天のこころ2010年02月26日
2012年02月28日
(再掲載)
いきなりアヤシゲなタイトルで失礼いたします。(笑)
数年前あるお客様に呼ばれ、出張マッサージに伺った時のことです。
お一人ずつ合計4人のお客様をさせていただいていたのですが、最後のお一人様になんとなく普段と違う感覚を感じていました。
三人の方はどことなく神道系のかほりで『ああ、そちらのご縁で奄美までいらしてくださったんですね。ありがとうございます。』と、まぁフツーにすすんでいたんですが、
最後のお一人様、お子様連れの若いお母様をさせていただこうとした時、ガラリを空気がかわりました。
???と思いなんとかイメージを合わせると、
『主への祈り』
という言葉とともに、美しい賛美歌のような音楽がきこえてきました。
悲しみと祈り。その深くどこまでも透明な想いが天から降り注ぎ、悲しいはずなのに、非常な神々しさをたたえていました。
目に見えない光が降り注ぐ、まるで教会のような雰囲気に圧倒されながらマッサージしていると、若いお母様は、何故かマッサージの間、目に涙をためておられました。
泣くのをこらえてかすかな嗚咽をかみしめておられるのを知り、私はただ、理由もわからぬままマッサージを続けるしかありませんでした。
後日招いてくださった出張先のお客様がご来店くださったので、思い切ってそのことをお伝えしました。すると、お客様の表情が一変しました。
「実はあの女性は、数ヶ月前にご主人を、交通事故で亡くされたんです。
まだ赤ちゃんも生まれたばかりで、上の女の子と坊やも、いまも時々
「パパに会いたい」
と夜泣きするみたいで、とても不憫で・・・・・。
それで今回、少しでもなぐさめになれたらと奄美にお連れしたんですよ・・・・。」
ああ、あの光は、天からのなぐさめだったのか。
亡くなられたご主人の悲しみも、のこされた奥さんの悲しみも、天はすべてご存じだったのですね。
あのどこまでも崇高で優しい悲しみと祈りの光は、若いお母様の悲しみを共にかなしみ、光によって抱きしめる天の想いだったんです。
悲しみや孤独の中に神様の臨在を感じるというのは、たとえではなくまぎれもない本当のことだったのだと、こころに刻まれた出来事でした。
いきなりアヤシゲなタイトルで失礼いたします。(笑)
数年前あるお客様に呼ばれ、出張マッサージに伺った時のことです。
お一人ずつ合計4人のお客様をさせていただいていたのですが、最後のお一人様になんとなく普段と違う感覚を感じていました。
三人の方はどことなく神道系のかほりで『ああ、そちらのご縁で奄美までいらしてくださったんですね。ありがとうございます。』と、まぁフツーにすすんでいたんですが、
最後のお一人様、お子様連れの若いお母様をさせていただこうとした時、ガラリを空気がかわりました。
???と思いなんとかイメージを合わせると、
『主への祈り』
という言葉とともに、美しい賛美歌のような音楽がきこえてきました。
悲しみと祈り。その深くどこまでも透明な想いが天から降り注ぎ、悲しいはずなのに、非常な神々しさをたたえていました。
目に見えない光が降り注ぐ、まるで教会のような雰囲気に圧倒されながらマッサージしていると、若いお母様は、何故かマッサージの間、目に涙をためておられました。
泣くのをこらえてかすかな嗚咽をかみしめておられるのを知り、私はただ、理由もわからぬままマッサージを続けるしかありませんでした。
後日招いてくださった出張先のお客様がご来店くださったので、思い切ってそのことをお伝えしました。すると、お客様の表情が一変しました。
「実はあの女性は、数ヶ月前にご主人を、交通事故で亡くされたんです。
まだ赤ちゃんも生まれたばかりで、上の女の子と坊やも、いまも時々
「パパに会いたい」
と夜泣きするみたいで、とても不憫で・・・・・。
それで今回、少しでもなぐさめになれたらと奄美にお連れしたんですよ・・・・。」
ああ、あの光は、天からのなぐさめだったのか。
亡くなられたご主人の悲しみも、のこされた奥さんの悲しみも、天はすべてご存じだったのですね。
あのどこまでも崇高で優しい悲しみと祈りの光は、若いお母様の悲しみを共にかなしみ、光によって抱きしめる天の想いだったんです。
悲しみや孤独の中に神様の臨在を感じるというのは、たとえではなくまぎれもない本当のことだったのだと、こころに刻まれた出来事でした。
Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 09:44│Comments(0)
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