意識と守護霊との関係(師匠話限定復活)
2011年10月12日
最近ごく一部で「守護霊の暴走」が話題になってるみたいですので、ここでアマミちゃんのびみょーな体験談をしてしんぜよう。
(・∀・)
ちなみに師匠はごくフツーの幸福の科学会員で、ごくフツーのおばちゃんで、私のマッサージの先生です。好物はカニと辛いのです。(客商売なんでキムチは不可)
師匠好きなそこのあなた、師匠に貢ぎ物をもっていくときはカニにしたまへ。(笑)
最近ブログにきた人に「師匠って誰ですか?」とよくきかれるので。
隊長は某神社の神主さんです。幸福の科学とは関係ありません。48歳、既婚、絶倫です。
え?きいてない?
さて、そんな師匠との日々で、私が学んだことが一つある。
それは「守護霊は自分の分身であり、決してカンペキではない」ということ。
そして「守護霊も自分も、相手を霊的に一方的に傷つけることがある」ということだった。
ある日、師匠に突然呼び出された私。
「アマちゃん、私に不平不満があるならちゃんと言いなさい!」
いきなり説教をいただきました。
私は「なんのことですか?( ゚Д゚)ポカーン」状態。
この意味がわかるのは一ヶ月後のことでした。
一ヶ月後、あることがきっかけに私は師匠に対し不平不満のカタマリになったんですね。
不平不満というより、もう「被害妄想」状態ですね。
「こんなにやってるのに師匠はわかってくれない!師匠は私がにくいんだ!」となるわけですね。
もう、心は煮え湯を飲んだ状態となり、被害妄想で精神的に暴風雨です。
こうなると、もう自分でどう反省しようとしてもムリです。
このときはハッキリ言って、師匠にいただく言葉のすべてにいちいち口答えがでるんですね。「でも~」とか「私はこういうつもりで~」とかが入って、自己正当化と言い訳と責任転嫁の嵐です。
結局、その被害妄想の呪縛を解くにはただ一つ。
「自分の言い分をすべて捨て、師匠の見識(師匠の教え)をすべて受け入れる」
これしかありませんでした。その場では納得しがたい師匠の見識を、全部受け入れるんです。
とても不思議なことに「私の言い分もわかってほしい!」と思っていたときには心は泥沼なのに、
清水の舞台から飛び降りる気持ちで自分の言い分を捨て、
「師匠の見識にすべてを委ねます!」
と決めた途端、目の前が「パン!!」と晴れるのはなんとも言えない感覚でした。
これは結局「我」を捨てることで、「つかんでいた執着」(+ここに憑いてた悪霊)を捨てたんですね。
自分の言い分や「私の気持ちを理解してほしい」という思いさえも『執着』なのだと知った瞬間は大変な驚きであり、また、
「師匠の見識を受け入れた」と同時に「パン!」と視界が晴れ、自分が招いた因果の全体が見え、自分の過ちがキレイに見えたときの恥ずかしさと不思議な清々しさは、とても言い表すことができないものでした。
反省をしようと思ってもできない方、最終手段として「自分の言い分をすべて捨て」て「大いなる見識(教え)に自らを全託する」ことはとても大事です。
自分が納得できるできないは別として、やはり「自分より認識の高い人の意見が正しい」んですね。
アマミちゃんオヌヌメだっちゃよ☆
(・∀・)
さて、師匠はどうして私が不平不満の蓄積から被害妄想のカタマリになると一ヶ月前にわかったのでしょう。
それは、なんと私の守護霊が一ヶ月も前に「不平不満のカタマリとなって、師匠に抗議にいった」そうなんです。
それはどういうことかというと、守護霊というのは潜在意識とつながってるといわれますね。
たとえば、コップがあります。コップの七分目までが潜在意識で、そこから上が顕在意識(自分で自覚できる心)だとします。
そこに一滴ずつ不平不満がたまると、三分目と半分まできたときに、守護霊としてはもう精神領域の半分まで不平不満がたまってしまったので、たまらず行動を起こすわけです。
しかし当の本人は、七分目まで不平不満がたまるまで一ヶ月間自覚なく、あるときをきっかけに七分目からあふれたときに、すでに心の七割が不平不満に支配されていることが急激に自覚され、「ここまで不平不満がたまったのはお前のせいだ!」と被害妄想に囚われてしまったというわけですね。
「一ヶ月前から夜中になるとときどきアマちゃんの顔がとんできて、私にわーっと文句をぶつけていたのよ。ある程度きいてあげると落ち着いて帰るんだけど、アマちゃんが気持ちが揺れたりするとまた文句を言いに来るの。あれはアマちゃんの念というより、守護霊さんなのね。(寝ているときには潜在意識が解放されるので、守護霊さんが野放しになるらしい)
アマちゃん、ちゃんと仏法真理を学びなさいね。ちゃんと心を見つめるのよ。守護霊さんは、自分で制御するの。アマちゃんの潜在意識が、守護霊さんなんだからね」
