創作「優しい雨」
2011年10月22日
雨が止まない。
もともと雨の多い奄美大島だが、ここのところの雨は明らかに異常だ。
前年にあった豪雨災害はその象徴と言って良いだろう。
元来雨や台風の多い、いわば水に慣れているはずの奄美が大雨によってあれだけの被害がでるというのは、一体どれだけの量の雨が降ったのか。
しかし里静子はこの奄美に降りる雨が好きだった。
晴れ間から突然降る雨。まるで一陣の風のように、降ったことさえひとときの幻だったかのように、また晴れ間にもどる。
しかし再びの晴れ間の空気が澄んで涼やかなことが、雨の祝福があった事実をわずかにのこしている。
一日降り続く雨。奄美の神々が降ろしてくださった禊ぎ祓いのように、その雨はすべてのケガレを洗い流すように。
すべての人間の世界の喧騒を雨粒に包み込み、すこしずつ、すこしずつ、流してくれる。
土砂降りの雨はまるで代わりに泣いてくれているようだ。
叩きつける雨が内に秘めた激情を鎮めすべて流し去り、心の不安も孤独も過去もすべて激しい雨のなかにとけていく。
その晴れた朝はまるで天国のように輝いてみえる。山が、道が、海が眩しい。
静子は雨あがりの奄美は間違いなく天国だと思う。
本土から奄美を訪れた旅行客は雨にあたるとがっかりするという。その人たちは分かっていないのだ。本当の奄美の雨の美しさを。
雨が山を育み、山は水をつくり、水は命になる。奄美の雨は命そのものなのだ。雨雲は女神の乳房なのだ。
豪雨の爪跡が緑豊かな奄美の山肌に赤茶色の痛々しい傷をのこしてもなお、雨を憎むことはできなかった。
「奄美で一番美しいのは雨ですね」
その言葉に静子は電流が走るような衝撃をうけた。
男の顔を食い入るように見つめる。
「そう思われますか?」
「そうです。雨あがりの山を見てごらんなさい。実に美しい。僕は雨の降る奄美が一番好きです」
まるで自身に愛の告白を受けたように、いやそれ以上に、静子の胸は甘い動揺と子供のような素直な喜びに満たされる。
男の姓は元木。名はわからない。
元木は半年に一度ほどのペースでこの民宿にやってくる。連絡先にはいつも姓しか書かない。
仕事も明かさず、わかっていることは「東京に住んでいること」。静子から見て元木は40代後半だろうか?もしかするともう少し年上かもしれない。
元木はいつも1週間ほど滞在する。
レンタカーで奄美大島中心部・名瀬方面へ出かけ、夕方になると戻ってくる。ときどき、用事が無いときなのか、一日ゆっくり部屋の中で読書などをして過ごすこともある。
普段の会話などは気さくに話してくれるが、たとえば自身のことなどはほとんど語らなかった。
ときどきそういうお客様もいる。静子は深く詮索しようとも思わない。
民宿をはじめて間もなくから元木は常連客としてきていた。
以前違う名前で民宿をしていた経営者から引き継いで内装と外装をすこしアレンジした形だったので、そのときからのお客様なのかもしれない。
静子が経営する民宿「優」は今年で3年目になる。
最期を看取った一人娘に母が残してくれた少しの財産と、結婚8年目に単身赴任先で愛人をつくって離婚した夫から届いたわずかばかりのお金。
それらを合わせて、静子は3年前に龍郷町・芦徳にて念願だった民宿の経営をはじめた。
奄美北部・龍郷町は奄美空港と中心部である都市部・名瀬とのちょうど中間にあたり、なにかと便利がいい。
しかしそれ以上に静子はこの芦徳集落の自然が好きだった。
芦徳集落にはいると空気がすうっと変わる。まるでタイムスリップしたかのように、古代の息吹さえ感じさせる不思議な空気になる。
きっと芦徳には特別な何かがあるのかもしれない。ここはきっと奄美のパワースボットの一つかもしれないと思う。
また芦徳集落の海はとても穏やかで、山のあたたかさと海の涼やかさ、そこにながれる時がとまったかのような静かな空気は、なんともいいがたい自然の調和と神秘を感じさせる。
その芦徳集落の外れに静子の民宿「優」はある。離れに住んでいるのは静子ひとり。
忙しいときにはときどき手伝いに近所の主婦が数人できてくれるが、それ以外ではほとんどすべてを静子ひとりでまかなっていた。
来られるお客様が優しい気持ちになってお帰りいただけるように。奄美の優しさを感じていただけるように。そんな気持ちで静子は民宿の名前を「優」とした。
もう一つ、この名前は生まれてくるはずだった我が子につけようとした名だった。それももう、過ぎた過去だ。
部屋は二部屋。洋室と和室があり、そのどれも海に面している。宣伝などはしたことがないが、ときどき口コミで電話の予約がはいった。
忙しいときには帰省客の家族連れや観光客の団体などで連日にぎやかだが、シーズンオフは静かなものだ。
静子の民宿には3年前まで名瀬に住んでいた静子のために、名瀬から友人たちがよく訪ねてきてくれた。
「こんな静かな場所で心細くない?あなた一人でしょ?」
「早く彼氏でもつくりなさいよ、あなたまだ若いんだから」
「それとも、もう男はこりごり?(笑)」
「せめて、たまには名瀬にもゆっくり遊びにきなさいよ。こんな何も無いところで一人でこもってたらすぐおばあちゃんになっちゃうんだからね」
