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師匠との日々

2010年02月13日

師匠は、人の心を見抜く人だった。

最初は怖かったが、そのうち開き直った。

「私みたいな小物が、自分を繕ってもしょうがない。目に余るところはご指導くださるのだ。」

そう思ったら、師匠への恐怖心は消えた。

師匠は普段は何も言わなかった。

なさるお話といえば大体が精神的なあるべき姿にかんするお話だけで、霊的なお話はほとんどされることはなかった。

しかし、今ふりかえると、そのお話自体が、当時の私が自覚できていない潜在意識の歪みを見据えたお話だったのだといま、わかる。

ときどき、師匠から叱られることが、ちんぷんかんぷんだった。

何も悩み事などないのに、突然「そんなにマイナス思考でいられると困ります!」とお叱りをいただく。

従順にしているのに、「あまり反発ばかりしちゃダメよ。」と言われる。

それの正体がわかったとき、愕然とした。

それは、「解消できていない過去」だったのだ!

解消できていない過去は、精神レベルでは、現在進行形と同じだと知ったとき、私は「過去と向き合うことの重要さ」をはじめて考えた。

同時に、師匠からつねに言われていた「自分の目線の歪みをただすこと」の重要さを、ようやく考え始めた。

過去をとらえている自分の目線が自分だけの目線だったら、その過去はただのつらい過去だ。

しかし、そこに親の目線や周囲の目線が入れば、過去への認識は違う。

「悲しんでいる私を見守ることしかできなかった周りのつらさ」が、痛いほどに伝わってくる。

そこに神仏の目線が加わればどうか。

その過去にいたった原因と、それによってもたらされたもの、それを私がどれだけ汲み取れたのか、それによってかわる未来、過去がもたらした意味の深さ、本来歩むべき道すじを知ることができる。

このように、現在のこころの立ち位置、ひいては過去への認識というものが、自分をどのように生かしも腐らせもするのだということを、私は師匠から学んだ。

私のこころは、まだまだあさましさ、いやしさにみちている。

自分への誤魔化しも多いし、まだまだ自分を傷つけてもいるだろう。

でも、自分の未熟さにうなだれるそのとき、私は師匠を思い出すのだ。

どんなときにも、誰よりも、人に愛を与えていた師匠。

「どうしてそこまでできるんですか」と問うたら、師匠は笑顔でこうおっしゃった。

「仏からいただいている愛を、ただ流しているだけですよ」

師匠のような、無私の愛の人になりたい。

自らの過ちを見つめ、ただしていく強さとは、「愛の確信」からくるものなのかもしれない。

「愛」とはなんだろう。

そのテーマを、そろそろ真剣に考える時期なのかもしれない。


Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 19:53│Comments(0)
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