師匠によると、守護霊とは別に、師匠の説教に対し私の反発の念が刀になって斬りつけてきたことも度々あったのだという。もちろん師匠はその場合霊的に無事ではすまない。しかし師匠は「返すこともできたけれど、返すとアマちゃんが倒れるから」と、そのまま受け止めてくださったのだという。
師匠・・・・本当に申し訳ありません・・・・。
。・゚・(ノД`)・゚・。
自らの心に盲目であるということが、どれほどおそろしいかということを、私は師匠により学ばせていただきました。
敬愛する方へさえも、反発を抱けば念の刀で斬りつけ、不平不満がたまれば自分は自覚なくとも守護霊が抗議にいく。いや、師匠は語られないだけで、きっとそれ以上もしたのだろう。
自らの心を見つめ、守護霊と同通するレベルになる。それが幸福の科学会員の当座の目標であるが、それはすなわち、「より自らの心を知る」ということにつきるのだ。
私は恥をしのんでこれを書いた。
どうか私のようにならないでほしい。
自らを省みない一方的な「正義感」や「自分に言い分があると思われる意見」が、たとえ敵意がなくとも、
それ自体によって相手に毒矢を射ているのだということを。
驕ってはいけない。
「私に、その言い分を持つほどの実績があるか」をまず問え。
心とは難しい。
だからこそ、幾たびもの過ちを見つめながら、心を探究するのだろう。
悟りたいと願う。
(・∀・)
ちなみに師匠はごくフツーの幸福の科学会員で、ごくフツーのおばちゃんで、私のマッサージの先生です。好物はカニと辛いのです。(客商売なんでキムチは不可)
師匠好きなそこのあなた、師匠に貢ぎ物をもっていくときはカニにしたまへ。(笑)
最近ブログにきた人に「師匠って誰ですか?」とよくきかれるので。
隊長は某神社の神主さんです。幸福の科学とは関係ありません。48歳、既婚、絶倫です。
え?きいてない?
さて、そんな師匠との日々で、私が学んだことが一つある。
それは「守護霊は自分の分身であり、決してカンペキではない」ということ。
そして「守護霊も自分も、相手を霊的に一方的に傷つけることがある」ということだった。
ある日、師匠に突然呼び出された私。
「アマちゃん、私に不平不満があるならちゃんと言いなさい!」
いきなり説教をいただきました。
私は「なんのことですか?( ゚Д゚)ポカーン」状態。
この意味がわかるのは一ヶ月後のことでした。
一ヶ月後、あることがきっかけに私は師匠に対し不平不満のカタマリになったんですね。
不平不満というより、もう「被害妄想」状態ですね。
「こんなにやってるのに師匠はわかってくれない!師匠は私がにくいんだ!」となるわけですね。
もう、心は煮え湯を飲んだ状態となり、被害妄想で精神的に暴風雨です。
こうなると、もう自分でどう反省しようとしてもムリです。
このときはハッキリ言って、師匠にいただく言葉のすべてにいちいち口答えがでるんですね。「でも~」とか「私はこういうつもりで~」とかが入って、自己正当化と言い訳と責任転嫁の嵐です。
結局、その被害妄想の呪縛を解くにはただ一つ。
「自分の言い分をすべて捨て、師匠の見識(師匠の教え)をすべて受け入れる」
これしかありませんでした。その場では納得しがたい師匠の見識を、全部受け入れるんです。
とても不思議なことに「私の言い分もわかってほしい!」と思っていたときには心は泥沼なのに、
清水の舞台から飛び降りる気持ちで自分の言い分を捨て、
「師匠の見識にすべてを委ねます!」
と決めた途端、目の前が「パン!!」と晴れるのはなんとも言えない感覚でした。
これは結局「我」を捨てることで、「つかんでいた執着」(+ここに憑いてた悪霊)を捨てたんですね。
自分の言い分や「私の気持ちを理解してほしい」という思いさえも『執着』なのだと知った瞬間は大変な驚きであり、また、
「師匠の見識を受け入れた」と同時に「パン!」と視界が晴れ、自分が招いた因果の全体が見え、自分の過ちがキレイに見えたときの恥ずかしさと不思議な清々しさは、とても言い表すことができないものでした。
反省をしようと思ってもできない方、最終手段として「自分の言い分をすべて捨て」て「大いなる見識(教え)に自らを全託する」ことはとても大事です。
自分が納得できるできないは別として、やはり「自分より認識の高い人の意見が正しい」んですね。
アマミちゃんオヌヌメだっちゃよ☆
(・∀・)
さて、師匠はどうして私が不平不満の蓄積から被害妄想のカタマリになると一ヶ月前にわかったのでしょう。
それは、なんと私の守護霊が一ヶ月も前に「不平不満のカタマリとなって、師匠に抗議にいった」そうなんです。
それはどういうことかというと、守護霊というのは潜在意識とつながってるといわれますね。