友人たちの言葉に静子は微笑みながらコーヒーカップを傾ける。
一人が寂しくないことは決してない。孤独に胸をしめつけられそうになる夜もある。
でも、それを誰に慰めてもらうほど自分は心折れてはいない。
寂しさを誰かに慰めてもらうだけの弱い心は不倫して去っていった夫と同じになる。それだけはしたくなかった。
離婚したまだ若い静子に、島の男は何度となく言い寄ってきた。しかしそのどれもが既婚者だった。
正直最低だと思う。あなたは一番大切な人をその瞬間に裏切っているのだと、どうしてわからないのか。
そんな怒りがこみあげるときは、芦徳の浜辺に腰掛けて歌をうたう。
小さく歌をくちづさむと、歌にのせた怒りを奄美の風が預かり、海が受け入れ、すべてを清めてくれる気がした。
風に歌を託し終えると、いつの間にか後ろに男性がたたずんでいた。
「きれいな歌声ですね。なんという歌ですか?」
元木の声に静子はあわてて立ち上がる。
「お恥ずかしいです・・・元木さんに聞かれてしまいましたね」
「どうかお気になさらず。お邪魔して申し訳ありません」
「この歌は、奄美の島唄なんですよ。『ヨイスラ節』という歌なんです・・・では、夕食の支度させていただきますね、失礼します」
怒りを託した歌を聞かれてしまった恥ずかしさに、静子はあわててその場から離れた。
静子の出す食事は決して華やかではない。お客様にお出しするのは和食か奄美の郷土料理だけと、静子は決めている。
洋食で美味しいお店は芦徳のなかだけでもすでに「ホテルネイティブシー奄美」や、「ヴィラ・ゆりむん」、「ホテルカレッタ」などがある。
私は素朴でも心をこめた奄美の料理でお客様におもてなしができたらいい。そう静子は考えている。
今夜のメニューは貝のすまし汁、もずくの酢のもの、パパイヤの漬け物、あおさの天ぷら、エラブチの刺身、ふきの佃煮、切り干し大根とたけのことターマン(奄美の里芋)と豚肉の煮物。
静子の出す奄美の郷土料理を元木はいつも残さず食べてくれる。
「さきほどの歌ですが、なんという意味ですか?」
食事を終えて膳を下げようとした静子に元木が尋ねた。
本土の人間である元木が奄美の島唄に興味をもってくれた事が、静子は素直に嬉しかった。
「・・・『船のヘリに白鷺が止まっている、あれは白鷺ではない、私を護るウナリ神(かみ)だ』という意味です」
「ウナリ神?」
聞き慣れない言葉に再度元木が訪ねる。
「ウナリ神は、奄美の昔からの民俗信仰の一つなんです。もうほとんど忘れ去られていますが・・・・
姉妹(ウナリ)が兄弟(エケリ)を、女性が男性を霊力で護るという考え方なんですよ。
この歌の歌詞は、漁師をしている男性が、船に止まった白鷺が自分を守るウナリ神の魂の化身だと見て、女性の祈りによって自分の漁の安全が護られていることを感謝している意味なんです」
「ほぉ・・・奄美にはそんな神秘的な考え方があるんですか」
「もう古いお話です・・・・ですから、航海や旅に出るときの男性は、姉妹や大事な女性から護りの手ぬぐいをいただくことがあったみたいです。」
「それを身につけることで、ウナリ神・・・女性からの霊力による加護が得られるということですね?」
「そうだと思います。すくなくとも、昔の奄美では女性には目に見えない力があり、その力は男性よりも勝ると信じられていたみたいですね・・・・あっ」
そこまで語って静子はふと我に還った。おしゃべりがすぎた自分をひどく恥じた。
「・・・すみません」
元木は目を細めて微笑んでいる。
「どうして謝るのですか。私はいま里さんのお話がとても興味深く聞けました。
ウナリ神・・・美しい言葉ですね」
「ありがとうございます・・・・」
「女性が男性を祈りの霊力で護る。まるで今の考え方とは逆ですね」
「そうですね。女性は男性を祈りで護り、男性は女性を力で護る。この調和が、奄美の古代の姿だったのかもしれませんね・・・」
「里さんもウナリ神なんですね」
「奄美の女性はきっとみんなそうなんだと思います。いえ、本当はすべての女性が・・・。
私は護る男性はいませんけど、この民宿を護っています(笑)」
静子は照れながら膳をさげた。
次の日から元木は一週間ほど不在にしていた。私用があり、名瀬のホテルに泊まるという。
その間の料金を固辞しようとしたが、元木から
「荷物は持っていきますが、どうか私の部屋をそのままにしていてください。
いつもどってくるかわかりませんから。その間の料金はお支払いします」
と言われていた。
一週間をすぎた小雨の夜、元木が戻ってきた。
すこしだけ疲れているように見える。いつもの一見穏やかな顔立ちにたたえられた独特の覇気が感じられない。
「元木さんおかえりなさい。お食事はお済みですか?」
「いえ、食事は結構です。ああ、お茶をいただけませんか」
小雨が止み、外では鈴虫の鳴き声が静かに響いている。奄美の夜もそろそろ肌寒くなってきている。
「名瀬の町はまぶしすぎていけない。やはり芦徳の夜が一番ですね」
「そうですね。こちらの夜は静かで星もきれいですから」
「●●病院に妻が入院していたんです。」
静子の手が止まった。
「ずっと、妻と面会するために通っていました。先日、妻が自殺しました」
