http://amamikyo.amamin.jp/e201066.html
私は何ができるだろう
御山の主に導かれて
たどり着いたその場所の
悲しみの記憶にふれて
北九州に
縄文中期
かつてあった国が
焼き討ちされ
巫女であった女性が
慕う女性の名を叫びながら焼け死んだ
おねえさま
おねえさま
と
その手が想いが
2012年3月
現代の私の袖をつかむ
おねえさま
やっとお会いできた
行かないで
行かないで
と
私は古代の彼女のすがる腕をふりきり
奄美に帰る飛行機に乗る
私は北九州に
とても大きな後悔を置いて
奄美に帰った
私はおねえさまじゃない
あなたのことは知らない
しかし
なぜこんなに胸が痛むのか
なぜこんなに申し訳ないと思うのか
祈りをいくら向けても向けても
あの子には届かない
私の祈りは
あまりに弱い
私の心が揺れるから
祈りは届かない
御山の主よ
どうして私をあの場所に導いたのだ
悲しみの記憶を
どうにもできない過去を
どうして私に見せたのだ
私がおねえさまなのかはわからない
私にその記憶がないから
だが
たまらなく胸が痛む
心が痛む
私はどうすればいい
たくさんの涙のあとに
内なる奄美の神に問うた
「私はどうすればいいのですか」
奄美の神は応える
『お前の主に委ねよ』
ああ
そうか
私はつかんでいたのだ
悲しみにとらわれて
私は祈る
彼の地に
主エル・カンターレの愛の御光が臨みますように
私は祈る
たくさんの見えない仲間たちと共に
この国は焼き討ちに遭わなかった
私は南の聖地への旅から戻ってきて
待っていたみんなに
たくさんの土産話をする
そしてまたいつものように
稲を育て
稲を刈り
女神の豊穣に感謝するのだ
待たせたね
南の島から戻ってきたよ
たくさんの宝物を持ってきたよ
もっともっと
この国が豊かになりますように
もっともっと
子供達の笑顔が増えますように
たくさんの理想があり
たくさんの現実があり
たくさんの悲しみがあり
今の私があり
未来を創る私がいる
私は祈る
たくさんの愛と共に
理想に向かう道の途中に
委ねる祈りを知る
北九州いのちのたび博物館にて
http://amamikyo.amamin.jp/e201066.html
Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 12:18│Comments(1)
│ぽえむん
この記事へのコメント
肉体から離れると、過去世が、みえてしまうのでしょうか。
それとも、関係者ゆえに、魂のつながりをきっかけにみえてしまうものなのでしょうか。表面意識では忘れ去っているようでも、ずうっと、奥のほうでは、つながりって、絶てない、断たれないものなのかなぁ。
それとも、関係者ゆえに、魂のつながりをきっかけにみえてしまうものなのでしょうか。表面意識では忘れ去っているようでも、ずうっと、奥のほうでは、つながりって、絶てない、断たれないものなのかなぁ。
Posted by hara at 2013年01月26日 13:25
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。