たとえば、コップがあります。コップの七分目までが潜在意識で、そこから上が顕在意識(自分で自覚できる心)だとします。
そこに一滴ずつ不平不満がたまると、三分目と半分まできたときに、守護霊としてはもう精神領域の半分まで不平不満がたまってしまったので、たまらず行動を起こすわけです。
しかし当の本人は、七分目まで不平不満がたまるまで一ヶ月間自覚なく、あるときをきっかけに七分目からあふれたときに、すでに心の七割が不平不満に支配されていることが急激に自覚され、「ここまで不平不満がたまったのはお前のせいだ!」と被害妄想に囚われてしまったというわけですね。
「一ヶ月前から夜中になるとときどきアマちゃんの顔がとんできて、私にわーっと文句をぶつけていたのよ。ある程度きいてあげると落ち着いて帰るんだけど、アマちゃんが気持ちが揺れたりするとまた文句を言いに来るの。あれはアマちゃんの念というより、守護霊さんなのね。(寝ているときには潜在意識が解放されるので、守護霊さんが野放しになるらしい)
アマちゃん、ちゃんと仏法真理を学びなさいね。ちゃんと心を見つめるのよ。守護霊さんは、自分で制御するの。アマちゃんの潜在意識が、守護霊さんなんだからね」
師匠によると、守護霊とは別に、師匠の説教に対し私の反発の念が刀になって斬りつけてきたことも度々あったのだという。もちろん師匠はその場合霊的に無事ではすまない。しかし師匠は「返すこともできたけれど、返すとアマちゃんが倒れるから」と、そのまま受け止めてくださったのだという。
師匠・・・・本当に申し訳ありません・・・・。
。・゚・(ノД`)・゚・。
自らの心に盲目であるということが、どれほどおそろしいかということを、私は師匠により学ばせていただきました。
敬愛する方へさえも、反発を抱けば念の刀で斬りつけ、不平不満がたまれば自分は自覚なくとも守護霊が抗議にいく。いや、師匠は語られないだけで、きっとそれ以上もしたのだろう。
自らの心を見つめ、守護霊と同通するレベルになる。それが幸福の科学会員の当座の目標であるが、それはすなわち、「より自らの心を知る」ということにつきるのだ。
私は恥をしのんでこれを書いた。
どうか私のようにならないでほしい。
自らを省みない一方的な「正義感」や「自分に言い分があると思われる意見」が、たとえ敵意がなくとも、
それ自体によって相手に毒矢を射ているのだということを。
驕ってはいけない。
「私に、その言い分を持つほどの実績があるか」をまず問え。
心とは難しい。
だからこそ、幾たびもの過ちを見つめながら、心を探究するのだろう。
悟りたいと願う。
Posted by アマミちゃん(野崎りの) at 11:52│Comments(6)
この記事へのコメント
師匠は大川隆法総裁、隊長はどこかの館長だとばっかり思ってました(笑 ☆
Posted by 陽気なジェノバ at 2011年10月12日 12:16
アマミキョさん、師匠さんに出会えてよかったですね!
Posted by ぶどうぐみ at 2011年10月12日 13:13
自我とはまことにやっかいなものです(笑)
でも、自我に気付く事が全ての始まりでもありますから、まずは気付けるだけでも有難い事です。
人は、自分の事になるととたんに目くらましですからね。
でも、自我に気付く事が全ての始まりでもありますから、まずは気付けるだけでも有難い事です。
人は、自分の事になるととたんに目くらましですからね。
Posted by こすもす at 2011年10月12日 13:51
>陽気なジェノバさん
ははははは、師匠どんだけ~(笑)
>ぶどうぐみさん
ありがとうございます!本当にそう思います!
(´;ω;`)
ははははは、師匠どんだけ~(笑)
>ぶどうぐみさん
ありがとうございます!本当にそう思います!
(´;ω;`)
Posted by アマミキョ
at 2011年10月12日 13:52

>こすもすさん
本当にそうですね。
自分では直視できない自我を指摘してくださる方との出会いは本当にありがたいと思います。
本当にそうですね。
自分では直視できない自我を指摘してくださる方との出会いは本当にありがたいと思います。
Posted by アマミキョ
at 2011年10月12日 13:54

こだわりをすてる、ということ、なかなか難しいです。
わたしも、風にのる雲のごとく、流れる水のごとく、
しなやかな、やわらかな心をもちたいと思います。
わたしも、風にのる雲のごとく、流れる水のごとく、
しなやかな、やわらかな心をもちたいと思います。
Posted by iio at 2011年10月13日 10:14
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