動揺を隠して静子は元木にお茶を差し出す。元木の目はこちらではないどこか遠くを見ている。
「数年前僕が浮気をしたせいで、妻は心を病みました。
僕は知らなかった。妻がそれほどに追いつめられていたことを。
妻が耐えていたことに甘えて、僕はひどいことをしていました。
妻が壊れたとき、僕ははじめて妻がどんな女性よりもかけがえのない人だと知ったんです。
でも、もうすべてが遅かった。
妻のお骨は妻の兄弟の手で、妻の実家のお墓におさめました。
もう、奄美にくることもないと思います」
元木は静子が出したお茶に手をつけなかった。
「・・・お悔やみ申し上げます・・・」
静子にはやっとそれを言うのが精一杯だった。
元木はやわらかく微笑んだ。しかしその笑顔は泣いているように静子には見えた。
沈黙だけが流れる。静子は心の奥でたくさんの自分の声をきいた。
元木さんは別れた夫と同じことをしていた。最低だ。この人は最低だ。
許せない。この場でできるならひっぱたいてやりたい。
でも、元木さんはずっと罪を償おうとした。でも遅かった。
当然よ。自業自得だわ。
だから、ずっと素性を隠していたの?
でも元木さんはできるかぎりのことをして、失った時間を取り戻そうとしたじゃない。
イヤ。許したくない。許せば、夫を・・・あの人を許さなければいけなくなるかもしれない。
元木さんとこれまでと同じように私は接することができる?
元木さん、本当にもう奄美には来てくださらないの?
「里さん、もう一杯お茶をいただけませんか?」
沈黙を破った元木は静子に詫びた。
「すみません、せっかく煎れていただいたお茶が冷めてしまいました」
動くことで少しでもこの空気・・・自分の内面の葛藤から離れられることに静子は安堵した。
新しく煎れなおしたお茶を、元木は美味しそうに飲み干した。
「ありがとう、ごちそうさまでした。明日帰ります」
席を立つ元木を見たとき、静子は元木ともう二度と会えないかもしれない事への、説明できない不安と怒りの感情に襲われた。
背中を向け自室に去ろうとした元木に思わず気持ちをぶつけていた。
「私、夫に不倫され、離婚されました」
元木の足が止まる。
「事故で子供を流産し、もうできないだろうとお医者さんに言われました。
そのあと夫は私を捨てました。私が悪かったんです。彼はずっと子供をほしがってたから。
でも、それでも夫を許せないんです」
こんなことを元木に言ってなんになるのか。元木をさらに責めるだけではないか。
「元木さん、もう奄美に来ないなんて言わないでください」
自分は何を言ってるのだろう。支離滅裂だ。
いつの間にか涙が溢れていた。
元木は深い眼差しで静子を見つめた。
「静子さん、ありがとう」
元木が自分の気持ちのすべてを受け取ってくれた気がした。
自室に戻る元木の背を見つめながら、静子は声を殺して泣いた。
次の日、元木は東京に戻っていった。
いつもとかわらぬ様子で、静子もいつもと変わらぬように振る舞った。
静子はお帰りになるお客様にはかならず奄美のお土産をお持たせする。
そのときによって内容は異なるが、観光客などには概ね好評だ。
元木へのお土産の紙袋に、静子は他のお土産の隅に隠して、和紙に包んだ真新しい白のハンカチをいれた。
自分は一体元木に何を求めているのか。元木さんに対して失礼ではないのか。自分に問い続けても、そうしたい思いを抑えられなかった。
「またのお越しをお待ちしております」
いつもと同じように見送る静子に、いつもと同じように元木は笑顔でこたえた。
半年経ち、一年経ち、二年経ち、三年が経とうとしている。元木から連絡はなかった。
その間、庭のヒカゲヘゴは一本増えて三本となり、近くのビッグ2の花売り場のおかげで庭の花は見違えるほどに増えて色鮮やかになった。
来られるお客様は、まず庭の花の見事さに歓声をあげる。しかし静子が一番好きな花は月桃の花だ。
奄美の野山に咲く月桃は独特の香りの芳しさが奄美の人間にはひどく懐かしいが、それ以上に月桃の花の真っ白なつぼみは、やわらかな気品と生命力を感じさせる不思議な艶やかさにあふれ、まるで女神の乳房のようにも見える。
玄関の昇降口に裏山から採ってきたばかりの月桃を飾っていると、民宿の電話が鳴った。
もしかしたら・・・・そんな思いで電話をとることが増えた。
しかし、電話の向こうから聞こえてきたその声。静子は慄然とした。
電話の主はかつて夫だった人物だった。
不倫し、静子と別れたあとに再婚した妻との間にできた子供には、先天性の疾患があったという。
その治療費が足りない、助けてほしい、自分がやったお金を返してほしいとの言葉に、静子はかえす言葉を失った。
以前の自分なら一方的に責め立て、ののしり、電話をきっていたかもしれない。
しかし彼の「護るもの」を知り、責める気持ちが急激にしぼんでいく自分をおぼえていた。
愛する者を護れなかった償いを背負い続けた男の顔がうかんだ。
元木のことを想う。
もう、元木さんのような悲しみを他の人に背負ってほしくはない。
かつての夫はいま、自分の愛するものを懸命に護ろうとしている。そのために恥も外聞も捨てて戦っている。
私は?いつまで自分が傷つけられた過去にこだわるの?
「いいわ。振込先を教えて。お子さんが早くよくなるといいわね」
その静子の言葉に電話の向こうのかつての夫は驚き、動揺していた。しかしその反応はすぐに絞り出すような感謝と謝罪の言葉に変わった。
「男がそんなことで泣いちゃダメよ。あなたにはもう護るものがあるんだから。
お金の協力はあまりできないかもしれないけど、何かあったらできるかぎりのことはするから。
ええ、奥さんとお子さんを大切にね。ええ、あなたも無理しないで。じゃあね」
静子はすぐに車を出した。車で7分ほどの赤尾木郵便局にて、電話で聞いた口座にお見舞いまで含めて少し過分なお金を振り込んだ。
少し寂しかった。でも、心はなぜかとても軽かった。長年のしこりが静かに流されていく気がした。
元木のことが何度も思い出された。元木さん、どうしておられるだろう。
夏ももうそろそろ終わり。
いつもより肌寒い10月に静子はそう考えている。
奄美は10月まではあたたかいものだが、今年はとにかく夜が肌寒くなるのが早い。
天候が不安定なのだろう。まだ暑いはずの夜が肌寒く、いままでにない勢いですぐに天気が崩れる。
今日も、さきほどまで晴れていたのにもう土砂降りの雨だ。
しかし雨が降るときは静子には安心できる。
雨の夜は、元木のことを想い祈る。無事でありますように、苦難・困難から守られますように。
民宿の電話が鳴った。
「お久しぶりです。元木です」
その声に静子の胸ははげしく高鳴った。
「突然ですみません。今、奄美空港にいます。お部屋は空いてますか?」
数十分後、駐車場にレンタカーが止まった。
雨のなかかまわず静子は駆け出す。
元木は三年前と変わらず微笑んでいた。
「元木さん、おかえりなさい」
「ただいま、静子さん」
玄関にはいると、元木の手から旅行鞄がおちた。それが当然のことであるかのように、二人は抱擁した。
優しく、激しく口づけする。
言葉はいらない。
静子をかかえたまま洋室のベッドにくずれおちる。
衣擦れの音と吐息は外の雨音にかき消される。
互いを労るかのように、いままでの悲しみをすべて洗い流すかのように、長く愛を交わし合った。
「僕の名前は優といいます」
「まぁ、それで・・・・」
「ええ、最初にこの民宿の名前をうかがったとき、恥ずかしくて自分の名前を名乗れませんでした」
「そうだったんですね・・・」
元木の腕のなかで静子はクスリと笑う。
「あのハンカチに、僕は助けられたんです」
「・・・・それは?」
「妻を失い、僕は自分の罪へのけじめとして死を思いました」
静子の体に緊張が走る。それを察したように、元木はきつく静子の裸身を抱きしめる。
「死のうとした僕は、あのハンカチを見たときに、どうしても死ねなかった。
何度も静子さんの顔が浮かんで、僕をとどめてくれました。
あなたが、ウナリ神になって僕を護ってくれたんですよ」
「私が・・・元木さんを・・・・」
静子の目から涙が溢れた。元木はそれを指先でやさしくで拭う。
「静子さん、ありがとう」
もう一度、深く口づけた。静子は元木の愛を全身で受け止める。
元木の唇は女神の乳房に何度も祝福のキスを捧げる。
元木にとって静子は祝福の女神だった。
奄美の雨はやさしさにみちていた。
誰が、奄美の雨を拒むだろうか。
雨が山を育み、山は水をつくり、水は命になる。
奄美の雨は命を育む女神の祝福だ。
心の不安も孤独も過去も、すべて優しく激しい雨のなかにとけていく。
その晴れた朝はまるで天国のように輝いてみえるだろう。
奄美は女神の島なのだ。
(了)
もともと雨の多い奄美大島だが、ここのところの雨は明らかに異常だ。
前年にあった豪雨災害はその象徴と言って良いだろう。
元来雨や台風の多い、いわば水に慣れているはずの奄美が大雨によってあれだけの被害がでるというのは、一体どれだけの量の雨が降ったのか。
しかし里静子はこの奄美に降りる雨が好きだった。
晴れ間から突然降る雨。まるで一陣の風のように、降ったことさえひとときの幻だったかのように、また晴れ間にもどる。
しかし再びの晴れ間の空気が澄んで涼やかなことが、雨の祝福があった事実をわずかにのこしている。
一日降り続く雨。奄美の神々が降ろしてくださった禊ぎ祓いのように、その雨はすべてのケガレを洗い流すように。
すべての人間の世界の喧騒を雨粒に包み込み、すこしずつ、すこしずつ、流してくれる。
土砂降りの雨はまるで代わりに泣いてくれているようだ。
叩きつける雨が内に秘めた激情を鎮めすべて流し去り、心の不安も孤独も過去もすべて激しい雨のなかにとけていく。
その晴れた朝はまるで天国のように輝いてみえる。山が、道が、海が眩しい。
静子は雨あがりの奄美は間違いなく天国だと思う。
本土から奄美を訪れた旅行客は雨にあたるとがっかりするという。その人たちは分かっていないのだ。本当の奄美の雨の美しさを。
雨が山を育み、山は水をつくり、水は命になる。奄美の雨は命そのものなのだ。雨雲は女神の乳房なのだ。
豪雨の爪跡が緑豊かな奄美の山肌に赤茶色の痛々しい傷をのこしてもなお、雨を憎むことはできなかった。
「奄美で一番美しいのは雨ですね」
その言葉に静子は電流が走るような衝撃をうけた。
男の顔を食い入るように見つめる。
「そう思われますか?」
「そうです。雨あがりの山を見てごらんなさい。実に美しい。僕は雨の降る奄美が一番好きです」
まるで自身に愛の告白を受けたように、いやそれ以上に、静子の胸は甘い動揺と子供のような素直な喜びに満たされる。
男の姓は元木。名はわからない。
元木は半年に一度ほどのペースでこの民宿にやってくる。連絡先にはいつも姓しか書かない。
仕事も明かさず、わかっていることは「東京に住んでいること」。静子から見て元木は40代後半だろうか?もしかするともう少し年上かもしれない。
元木はいつも1週間ほど滞在する。
レンタカーで奄美大島中心部・名瀬方面へ出かけ、夕方になると戻ってくる。ときどき、用事が無いときなのか、一日ゆっくり部屋の中で読書などをして過ごすこともある。
普段の会話などは気さくに話してくれるが、たとえば自身のことなどはほとんど語らなかった。
ときどきそういうお客様もいる。静子は深く詮索しようとも思わない。
民宿をはじめて間もなくから元木は常連客としてきていた。
以前違う名前で民宿をしていた経営者から引き継いで内装と外装をすこしアレンジした形だったので、そのときからのお客様なのかもしれない。
静子が経営する民宿「優」は今年で3年目になる。
最期を看取った一人娘に母が残してくれた少しの財産と、結婚8年目に単身赴任先で愛人をつくって離婚した夫から届いたわずかばかりのお金。
それらを合わせて、静子は3年前に龍郷町・芦徳にて念願だった民宿の経営をはじめた。
奄美北部・龍郷町は奄美空港と中心部である都市部・名瀬とのちょうど中間にあたり、なにかと便利がいい。
しかしそれ以上に静子はこの芦徳集落の自然が好きだった。
芦徳集落にはいると空気がすうっと変わる。まるでタイムスリップしたかのように、古代の息吹さえ感じさせる不思議な空気になる。
きっと芦徳には特別な何かがあるのかもしれない。ここはきっと奄美のパワースボットの一つかもしれないと思う。
また芦徳集落の海はとても穏やかで、山のあたたかさと海の涼やかさ、そこにながれる時がとまったかのような静かな空気は、なんともいいがたい自然の調和と神秘を感じさせる。
その芦徳集落の外れに静子の民宿「優」はある。離れに住んでいるのは静子ひとり。
忙しいときにはときどき手伝いに近所の主婦が数人できてくれるが、それ以外ではほとんどすべてを静子ひとりでまかなっていた。
来られるお客様が優しい気持ちになってお帰りいただけるように。奄美の優しさを感じていただけるように。そんな気持ちで静子は民宿の名前を「優」とした。
もう一つ、この名前は生まれてくるはずだった我が子につけようとした名だった。それももう、過ぎた過去だ。
部屋は二部屋。洋室と和室があり、そのどれも海に面している。宣伝などはしたことがないが、ときどき口コミで電話の予約がはいった。
忙しいときには帰省客の家族連れや観光客の団体などで連日にぎやかだが、シーズンオフは静かなものだ。
静子の民宿には3年前まで名瀬に住んでいた静子のために、名瀬から友人たちがよく訪ねてきてくれた。
「こんな静かな場所で心細くない?あなた一人でしょ?」
「早く彼氏でもつくりなさいよ、あなたまだ若いんだから」
「それとも、もう男はこりごり?(笑)」
「せめて、たまには名瀬にもゆっくり遊びにきなさいよ。こんな何も無いところで一人でこもってたらすぐおばあちゃんになっちゃうんだからね」
友人たちの言葉に静子は微笑みながらコーヒーカップを傾ける。
一人が寂しくないことは決してない。孤独に胸をしめつけられそうになる夜もある。
でも、それを誰に慰めてもらうほど自分は心折れてはいない。
寂しさを誰かに慰めてもらうだけの弱い心は不倫して去っていった夫と同じになる。それだけはしたくなかった。
離婚したまだ若い静子に、島の男は何度となく言い寄ってきた。しかしそのどれもが既婚者だった。
正直最低だと思う。あなたは一番大切な人をその瞬間に裏切っているのだと、どうしてわからないのか。
そんな怒りがこみあげるときは、芦徳の浜辺に腰掛けて歌をうたう。
小さく歌をくちづさむと、歌にのせた怒りを奄美の風が預かり、海が受け入れ、すべてを清めてくれる気がした。
風に歌を託し終えると、いつの間にか後ろに男性がたたずんでいた。
「きれいな歌声ですね。なんという歌ですか?」
元木の声に静子はあわてて立ち上がる。
「お恥ずかしいです・・・元木さんに聞かれてしまいましたね」
「どうかお気になさらず。お邪魔して申し訳ありません」
「この歌は、奄美の島唄なんですよ。『ヨイスラ節』という歌なんです・・・では、夕食の支度させていただきますね、失礼します」
怒りを託した歌を聞かれてしまった恥ずかしさに、静子はあわててその場から離れた。
静子の出す食事は決して華やかではない。お客様にお出しするのは和食か奄美の郷土料理だけと、静子は決めている。
洋食で美味しいお店は芦徳のなかだけでもすでに「ホテルネイティブシー奄美」や、「ヴィラ・ゆりむん」、「ホテルカレッタ」などがある。
私は素朴でも心をこめた奄美の料理でお客様におもてなしができたらいい。そう静子は考えている。
今夜のメニューは貝のすまし汁、もずくの酢のもの、パパイヤの漬け物、あおさの天ぷら、エラブチの刺身、ふきの佃煮、切り干し大根とたけのことターマン(奄美の里芋)と豚肉の煮物。
静子の出す奄美の郷土料理を元木はいつも残さず食べてくれる。
「さきほどの歌ですが、なんという意味ですか?」
食事を終えて膳を下げようとした静子に元木が尋ねた。
本土の人間である元木が奄美の島唄に興味をもってくれた事が、静子は素直に嬉しかった。
「・・・『船のヘリに白鷺が止まっている、あれは白鷺ではない、私を護るウナリ神(かみ)だ』という意味です」
「ウナリ神?」
聞き慣れない言葉に再度元木が訪ねる。
「ウナリ神は、奄美の昔からの民俗信仰の一つなんです。もうほとんど忘れ去られていますが・・・・
姉妹(ウナリ)が兄弟(エケリ)を、女性が男性を霊力で護るという考え方なんですよ。
この歌の歌詞は、漁師をしている男性が、船に止まった白鷺が自分を守るウナリ神の魂の化身だと見て、女性の祈りによって自分の漁の安全が護られていることを感謝している意味なんです」
「ほぉ・・・奄美にはそんな神秘的な考え方があるんですか」
「もう古いお話です・・・・ですから、航海や旅に出るときの男性は、姉妹や大事な女性から護りの手ぬぐいをいただくことがあったみたいです。」
「それを身につけることで、ウナリ神・・・女性からの霊力による加護が得られるということですね?」
「そうだと思います。すくなくとも、昔の奄美では女性には目に見えない力があり、その力は男性よりも勝ると信じられていたみたいですね・・・・あっ」
そこまで語って静子はふと我に還った。おしゃべりがすぎた自分をひどく恥じた。
「・・・すみません」
元木は目を細めて微笑んでいる。
「どうして謝るのですか。私はいま里さんのお話がとても興味深く聞けました。
ウナリ神・・・美しい言葉ですね」
「ありがとうございます・・・・」
「女性が男性を祈りの霊力で護る。まるで今の考え方とは逆ですね」
「そうですね。女性は男性を祈りで護り、男性は女性を力で護る。この調和が、奄美の古代の姿だったのかもしれませんね・・・」
「里さんもウナリ神なんですね」
「奄美の女性はきっとみんなそうなんだと思います。いえ、本当はすべての女性が・・・。
私は護る男性はいませんけど、この民宿を護っています(笑)」
静子は照れながら膳をさげた。
次の日から元木は一週間ほど不在にしていた。私用があり、名瀬のホテルに泊まるという。
その間の料金を固辞しようとしたが、元木から
「荷物は持っていきますが、どうか私の部屋をそのままにしていてください。
いつもどってくるかわかりませんから。その間の料金はお支払いします」
と言われていた。
一週間をすぎた小雨の夜、元木が戻ってきた。
すこしだけ疲れているように見える。いつもの一見穏やかな顔立ちにたたえられた独特の覇気が感じられない。
「元木さんおかえりなさい。お食事はお済みですか?」
「いえ、食事は結構です。ああ、お茶をいただけませんか」
小雨が止み、外では鈴虫の鳴き声が静かに響いている。奄美の夜もそろそろ肌寒くなってきている。
「名瀬の町はまぶしすぎていけない。やはり芦徳の夜が一番ですね」
「そうですね。こちらの夜は静かで星もきれいですから」
「●●病院に妻が入院していたんです。」
静子の手が止まった。
「ずっと、妻と面会するために通っていました。先日、妻が自殺しました」
動揺を隠して静子は元木にお茶を差し出す。元木の目はこちらではないどこか遠くを見ている。
「数年前僕が浮気をしたせいで、妻は心を病みました。
僕は知らなかった。妻がそれほどに追いつめられていたことを。
妻が耐えていたことに甘えて、僕はひどいことをしていました。
妻が壊れたとき、僕ははじめて妻がどんな女性よりもかけがえのない人だと知ったんです。
でも、もうすべてが遅かった。
妻のお骨は妻の兄弟の手で、妻の実家のお墓におさめました。
もう、奄美にくることもないと思います」
元木は静子が出したお茶に手をつけなかった。
「・・・お悔やみ申し上げます・・・」
静子にはやっとそれを言うのが精一杯だった。
元木はやわらかく微笑んだ。しかしその笑顔は泣いているように静子には見えた。
沈黙だけが流れる。静子は心の奥でたくさんの自分の声をきいた。
元木さんは別れた夫と同じことをしていた。最低だ。この人は最低だ。
許せない。この場でできるならひっぱたいてやりたい。
でも、元木さんはずっと罪を償おうとした。でも遅かった。
当然よ。自業自得だわ。
だから、ずっと素性を隠していたの?
でも元木さんはできるかぎりのことをして、失った時間を取り戻そうとしたじゃない。
イヤ。許したくない。許せば、夫を・・・あの人を許さなければいけなくなるかもしれない。
元木さんとこれまでと同じように私は接することができる?
元木さん、本当にもう奄美には来てくださらないの?
「里さん、もう一杯お茶をいただけませんか?」
沈黙を破った元木は静子に詫びた。
「すみません、せっかく煎れていただいたお茶が冷めてしまいました」
動くことで少しでもこの空気・・・自分の内面の葛藤から離れられることに静子は安堵した。
新しく煎れなおしたお茶を、元木は美味しそうに飲み干した。
「ありがとう、ごちそうさまでした。明日帰ります」
席を立つ元木を見たとき、静子は元木ともう二度と会えないかもしれない事への、説明できない不安と怒りの感情に襲われた。
背中を向け自室に去ろうとした元木に思わず気持ちをぶつけていた。
「私、夫に不倫され、離婚されました」
元木の足が止まる。
「事故で子供を流産し、もうできないだろうとお医者さんに言われました。
そのあと夫は私を捨てました。私が悪かったんです。彼はずっと子供をほしがってたから。
でも、それでも夫を許せないんです」
こんなことを元木に言ってなんになるのか。元木をさらに責めるだけではないか。
「元木さん、もう奄美に来ないなんて言わないでください」
自分は何を言ってるのだろう。支離滅裂だ。
いつの間にか涙が溢れていた。
元木は深い眼差しで静子を見つめた。
「静子さん、ありがとう」
元木が自分の気持ちのすべてを受け取ってくれた気がした。
自室に戻る元木の背を見つめながら、静子は声を殺して泣いた。
次の日、元木は東京に戻っていった。
いつもとかわらぬ様子で、静子もいつもと変わらぬように振る舞った。
静子はお帰りになるお客様にはかならず奄美のお土産をお持たせする。
そのときによって内容は異なるが、観光客などには概ね好評だ。
元木へのお土産の紙袋に、静子は他のお土産の隅に隠して、和紙に包んだ真新しい白のハンカチをいれた。
自分は一体元木に何を求めているのか。元木さんに対して失礼ではないのか。自分に問い続けても、そうしたい思いを抑えられなかった。
「またのお越しをお待ちしております」
いつもと同じように見送る静子に、いつもと同じように元木は笑顔でこたえた。
半年経ち、一年経ち、二年経ち、三年が経とうとしている。元木から連絡はなかった。
その間、庭のヒカゲヘゴは一本増えて三本となり、近くのビッグ2の花売り場のおかげで庭の花は見違えるほどに増えて色鮮やかになった。
来られるお客様は、まず庭の花の見事さに歓声をあげる。しかし静子が一番好きな花は月桃の花だ。
奄美の野山に咲く月桃は独特の香りの芳しさが奄美の人間にはひどく懐かしいが、それ以上に月桃の花の真っ白なつぼみは、やわらかな気品と生命力を感じさせる不思議な艶やかさにあふれ、まるで女神の乳房のようにも見える。
玄関の昇降口に裏山から採ってきたばかりの月桃を飾っていると、民宿の電話が鳴った。
もしかしたら・・・・そんな思いで電話をとることが増えた。
しかし、電話の向こうから聞こえてきたその声。静子は慄然とした。
電話の主はかつて夫だった人物だった。
不倫し、静子と別れたあとに再婚した妻との間にできた子供には、先天性の疾患があったという。
その治療費が足りない、助けてほしい、自分がやったお金を返してほしいとの言葉に、静子はかえす言葉を失った。
以前の自分なら一方的に責め立て、ののしり、電話をきっていたかもしれない。
しかし彼の「護るもの」を知り、責める気持ちが急激にしぼんでいく自分をおぼえていた。
愛する者を護れなかった償いを背負い続けた男の顔がうかんだ。
元木のことを想う。
もう、元木さんのような悲しみを他の人に背負ってほしくはない。
かつての夫はいま、自分の愛するものを懸命に護ろうとしている。そのために恥も外聞も捨てて戦っている。
私は?いつまで自分が傷つけられた過去にこだわるの?
「いいわ。振込先を教えて。お子さんが早くよくなるといいわね」
その静子の言葉に電話の向こうのかつての夫は驚き、動揺していた。しかしその反応はすぐに絞り出すような感謝と謝罪の言葉に変わった。
「男がそんなことで泣いちゃダメよ。あなたにはもう護るものがあるんだから。
お金の協力はあまりできないかもしれないけど、何かあったらできるかぎりのことはするから。
ええ、奥さんとお子さんを大切にね。ええ、あなたも無理しないで。じゃあね」
静子はすぐに車を出した。車で7分ほどの赤尾木郵便局にて、電話で聞いた口座にお見舞いまで含めて少し過分なお金を振り込んだ。
少し寂しかった。でも、心はなぜかとても軽かった。長年のしこりが静かに流されていく気がした。
元木のことが何度も思い出された。元木さん、どうしておられるだろう。
夏ももうそろそろ終わり。
いつもより肌寒い10月に静子はそう考えている。
奄美は10月まではあたたかいものだが、今年はとにかく夜が肌寒くなるのが早い。
天候が不安定なのだろう。まだ暑いはずの夜が肌寒く、いままでにない勢いですぐに天気が崩れる。
今日も、さきほどまで晴れていたのにもう土砂降りの雨だ。
しかし雨が降るときは静子には安心できる。
雨の夜は、元木のことを想い祈る。無事でありますように、苦難・困難から守られますように。
民宿の電話が鳴った。
「お久しぶりです。元木です」
その声に静子の胸ははげしく高鳴った。
「突然ですみません。今、奄美空港にいます。お部屋は空いてますか?」
数十分後、駐車場にレンタカーが止まった。
雨のなかかまわず静子は駆け出す。
元木は三年前と変わらず微笑んでいた。
「元木さん、おかえりなさい」
「ただいま、静子さん」
玄関にはいると、元木の手から旅行鞄がおちた。それが当然のことであるかのように、二人は抱擁した。
優しく、激しく口づけする。
言葉はいらない。
静子をかかえたまま洋室のベッドにくずれおちる。
衣擦れの音と吐息は外の雨音にかき消される。
互いを労るかのように、いままでの悲しみをすべて洗い流すかのように、長く愛を交わし合った。
「僕の名前は優といいます」
「まぁ、それで・・・・」
「ええ、最初にこの民宿の名前をうかがったとき、恥ずかしくて自分の名前を名乗れませんでした」
「そうだったんですね・・・」
元木の腕のなかで静子はクスリと笑う。
「あのハンカチに、僕は助けられたんです」
「・・・・それは?」
「妻を失い、僕は自分の罪へのけじめとして死を思いました」
静子の体に緊張が走る。それを察したように、元木はきつく静子の裸身を抱きしめる。
「死のうとした僕は、あのハンカチを見たときに、どうしても死ねなかった。
何度も静子さんの顔が浮かんで、僕をとどめてくれました。
あなたが、ウナリ神になって僕を護ってくれたんですよ」
「私が・・・元木さんを・・・・」
静子の目から涙が溢れた。元木はそれを指先でやさしくで拭う。
「静子さん、ありがとう」
もう一度、深く口づけた。静子は元木の愛を全身で受け止める。
元木の唇は女神の乳房に何度も祝福のキスを捧げる。
元木にとって静子は祝福の女神だった。
奄美の雨はやさしさにみちていた。
誰が、奄美の雨を拒むだろうか。
雨が山を育み、山は水をつくり、水は命になる。
奄美の雨は命を育む女神の祝福だ。
心の不安も孤独も過去も、すべて優しく激しい雨のなかにとけていく。
その晴れた朝はまるで天国のように輝いてみえるだろう。
奄美は女神の島なのだ。
(了)
Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 15:56│Comments(2)
│雑文
この記事へのコメント
このお話は、
水明のけがれた心を
清めてくれた気がします。
どうもありがとうございました。
水明のけがれた心を
清めてくれた気がします。
どうもありがとうございました。
Posted by 月下水明 at 2011年10月22日 17:48
とても大人で素敵な物語をありがとうございます!
たくさん気付きが含まれていて、それでいて
島歌のようなしっとりとした魅力にあふれています。
また書いて下さいね。
たくさん気付きが含まれていて、それでいて
島歌のようなしっとりとした魅力にあふれています。
また書いて下さいね。
Posted by もーむ at 2011年10月23日 00:10
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